味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

奢る者は富みて、而も足らず。

2016-10-31 09:59:16 | ブログ
第2862号 28.10.31(月)
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奢る者は富みて、而も足らず。何ぞ倹なる者の貧にして、而も余りあるに如かんや。『菜根譚』
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 ぜいたくな上にもぜいたくを求める人間は、いくら富者の境遇にあっても、その心は貧しく、常に足りない足りないと感じる。
 それよりはむしろ、倹約して、貧乏はしても、精神に余裕ある生活をすることのほうが勝っている。
 たとえ富んでいてもほしい、ほしいと考える人間は、貧しい人よりも人間として貧しいのである。565

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 【コメント】私の足りないのは学問であります。私なりに、本を読み筆写することを長年やってまいりましたが、まだまだ足りないと思っています。
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 昨日は東京のどまん中で、若い方々がお化粧したりとかパフォーマンスをしたのがテレビ報道されましたが、他人様に危害を加えることでなければ、大いに楽しんで欲しいと思っています。
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 長い人生では、いろいろなことがありますが、二度とない人生、漢籍を繙き、『論語・礼記・書経・詩経』等々の世界も逍遥してもらいたいものです。

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『臥牛菅実秀』(第397回)
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 戊辰戦争後、鶴ケ岡城の瓦が開墾場の蚕室に活用されたように、鶴岡市青竜寺川のほとりにあった松岡製糸所の事務所が戦時中に松ヶ岡航空株式会社の事務所に転用されていたものを、さらに開墾場本陣前の池畔に移築し、含翠寮と名づけられて、教育の道場に生かされたのであった。
 この学寮で学んだ多くの青年たちは、東北振興の柱石となるべく、それぞれの道に励んでいるのである。
                   
       (三)

 時代は明治十年代に戻って、このころ実秀は銀行の設立を企図していた。これが明治十一年九月に誕生した第六十七国立銀行である。場所は鶴岡三日町(現在の荘内銀行本店の所在地)であった。ここは旧藩時代の御使者宿で、その建物をそのまま店舗に転用したものだけに、九尺床のついた立派な部屋があり、通りに面した角には物見窓がついているといった建物であった。  

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貧にしては其の取らざる所を視る。

2016-10-30 10:08:30 | ブログ
第2861号 28.10.30(日)
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貧にしては其の取らざる所を視る。『史記』
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 貧乏になったときには、その人が不正な物を手に入れるか否かを観察する。人物判定の一方法。642 
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 【コメント】大事なことなのですが、歳若い人には分らないと思います。とにかくお腹がすいて何かたべたいと思う時は、是非善悪を考慮する精神的余裕はないと思います。
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 歳を重ね、世の事象の判別が出来るようになってから、さてどうするかということだろうと思います。10日くらい何も食べなくても死なないということをお聞きしますが、それに耐えられるか、難しい問題です。
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 森信三著『幻の講話』という本があります。この中に、日本でも有名な学者の方が、晩年を覚り、学びたい本を袋に入れ、そして当面の食糧も袋に入れ、本と食糧をかついで、人里離れた山奥に行き、そこで生活し、人生を終えたというのを読みました。余程の哲学の持ち主でないとこういうことは出来ないと思います。
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 昨夜の空手道教室も賑わいました。子供たちの成長をとても嬉しく思います。先にブログにも書きましたが、ふざけっ子君がお休みしました。他意がなければいいのですが。
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 子供は強く正しく育てなければならないと思います。強くというのは自分に厳しくという意味です。お医者さんになりたいという子供の父親が曰はく、難題にぶつかった場合に、直ぐくじけるという言い方をされましたが、小学2年生はまだまだ子供ですから、誉めたり激励したりとして育てなければならないと思います。
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 ふざけっ子君にしても、母親さんにしても、現代社会が産んだ悲劇のひとつかも知れません。要はこれから先、人に失礼なことをしないこと、そして集団暴行を受けるような子供にならないことが大事でしょう。
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 子供を一人しか産んでいない今時の母親にはそれは理解できないと思います。私の空手道教室みたいに、集団で修身をする、それも優しさと厳しさを交えて育てなければなりません。
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 子供が自殺したりとか、殺されたりしてはならないと思います。そういった意味では躾教育は大事なのです。
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 昨夜のおけいこでは、山口ゆうりさんに号令をかけてもらいました。ちぐはぐながらどうにかできました。
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 3歳児・上山昭太郎くんも見えました。お坐りもできない、ハイという返事もいえない子供であっても、少しずつなれて行くと思います。
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 警察官志望の恵士くんにも、如何なることがあっても、耐え忍ぶのだということを言い聞かせました。
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 赤尾 敏氏の銘である由美氏の『民進党(笑い)』という本を読み始めました。この本で指摘する言葉遊びでなく、世の人々が納得する政治をして貰いたいものです。

