味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

順にして之れを安んず。

2015-01-24 13:35:47 | ブログ
第2219号 27.01.24(土)
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順にして之れを安んず。『忠経』
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 安らかということは万人の望むところではあるが、君子は、その安きを求めるために、まず道に順い、それによって安きを得る。290
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 【コメント】今日の学問館は吉野からもおいでくださいました。荘内南洲会の先生方を御迎えするための資料づくりに大わらわです。お蔭で元気なのだと思います。
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『大学味講』(第57回)
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 〇「我づくり」の意味はわかりましたが、では、どうすればその「我づくり」が出来るのでしょうか。
 ”「我づくり」は「我知り」だけでは出来るものではありませんから、単に知識的にそれを知っただけではいけません。自分で実行し、努力して、よりよき我をつくっていかねばならないのです。そのために大事なことをしぼれば、次の四項目となるでありましょう。
 一、自分の足りない所を自覚する。
 二、それを改めようと努力する。
 三、よき師友を求める。
 四、継続的努力をする。
まあ、この四つを行うことでしょうね”

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『論語』(第157)
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 子顔淵に謂って曰はく、「之を用ふれば則ち行ひ、之を舎つれば則ち蔵(かく)る。惟我と爾と是あるか。」子路曰はく、「子三軍を行らば則ち誰と与にする。」子曰はく、「暴虎馮河、死して悔なき者は、吾与にせざるなり。必ずや事に臨んで懼れ、謀を好んで成さん者なり。」
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 孔子が顔淵に向って、「自分を認めて用いてくれるものがあれば、出でて我が道を行い、世の中から見捨てられた場合は、抱負を心の中にひそめて、じっと隠れる。かく、出処処進退の宜しきを得るのは、まず、わしとお前ぐらいのものかなぁ」といった。
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 すると、子路がやきもち気味で、進み出て、「もし先生が大軍を動かす場合は、いったい誰と一緒にこれをなさいますか」と、尋ねた。(すなわち、子路の心中では、道を行う場合は顔淵でも、軍事の場合は、この武勇の力のある子路でなくてはなるまいという気持ちがあった。)
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 孔子が子路をたしなめて言うには、「虎を素手で打ったり、黄河のような大川を徒歩で渡ろうとしたりして、死んでも後悔しないような者とは、私は行動を友にしない。軍の事に臨んでは、おそれている如く慎重にやり、十分計画をめぐらして、それを遂行し、成功させるような思慮深い者と、事を共にしたいと思う。匹夫の勇は私の友ではないよ」と。

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『農士道』(第41回)
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 次に私共の生活様式を見るに、衣食住に就いて生活必用線的な素朴なる生活が「質」であり、それが人智の進歩と共に向上し発達して、相當に文明の利器の活用も出来るやうになれば、其処に所謂文化生活を生じて来る。是れ即ち「文」である。然し人間の欲望には際限が無く「隴を得て復た蜀を望む」もので、遂に己が身分や境遇の如何も忘れて贅沢三昧の生活に耽けるやうになれば、そは已に浮文である。
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 今日一度都会の百貨店等に入って見れば如何にこの浮華な贅沢物の多いかを見て一驚することであらう。之に對して、其の反動的現象として起って来る生活が「人間らしき生活」を没却してまでも素略な生活を強いんとする、寧ろ「粗野」とも謂ふべき瀆武頑固な行き方である。例えば婚礼は夫婦の契りを誓ふ精神的の儀式である。其の儀式さえ行へば三々九度の盃を始め、披露の宴でも水を飲んで結構だ。飲食などいふことは意味の無いこと、全然行る必要がない。着物も之と同様だ。礼服などいうは皆虚礼である。土の附いた野良着で結構だ----といふ類である。

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