第3104号 29.06.30(金)
惟れ聖は性のままなる者、浩浩たる其の天、毫末(ごうまつ)をも加へずして、萬善足る。衆人は蚩蚩(しし)、物欲交交蔽ひ、乃ち其の網を頽(くづ)して、此の暴棄に安んず。惟れ聖斯に惻(あは)れみ、學を建て師を立て、以て其の根に培ひ、以て其の支を達す。
聖人の心は、その性の本来を保つものだから、かの浩浩たる天そのまま、人為も何も加えず、ただそれだけで、行為は十分に善である。衆人の心はそうはゆかない。その無知のために、間断なく生起する物質的欲望にさえぎられて、本来の作用を全うすることができず、最も尊貴な仁義礼智という人性の大綱をくずれさせてしまう。よって、その精神は弛緩し分裂し、遂に自己をそこない、自己を棄てる行為を繰り返す。この状態は、聖人の放任するに忍びない所である。よって、学校を建て、教師を置いて、これを導き、衆人の心性の根本を養い、その枝葉を伸ばしてやることとなった。
【コメント】解説にある<その無知のために、間断なく生起する物質的欲望にさえぎられて、----尊貴な仁義礼智という人性の大綱をくずれさせ-----精神は弛緩し分裂し、遂に自己をそこない、棄てる行為を繰り返す>とありますが、我々凡人から見ると高貴な世界で仕事をしている国会議員のオバサマの、極めて低次元の秘書いじめが話題になっていますが、感情の起伏を抑え理性ある行動をとってもらたいものであります。
そのオバサマの行為を庇うかのような細田総務会長の弁護は慎んでもらいたいものです。
当該本人は、自らの姿勢を正すためにも、『小学』『大学』を真摯に学んで欲しいものです。
昨夜は第二道場の空手道教室も賑わいました。議員のオバサマの例もあることから、子どもたちに、驕りたかぶることをしてはならないと言い含めました。これからの世に生きる人間には、こういう姿勢こそ大事なのですが、多くは当面の成績が良ければと思っていらっしゃるようです。
勿論健康な体の維持も大切なことではあります。
昨夜学んだ「古典の教え 三」の言葉は、
『論語』は、<礼を学ばざれば、以て立つことなし>と教えています。「礼は世に立つ根本であるから、この礼というものを学ばなければ、人間として世に立つ資格がない」というのです。真心のこもった礼で人との対応をしたいものです。
『春秋左氏伝』は、<己れを修めて人を責めざれば、難より免がる>と教えています。「自分自身修養をつんで、他人をせめたてなければ、危難からのがれることができる」というのです。人さまの悪口をいわず、読書をしたり、名文の筆写をするなどしたほうが賢明な生き方であると思います。
昨日は中澤先生にお礼のお手紙を投函しました。遅くなりまして申し訳なく思っています。
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『人としての生き方』(第58回)
ここで、言葉と実行というものについて『論語』の中から幾つか紹介しておきます。
里仁篇にあります。
君子は言を訥にして、行に敏ならんと欲す。
雄弁でなくとも、上手く言葉にあらわせなくとも、それよりも行動においては機敏でありたいということ。敏というのは、フルに活躍すること、最大限に発揮するということです。朴訥で言葉が足らなくとも、その行いを通じて信頼が出来るということです。
古者言(にしえことば)を之れ出さざるは、躬の逮(およ)ばざるを恥ずればなり。
昔の人が軽々に言葉というものを口にしなかったのは、実行が言葉に及ばないことを恥じたということです。要するに口ほどに出来ていないではないかとしうことですね。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第50回)
明治四年十月六日、西郷は鶴岡に帰る菅のために、深川佐賀町の伊東八兵衛宅で餞別会を開きました。このときは、滞京中の酒井忠篤、忠宝も同席したでしょう。黒田清隆もいたはずです。この会で西郷は、
幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し
丈夫玉砕するも甎全を愧ず
一家の遺事 人知るや否や
児孫の為に美田を買わず
と自作の詩を揮毫しました。二句目の「丈夫玉砕するも甎全を愧ず」というのは、大丈夫、男というものは、価値ある玉となって砕け死んでも、価値のない瓦になって生き長らえることを愧じるものだということで、国事に殉じようとする決意を詩句に託したものです。