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『臥牛菅実秀』(第396回)
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 しかし開墾場の人々は決して屈しはしなかった。西郷隆盛が開墾士に送った『気節凌霜天地知』----宋・曾鞏(そうきょう)の詩句---の一句は決して脈々と生きつづけて、今日の開墾場に盛り上げていったのである。
 居住者三百六十人、戸数六十五戸、水田九十三町歩、畑百三町歩、山林四十町歩、これが松ヶ岡開墾場の現状であるが、開墾場の人々は、原生林に開拓の斧をふるった父祖の精神を承け継いで、新しい農業経営の開発に、より深い心田の開拓にいそしんでいるのである。
 なお昭和二十年の秋、終戦直後の混迷と窮乏のさなかにも新生日本の柱石となるべき青年の育成を目指して、新しい塾をこの開墾場の中に創設する計画が成った。今日の財団法人東北振興研修所である。

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文を以て友を会す。『論語』

2016-10-29 11:32:46 | ブログ
第2860号 28.10.29(土)
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文を以て友を会す。『論語』
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 詩書礼学の学問を基にして友を集める。それが、修養を基本とする君子の交わりである。61
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 【コメント】『南洲翁遺訓』をはじめ古典を学びながら、空手道教室で子供たちと付き合っています。それを天が知ってのことなのでしょう。聖人と称してもよい素晴らしい人々が集ってくれます。大変有難く感謝をしています。
 次は『聖賢の訓戒』にご紹介する、一つの例です。

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天の将(まさ)に大任を是の人に降(くだ)さんとするや、必ず先づ其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨を労(ろう)せしめ、其の體膚(たいひ)を飢えしめ、其の身を空乏にし、行うところ其の為さんとする所に佛乱せしむ。『孟子』(告子章句下) 
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 「天がこの人に大なる任務を与えようとする時は、必ずまずその人の心や志を苦しませ、その筋骨を疲れるほど働かせ、その一身を窮乏させ、する事なす事、そのしようとする意図と食い違うような苦境に立たせる。こんなにもこの人を苦しめるのは、天がその人を発憤させ、その人の本性を忍耐強いものにし、今までよくする事の出来なかったものをなし得るように、その人の能力を増大せしめ、そして大任を負わせるに足る大人物にしようとするものである。」
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 数年前、ある小学校教師から、相談があるといって道場訪問がありました。特別支援学級の専門家である教師は、本校に席を置いたまま、指宿の小学校を拠点に界隈の小学校の教師たちに専門知識を教える指導を掌っていたのでした。任期の期間を終え、本校に帰ったら、仲間の教師たちが歓迎の宴を開催してくれました。仲間の方々は普段着でしたが、久々に本校に帰った教諭は失礼のなきようにと正装をして参加したのでした。少しく酒が回った頃、酒癖の良くない男が、着任した教諭のネクタイを引っ張りお前は何という態度だ、とクレームをつけたのでした。いきなりのクレームに吃驚した教諭は、どうしてよいか分からずパニックに陥りました。
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 翌朝、教諭は、出勤時間になってもグズグズして自宅を出ないものだから、夫人が何をしているのですか、と言いました。学校に行きたくない、仕事を辞めたいと夫人に言ったのです。そして昨夜の出来事をかいつまんで話ました。夫人は誰かに相談してみたらと助言をしました。そこで、知り合いの自動車会社の社長に相談に行きました。社長は一通り話を聞いたところで思案し、錦江台の空手道場に行き再度相談をしなさいとアドバイスをしてくれたのでした。
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 初めて道場にて対面した教諭は、清廉潔白を旨とする人格美豊かな人間性の持ち主だと直ぐわかりました。教諭は、懇親会の模様を詳細に飾ることなく話してくれました。話を聞いて、今時、こういう初心な先生がいたのかと思う程、純真そのものでした。幼少時から勉強一筋で、人と喧嘩をすることなく、誠に真面目な人生を歩いて来たと受け取りました。今時の先生は、労働運動などの行き過ぎで、人間性に首を傾げざるを得ない人が多い中、誠に真面目一筋に生きてきた人でした。一時間半位であろうか、一通り聞いてから、私は、
「おめでとうございました。」
 とお答えしたのです。それを聞いた教諭は、人が悩んでいる状況を話し相談に来たのに何という対応だ、という怪訝な顔をしました。そこで私は、先に書いた『孟子』の言葉を説明しました。
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 『孟子』に「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず其の心志を苦しめ----」という言葉があります。
 貴方の状況は、天が貴方に試練を与え、大人物にしようという天の導きだと思います。それらをグッと堪え、これからの人生に処してください、とお願いしたのでした。
 近来稀に見る教諭は、大変真面目にして英邁な教諭でした。あれから四年、拝見出来る人物像は、本件に執筆し始めた聖人の域そのものでした。こういう聖人と交流する機会を得た天のお恵みであったと感謝の念一入であります。『論語』に言う、「朋あり遠方より来る、また楽しからずや」とはこのことか、と私は反芻しました。
 このような素晴らしい人がどうして誕生したかと云うに、家庭環境がありました。ご令室様も小学校で同様に教鞭をとっているのでした。お互い相思相愛で結ばれた夫婦は、世間の人が羨むような甘い生活の中に、お互いの信頼の基調として厳しい日々を営んで来たのでした。
少しく永くなりましたが、ご海容賜りたく存じます。
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 多くの古典にこのような話題が満載されています。国家の方向性の舵とりが少しく迷走気味であるが、今後を明確にするため、今こそ漢籍を繙くことが大事だと思う次第です。おもてなしを基調としながらも、揺らぐことのない国家・大和であって欲しいものです。
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『臥牛菅実秀』(第395回)
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 大久保が林、赤沢に会ったのは明治十一年四月であったが、翌五月に麹町清水谷で島田一郎らに暗殺されてしまった。島田は元陸軍将校で、西郷に対する大久保の冷たい仕打ちに憤っていたものであった。
 大久保の死後、政府の産業政策は、これまでの官営事業、士族授産から民間資本の育成に転換していった。
 松ヶ岡開墾場は、このころをさかいにして守成期に入り、苦難と貧窮の時代が長く続いた。『下妻長順手控』を読んでみても、思わず溜息のでるような苦闘の日々であった。

