味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

克己の進め方。

2012-05-31 13:14:54 | ブログ

タイトル---克己の進め方。第1260号 24.5.31(木)

 

 克己の進め方
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 身を修める為の克己は、当然己次第ということになるが、苦しい時の我慢の仕方のようにも思われるが、苦しくなった時に適当に対処することも一方法ではあるが、それでは仲々防ぎ切れなくなるので、そうでなく何時どんなことがあっても、決して負けないという信念を持って日頃鍛えておる力に自信をもって乗り切ることが最善のことでいう翁の教えである。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)

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〔コメント〕 これはブログ第1258号と連続してお読み戴けたらと存じます。『修身教授録』ではここのところを「意地と凝り性」のところで詳しく解説しています。〈何くそ!  負けるものか。今に勝ってみせるぞ!  というふうに、人を相手として現われる負けじ魂の根性をいう〉とあります。日常の腹の据え方、座禅をしたりクンバハカをすることが肝要でしょう。

 

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 拙歌をひとつ

   肉体が朽ち果てた後も世の人が 

              慕いて仰ぐ鑑なれよと

 

 

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足もとの紙クズを。

2012-05-30 11:11:33 | ブログ

タイトル---足もとの紙クズを。第1259号 24.5.30(水)

 

 足もとの紙クズを

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 廊下の紙屑というものは、それを見つけた人が拾ってやるまで、いつまでもそこに待っているものです。もっともこれは、紙屑を拾うように努めている人だけが知っている消息なんですが----。このように世の中には、実践しなければ分からない世界が限りなくあるようです。

 足もとの紙クズを拾う点では人後に落ちないつもりです。神戸大学七年間は、就任の翌日から退職のその日まで、見つかった紙クズは凡て拾ったですね。(「不尽片言」)

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 拙宅(寺田先生)にお立ち寄りいただきました深夜、お見送りの途中、残置灯のみの薄暗い商店街において、心なき人のいたずらか、ポリバケツから道路にあふれ出た生ゴミを、両手でさっと拾いあつめ、元のごとくに蓋をして立ち去られたとっさの行動は、今も忘れ難いものです。(寺田一清編『森信三のことば』)

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〔コメント〕 このところを読んでショックにも似た感慨を覚えました。森先生と云えば上に立つ偉い人です。そういう偉い先生が、「とっさにとった行動」に驚き感動しました。例えば総理大臣がそういうことをするでしょうか。為政者の先生方は、立派なことを言いますが、森先生みたいに人々に感動を与える行動を自ら実践できるでしょうか。市民運動家の偉い地位についていた先生は如何でしょうか。

 私は以前から見習って実践しています。現在、町美化パトロール(MBP)の役を仰せつかっています。今朝はゴミステーションの網を固定している紐が摩耗していましたので取り替えて参りました。

今日の拙歌

 

  生き抜こう大決心を胸に秘め 

         真の修養刻め日々にと

 

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人は第一の宝である。

2012-05-28 15:07:01 | ブログ

タイトル---人は第一の宝である。第1257号 24.05.28(月)

 

 人は第一の宝である。

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 何をするにもすべて人物が第一である。人物こそが制度方法を生かす宝である。すべては人間次第で立派に生きるか、無益の邪魔ものに終わるかがきまるのである。

 中庸の中で教えられておる如く、「文武の政(まつりごと)は布(し)きて方策にあり。その人存すれば即ちその政挙り、其の人亡ずれば即ちその政息(や)む」と全く同じ意味のことである。清朝の名宰相といわれた曾国藩が永い総理大臣の在任中に於いて最大の課題は人を得ることであり、その他のことは覚え止める程のことはなかったと反省して申された。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)

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〔コメント〕 暁の学問館(今日で50回目)で拝読する『南洲翁遺訓』は一種、趣が変わって胸にせまってくるようです。今朝拝読した『修身教授録』の「意地と凝り性」も迚も素晴らしい内容でした。昨夜は健康ランドを歩きながら天風師の『運命を拓く』を聴きながら、森信三先生のお教えと重複してくるのが印象的でした。

 天風師は失礼ながら言葉の文言そのものが違っているところがありますが、それは仕方ないと思います。 でも言わんとする処は同じなのです。天風師は真理を学んでいるし、森先生は和洋すべての書を渉猟していると思われるからです。

 それにしても、文明と云う美名をちらつかせながら思想を捻転させてきた書き手の柄は罪深いものがあると思います。それをまた、そういう思考に洗脳されたやに思われる人々の援護射撃が人々の理解をも混同させているような気がするのです。