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惟れ聖は性のままなる者、浩浩たる其の天、毫末(ごうまつ)をも加へずして、萬善足る。衆人は蚩蚩(しし)、物欲交交蔽ひ、乃ち其の網を頽(くづ)して、此の暴棄に安んず。惟れ聖斯に惻(あは)れみ、學を建て師を立て、以て其の根に培ひ、以て其の支を達す。
聖人の心は、その性の本来を保つものだから、かの浩浩たる天そのまま、人為も何も加えず、ただそれだけで、行為は十分に善である。衆人の心はそうはゆかない。その無知のために、間断なく生起する物質的欲望にさえぎられて、本来の作用を全うすることができず、最も尊貴な仁義礼智という人性の大綱をくずれさせてしまう。よって、その精神は弛緩し分裂し、遂に自己をそこない、自己を棄てる行為を繰り返す。この状態は、聖人の放任するに忍びない所である。よって、学校を建て、教師を置いて、これを導き、衆人の心性の根本を養い、その枝葉を伸ばしてやることとなった。
【コメント】解説にある<その無知のために、間断なく生起する物質的欲望にさえぎられて、----尊貴な仁義礼智という人性の大綱をくずれさせ-----精神は弛緩し分裂し、遂に自己をそこない、棄てる行為を繰り返す>とありますが、我々凡人から見ると高貴な世界で仕事をしている国会議員のオバサマの、極めて低次元の秘書いじめが話題になっていますが、感情の起伏を抑え理性ある行動をとってもらたいものであります。
そのオバサマの行為を庇うかのような細田総務会長の弁護は慎んでもらいたいものです。
当該本人は、自らの姿勢を正すためにも、『小学』『大学』を真摯に学んで欲しいものです。
昨夜は第二道場の空手道教室も賑わいました。議員のオバサマの例もあることから、子どもたちに、驕りたかぶることをしてはならないと言い含めました。これからの世に生きる人間には、こういう姿勢こそ大事なのですが、多くは当面の成績が良ければと思っていらっしゃるようです。
勿論健康な体の維持も大切なことではあります。
昨夜学んだ「古典の教え 三」の言葉は、
『論語』は、<礼を学ばざれば、以て立つことなし>と教えています。「礼は世に立つ根本であるから、この礼というものを学ばなければ、人間として世に立つ資格がない」というのです。真心のこもった礼で人との対応をしたいものです。
『春秋左氏伝』は、<己れを修めて人を責めざれば、難より免がる>と教えています。「自分自身修養をつんで、他人をせめたてなければ、危難からのがれることができる」というのです。人さまの悪口をいわず、読書をしたり、名文の筆写をするなどしたほうが賢明な生き方であると思います。
昨日は中澤先生にお礼のお手紙を投函しました。遅くなりまして申し訳なく思っています。
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『人としての生き方』(第58回)
ここで、言葉と実行というものについて『論語』の中から幾つか紹介しておきます。
里仁篇にあります。
君子は言を訥にして、行に敏ならんと欲す。
雄弁でなくとも、上手く言葉にあらわせなくとも、それよりも行動においては機敏でありたいということ。敏というのは、フルに活躍すること、最大限に発揮するということです。朴訥で言葉が足らなくとも、その行いを通じて信頼が出来るということです。
古者言(にしえことば)を之れ出さざるは、躬の逮(およ)ばざるを恥ずればなり。
昔の人が軽々に言葉というものを口にしなかったのは、実行が言葉に及ばないことを恥じたということです。要するに口ほどに出来ていないではないかとしうことですね。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第50回)
明治四年十月六日、西郷は鶴岡に帰る菅のために、深川佐賀町の伊東八兵衛宅で餞別会を開きました。このときは、滞京中の酒井忠篤、忠宝も同席したでしょう。黒田清隆もいたはずです。この会で西郷は、
幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し
丈夫玉砕するも甎全を愧ず
一家の遺事 人知るや否や
児孫の為に美田を買わず
と自作の詩を揮毫しました。二句目の「丈夫玉砕するも甎全を愧ず」というのは、大丈夫、男というものは、価値ある玉となって砕け死んでも、価値のない瓦になって生き長らえることを愧じるものだということで、国事に殉じようとする決意を詩句に託したものです。
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