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諸れを己れに有して、而る后に諸れを人に求む。

2016-10-28 09:46:54 | ブログ
第2859号 28.10.28(金)
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(こ)れを己れに有して、而る后(のち)に諸れを人に求む。『大学』
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 君子は、自分が仁を実行したうえではじめて、他人にも仁を行うことを求める。つまり、他に求めるには、まず自分が実行することである。
 小人はしばしばこれに反するものである。149

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 【コメント】解説では<他人にも仁を行うこを求める>とありますが、他人に求めずとも、自分が仁と思えるようなことを坦々と実行すればいいのではないかと思います。
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 人様へいろいろ言うと、うるさがられてトラブルに発展するからです。ただ子供たちには、嚙んで含めて教えることが大切だと思います。
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 昨夜の空手道教室も賑わいました。伊牟田先生から要請されている『南洲翁遺訓』発表会の資料をコピーして持って行きました。最初に来た正田宗一郎・三年生と妹・カナコ様・5歳に渡しました。
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 ところが5歳児・カナコ様がブリントを手に取り、スラスラと読むではないですか。流石に驚きました。世の中にはこういう優秀な人がいるのですね。
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 77歳の高齢者の私は、こういう素晴らし子供たちからエネルギーを貰っているのだと感謝の念、一入でした。
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 警察官になりたいという恵士君がやってきましたので、2年生には早いのですけど、少しくお話しました。
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 貴方が交差点で警らをしている時、お父さんが信号無視をしました。あなたはお父さんを逮捕しますか、という質問をしたのです。
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 恵士君は逮捕しますといいました。そこで、警察官は人をわけへだてなく、同じように扱かわなくてはなりません。いわゆるインチキをしたら自分に罰が跳ね返ってきます。とにかくまじめにすべきだと私は思います、と説明しました。
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 身内をかばい、知人をかばうなどしたら、自分の仕事を失いかねませんので、本人がしっかりしなければならないと思います、とお話しました。
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 今日の刑事事件の多発は何が原因なのでしょうか。良識・常識では考えられないのが増えていると思うのですが。