 ではどうすれば、そういう悪弊に惑わされずに済むかというと、原点に迫る以外にないということでしょう。

 今日の拙歌をひとつ。私自身も意気地はないですが。

  (こころざし)狭小なるは意気地なし 

           尊徳松陰見習えぞかし

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日本の大きな改革。

2012-05-26 13:04:59 | ブログ

タイトル---日本の大きな改革。第1255号 24.05.26(土)

 

 日本の大きな改革

 我が国も歴史的には改革の連鎖で発展してきたのである。三大改革といわれておるのは一は、大化の改新、二は、建武中興、三は、明治維新である。同じ改革といっても、内部的な改革と外部的なものと、両面同時進行のものも当然ある。

 明治の改革はまさに両面的なものであった。何れの改革にあたっても忘れてならないのは、先づ我が国の本体を据え、徐かに斟酌しながら進めるという事であると思われる。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』・原文のまま)

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 〔コメント〕 今日、大改革をして欲しいと思っておられる方々は多くいらっしゃると思います。半世紀独善的に政権を欲しいままにしてきた政党に代わって、純粋無垢な方々が政権を担当するようになったと仰る知識人がいました。でも、全く変わり映えのしない、寧ろ以前より悪くなったと言われる人が多いような気が致します。

 大金持ちのお坊ちゃんが、苦労もしたこともない、教育ママ的母親に育てられ、世の何たるやも分からない人が権力を握ってママゴト的だったと言う人もおられました。

 その昔(20年位前)、「政治は最高の道徳である」というテレビコラムでNHKの家城啓一郎(?)氏が話したことがございましたが、道徳どころか数億円の金を手品師みたいに右へ左へ動かしている人もいるようです。それは法律に抵触しないまでも、道義上、道徳上好ましいことではないと思うのですが、政治家の先生方は何も感じないのでしょうか。

 この事象は暴動が起きてもおかしくないくらいだと思うのですが、賢明な日本国民はグッとこらえているのだと思います。

 ここで日本の大きな改革に是非一つ、付け加えて戴きたいものです。老い先短い老人の私はそれのみを念じています。文武の館で、小さな子供たちに、大きな人間になってほしいと念じて『南洲翁遺訓』等を教えているのです。

 昨夕は、健康ランドのジャングルを天風師の「運命を拓く」と、スマイルズの「自助論」を聴きながら歩きました。暑いのにそういうことをするのは私だけなのですが、高齢者ももっと真剣に考えて貰いたいものです。自らが発憤すれば若者には負けないのです。それは過去培ってきたノウハウがあるからです。

 お迎えを待っているだけでは、折角生まれてきた甲斐はないと思うのですが。森信三先生も『修身教授録』の中でそのように申しておられます。

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 今日の言葉 

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   東洋の易の哲学陰陽の 

                相対理法これ天の訓

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身を以て斃れる。

2012-05-23 11:16:52 | ブログ

タイトル---身を以て斃れる。第1252号 24.05.23(水)

  国が辱かしめられたら、身を以て斃れる

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 明治初期の我が国を取り巻く国際情勢は異常なものであった。日本が鎖国を改め外国に目を開いた時の驚きは尋常なものではなかった。見るもの、聞くものすべてが珍しく、そして自分たちより素晴らしいものであると錯覚をした。その為に外国の言いなり、外国を手本にというような気風が生まれておった。それが日本の指導者を弱腰にすることにもなったと思われる。

 国民が弱くなり、政治家も弱くなる。それは日本という国家が弱くなるという結果となる。それは困るというので政府の本務と共に國を以て斃れるの気概を強調されたものであると思う。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)

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 〔コメント〕 全く同感であります。平和と繁栄はある種、亡国への道でもあるのではないかと考えています。現政権の小〇〇氏が欧米諸国ではそれが常識だ、みたいなことを言ったことがあります。それを聞いて反論のブログを書いたことがありました。

 国にはそれぞれのアイデンティティがあるのです。民族の精神文化があるのです。それを同次元で論じるのは如何かと思うのです。

 だから昨日も書きましたが、『南洲翁遺訓』を座右の書としてください。大人にも難解でありますが、読書百篇--という言葉があるように理解できるのです。『南洲翁遺訓』で言及していることを、『修身教授録』『貞観政要』でも同様に説いているのです。

 偉い政治家の先生は「不退転の決意」でと言っていますが、不退転の決意で日本を亡国の道へと導いているような気がしてならないのです。そういうのを口先三寸と云うのではないのでしょうか。先の、先の偉い方もそうであったようにお見受け致しました。

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