味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

今朝空港へ娘を送って行きました。

2011-03-31 10:27:01 | ブログ

タイトル---今朝空港へ娘を送って行きました。第798号 23.03.31(木)

 地震発生に伴い、東京在住の娘が一時帰省していたのですが、東京へ帰るということで、今朝空港まで送ってきました。往路は高速道路利用で復路は一般道路を通りました。

 80キロ制限の高速道路で、軽車両が普通車を猛スピードで追い越していくのを見てどうにかならないものか、と考えさせられました。多分130キロ程度の速度ではないかと思うのです。10台以上でした。取り締まりで罰金を課し、安全運転をするよう督励して欲しいものです。

 こういう車両が憎くて言っているのではないのです。軽車両は普通車に比べ、安全性に乏しいからです。万一事故が発生したら死亡事故につながりかねないからです。そして多額の金が要るからです。

 昨日の新聞報道によると、単車に子どもたちが3人のり、信号無視をして交差点に入り、トラックと衝突し一人が重傷をおったと報道されました。このように怪我をしてからでは遅いのです。怪我をしてから警察車両が無理に追いかけてきたなどと言っても、これは後のまつりです。保護者は厳しく指導した方がいいと思います。

 さて帰りに、中村天風師の『成功の実現』を聞きながら運転してきました。健康で長生きしたい人は是非お読みください。何回聞いてもいいなぁ、と思います。

 その中で「取りこし苦労をするな」(P41)というのがあります。読む時は理解し自覚し、ヨシと思っても、人間すぐ忘れてしまいがちです。私は老人だし特に忘れてしまうのです。だから、運転するときは自分で録音したものを必ず聞くことにしています。

 ここのくだりは、健康で長生きしたい人は「積極的に人生を歩きなさい」というところです。取りこし苦労をするということは消極的であると言うことです。

 72年間生きてきて、多くの宗教等々の講演会にも参加してきました。私がお薦めしたいのは天風師の教えです。天風師の教えは最高だと思います。これは書籍を購入し一人で実践できるからです。後で金の請求がないからです。

 多くの新興宗教は金集めが目的です。だから全国にご立派な会館が出来るのです。信者は貧しくてご本尊様だけ大金持ちになり贅沢三昧しているのです。そして病気が治癒しないとお布施が少ないからだと言われ、借金までして納めるのです。少なくとも賢明な人はこういう詐欺師的なものには入信いないと思うのですが。

 ご自分の人生は、自分で堅固に創っていきたいものです。そのためには学びましょう。学歴等々人様に誇れるものはありませんが、一心不乱に学問を重ねてきました。これほど楽しいものはない、という域に到達しました。出来栄えのほどは別ですが。

 折角の人生、やってみましょう。圭悠の母上様、テープを聞く時間がありますか。いろいろご多忙だとは存じますが。


『酔古堂剣掃』より紹介。

2011-03-23 13:55:28 | ブログ

タイトル----『酔古堂剣掃』より紹介。第789号 23.03.23(水)

 安岡正篤著「人間至宝の生き方」への箴言集

 『酔古堂剣掃』

 『酔古堂剣掃』は、明末の読書人・陸紹こうが長年愛読した典籍の中から、会心の名言・嘉句を収録した出色の読書録です。

 私がこの書を購入したのは平成十四年のことでした。安岡先生の著書は案内されるたび購入し続けてきました。私の書棚は安岡先生の書で埋め尽くされています。難解ですが読み続けて行く内理解できるようになってきますので、是非購入しお読み戴くようお勧めします。

 足るを知る虚無感

〈居処は我が生を寄す。但だ其の地を得んのみ。高広に在らず。衣服は吾が体を被う。但だ其の時に順うのみ。紈綺に在らず。〉

 「居処は我が生を寄す」、居住する所は自分の生活・生命をちょっと預けておく所であるから、ただ良い土地でさえあれば足りるのであって、敢えて見晴らしのよい高い広い土地など必要としない。「衣服は吾が体を被う」、その時に順うのみで紈綺にあるものではない。贅沢な絹だとか美服というような、そんなものではない。時に順うものである。」

 とにかく贅沢をせず、生きていける程度であればいいではないかと言うのです。

 最近、しきりに宰相論というものが話題になり、いろいろな会合で話が弾んでいるが、古来の名宰相と言われたような人を深く観察してみると、共通して良い意味の無常観がある。良い意味の虚無感を持っています。

 例えば、宰相になって得意になるような人、宰相になって非常に派手にやるというような人は、名宰相の中には入らぬ。本当の宰相は共通して、宰相たることに淡々としておる。

 日本の近代で言えば、明治維新を成し遂げた西郷南洲が最も代表的な人でしょう。西郷という人は、名誉だとか地位だとか権勢だとか、そういうものを誇るということが一つもなかった。淡々として、どうかすると、非常に虚無的であった。