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『臥牛菅実秀』(第394回)
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 それに対して林、赤沢は、このたび開墾場を差出す決心をしたのは妨害に屈したからではない、われわれの誠意が政府に通ぜぬばかりか、かえって奸言が取りあげられて、いろいろ政府の嫌疑を受けてきた。このようなことでは、もともと労苦だけが多くて酬われることの少ない開墾に取組んでいる人たちを、この上、激励しようもないので、止むなく投げ出す決心をしたのである。われわれの精神のあるところが政府に通じ、政府でも今後、開墾士を猜忌しないなら、われわれとしても成功を期して精励するのは当然のことであるといった。
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 大久保は早速、三島県令に宛てて、松ヶ岡開墾場の成功に深く留意することを指示した通牒を発し、それを受けた三島県令の添書と二通を開墾士一同は受けとったのであった。
 このような経過をたどって開墾場の一切を投げ出すことは中止となったが、開墾士の中には、内務卿大久保が本当に開墾場を援助する意志があって、この通牒を出したのかと疑う者もあり、当初の意気込みを喪失して開墾事業から離脱していった者もすくなくなかった。

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自ら用うれば則ち小なり。

2016-10-27 09:55:45 | ブログ
第2858号 28.10.27(木)
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自ら用うれば則ち小なり。『書経』
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 他人の言を用いれば万事ゆたかになるが、自分だけの考えで行なう者は大事を成し遂げることは出来ない。219
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 【コメント】<他人の言を用うれば万事ゆたかになる>ことは大いにありますが、それだけでは万全ではありません。然し多くの意見は参考としたいものです。
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 とにかく実践したい人が、自分の思考で組立て行うべくきだと思います。そこに姑息で利を先にした考えは後々身を亡ぼすことになるのではないかと思います。
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 東京都の問題は尾を引いていますが、『太陽の季節』を書いた御仁は、自分のアプレを書いたのだという人がいますが、そうなのかも知れません。俺は書けるんだという思い上がりが、自分の醜い性を書いたのだとしたら、賢明とは言えません。
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 むしろ湯河原通いをしていたオジサンが良かったネという言葉を聞いて捧腹絶倒しました。そこにきたら、私がご尊敬申し上げている荘内の先生方は見事だし素晴らしい限りです。
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 そういう素晴らしいお手本が目の前にあったからこそ、『南洲翁遺訓』を広めるのに私は一緒懸命になっているのです。
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 私は連日『南洲翁遺訓』を書いたり、そして漢籍を書き写したりしていますが、これほど楽しくて有難いことはないと思っています。
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 西郷南洲翁も菅臥牛翁も必死に学んだのだと思います。英邁なお二人を知るためにも『礼記・書経』等々書き写してみたら如何でしょう。西郷南洲翁の地元の方々へ。

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『臥牛菅実秀』(第393回)
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 そこで林、赤沢は上京して内務小輔前島密に会い、『開墾地一切差出趣意書』を提出して、事情を説明した。
 この『趣意書』は、すこぶる長文のもので、開墾事業を創始した主旨から始まって、その間に起った金井一派の不純な策動を詳細に述べて、暗に不当な告訴を取りあげた政府を非難し、さらに西南戦争のときに、荘内士族を頭から敵扱いにして兵力をもって弾圧しようとした政府の態度に鋭く言及し、最後にこれ以上、政府に嫌疑をかけさせては憚り多いから、開墾地の一切をあげて政府に差出すことを決議したと神妙に結んだものであった。
 これは見ようによっては、きわめて皮肉な申出であり、守勢の中の痛烈な反撃でもあった。というのは、殖産興業、士族授産を政策の柱としている内務卿大久保として、これはどうしても受理すべき筋合いのものではないからである。
 大久保は林、赤沢に会った。そして、何分、荘内は遠隔の地にあるため事情の通じないことが多く、開墾士の憤慨しているのも無理はない。しかし政府としては士族授産については深く考慮しており、ことに自分は職務上、開墾事業が成功するよう指導する責任がある。したがって諸君の志望が達成するように援助しなければならないといった。そしてこのような大事業には、いろんな妨害がてるのは当然のことで、百折不撓の努力をして始めて成功するものだ、諸君はぜひ屈しないで勉励してほしいといった。
 (思うにこれは大久保の言訳のように思えるのですが。)
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