 現代の日本の政治家とか経営者はその地位に就くと、嬉々としてうれしがる。---田中角栄さんが宰相学を学んでいたら、これは偉くなったと思う。国民の大人気になる人だった。惜しいかな、彼はそういう学問をやりませんでした。  (P66)

 以前、自民党の甘野(仮名)大臣が指名を受けた時の姿がテレビで報道されました。その時の顔をみて、これは駄目だと思い、そのくだりをブログで書いたことがあります。

 そして現宰相にしてもニコニコして明日遠足に行くような顔をしていますが、二人とも厳粛さが感じられない。人間としての器の問題といえるでしょう。

 ここのくだりを読み、考えていたことが重なりホッとしたことがあります。思うに「足るを知る」ということは、人生での生きるよろこびにつながると思います。


「至誠」とは何か。『孟子』

2011-03-20 13:18:30 | ブログ

タイトル---「至誠」とは何か。『孟子』  第787号 23.03.20(日)

 「至誠」とは何か。

 至誠という言葉は今日、ふるめかしい言葉であるとして使用されていないようです。でも、人間社会では、効用のある言葉だといっていいでしょう。

 至誠とは、この上もなく誠実なこと、まごころ、ということです。

 多くの人と住むこの社会では、競争原理は当然必要ですが、そこには一定の規範とか、規則あるいは情理というものがなくてはならないと思います。それは人間は、萬物の霊長と言われているからです。

 そういった約定なくしては、権力とか利権を手に入れようとして人と人が衝突し、争いが発生するからです。卑近な例が中東で発生している独裁者と国民との軍事衝突も事象のひとつとしてあげられると思います。

 ここで大事なことが、至誠ということです。

 『孟子』〔離婁上〕には、次の言葉がある。

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 「身に誠なるに道あり。善に明らかならざれば、其の身に誠ならず。是の故に誠は、天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり。誠ならずして、未だ能く動かす者は有らざるなり」(『孟子』離婁上)

 その身を誠にするには、一つの方法がある。それは是非善悪を明らかにわきまえなければ、到底わが身をいつわりなく誠にする事は出来ない。

 このように誠こそは、真実無妄の天性から出る自然の道理であり、万事の根本である。この誠をば十分に発揮しようと思い努力するのが、つまり人間の道なのである。

 この上もなく誠実に、真心をつくしていけば天下に感動させることの出来ないものはないし、また、至誠でなくうそいつわりで人をよく感動させることの出来るものは決してないのである。

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 日本の政治家についても、一言考えて貰いたいものです。政権がコロコロ変わるのはよくないと言われているが、その通りでしょう。でも、託するに足る政党だとして投票しても国民の期待を裏切り、あらぬ方向へ誘導するような場合、国民は強力な抵抗を試みなければ国家そのものが崩壊するということです。

 そうした場合、中東の二の舞になりかねないのです。金をバラマキ権力を手にし、国体を改変することがあってはならないのです。

 それは明治維新前夜、流血事件があったように国内での内紛ともなりかねないと思料します。国家は一政治家のものではなく、国民のものなのです。支持率が下がったら潔く身を退くべきが至誠ある態度というものでしょう。

 それを拒み、国家崩壊への道を選択した場合、張本人は歴史的に断罪されることでしょう。先般発生した東北地震の災害復旧に、身命を賭して奮励している人々の崇高な、至誠あふるる行動の一滴でも真似て欲しいものです。


使命感とは何か。

2011-03-20 11:28:10 | ブログ

タイトル---使命感とは何か。第786号 23.03.20(日)

 使命感とは何か。

 使命とは、「その人に必ず果たすべきものとして与えられた任務」ということです。

 人間は生まれながらにして、人としての任務・役割を果たすようその才能を天から授けられていると言う。だから、学びをより深くして人間社会での生きざまを存分に発揮し、人さまのお役に立つと同時に、仕事等を通じてその任務・役割を遂行出来れば、使命感が達成されたと言っていいでしょう。

 その任務・役割を達成する要件として、人々が、社会が、その任務・役割を認め、あるいは成果があったとして評価されなければ、自己満足だけでは使命感を達成出来たとはいえないと思います。

『論語』〔雍也〕にはこんな言葉がある。

「子曰く、回其の心三月仁に違わず。其の餘は則ち日に月に至るのみ」 

 顔回は幾月も継続してその心に私慾を持たず、仁の徳に背くところがない。その他の弟子たちはその心があるいは日に一度か、或いは月に一度仁に至るだけで、長続きがせずすぐ脱線してしまう。

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 人は始める時には威勢よく取り組むのだが、継続が伴わない場合が多い。これでは何事をも為し得ることは出来ない。これらはまさしく自己との闘いであるので、克己の修養を踏まえ目標を完成させることが出来たとき、使命感を達成した喜びに浸ることが出来るのだと思います。

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 普通の人は普通の人なりの、官僚は官僚なりの、政治家は政治家なりの任務・役割を果たすことが出来たとき、調和のとれた社会となり、人々の慶び、これに勝るものはないと思います。