味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君子は親に事ふるに孝。

2018-06-29 14:42:59 | ブログ
第3469号 30.6.30(土)

子曰く、君子は親に事ふるに孝。故に忠をば君に移す可し。兄に事ふるに弟。故に順をば長に移す可し。家に居て理まる。故に治をば官に移す可し。是れを以て行ひは内に成って、名は後世に立つ、と。『孝経』301

 孔子が云うには、有徳の君子は父母に事えて能く孝行を尽くす。だから、父母に事える孝行を移して君に事えると、それが取りも直さず君に対する忠となる。また、有徳の君子は能く兄に事えて弟としての道を尽くす。だから、兄に対する弟としての道を移して広く長上に事えると、それが取りも直さず最上に対する順となる。また、有徳の君子は家に居ても家が善く理まる。だからこそ、その家を治める能力を移して、官職にあたれば官職はおのずから善く治まる。以上の三つに共通する道理から、孝・弟・治の行いが家のなかでも善く家庭が成り立って、その名声がのちのちの世までも善い評判となって、広くのちのちまでも人心に善い感化をもたらすことになる。

 【コメント】我々凡人は遠く及ばない高潔な人格の様ですが、それでもできる範囲で少しでも近づくべく努力したいものです。

 できれば権力を恣にしている日大の理事長とか、安倍総理などがお手本を示してほしいものです。総理は丁寧に対応するなどと口あたりはいいのですが、中身は真逆だと云う人が多いようです。

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『啓発録』橋本佐内+---気を振う----1

 気とは、人に負けぬ心立でありて、恥辱のことを無念に思ふ処より起る意気張りの事なり。振ふとは、折角自分と心をとどめて、振ひ立て振ひ起し、心のなまり油断せぬやうに致す義なり。この気は生ある者には、みなある者にて、禽獣にさへこれありて、禽獣にても甚しく気の立ちたる時は、人を害し人を苦しむることあり、まして人に於てをや。人の中にても士は一番この気強くこれ有る故、世俗にこれを士気と唱へ、いかほど年若な者にても、両刀を帯したる者に不礼を致さざるは、この士気に畏れ候事にて、その人の武芸や力量や位職のみに畏れ候にてはこれなし。

 〔訳〕気とは、人に負けまいと思う心、すなわち負けじ魂と、恥辱を知ってそれを悔しく思う気象のことである。それを振うというのは、常にそうした心を持って、その精神を振い立て振い起し、絶えず緊張をゆるめず油断のないように努力することである。
 この気というものは、生命のあるものはみな備えているものであって、鳥や獣でさえ持っている。それで鳥や獣でも、ひどく気が立った時は、人に危害を加えたり苦しめたりすることがあるのだから、人間の場合は、なおさらである。その人間の中でも、武士が一番この気を強く身につけているから、一般にこれを士気とよんでいる。どんな年若な武士に対してでも、それが武士であるならば無礼を加えようとしないのは、この士気を恐れてのことであって、別にその人の腕前や身分を恐れるからではないのである。

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聖人の知らざる所無きは、

2018-06-28 13:31:45 | ブログ
第3468号 30.06.29(金)

聖人の知らざる所無きは、只だ是れ箇の天理を知るなり。能くせざる所無きは、只だ是れ箇の天理を能くするなり。聖人は本體明白なり。故に事事箇の天理の在る所を知り、便(すなわ)ち去いて箇の天理を盡す。是れ本體明かとなるの後、卻って天下の事物に於て、都(すべ)て便ち知って、便ちなし来るにあらざるなり。天下の事物は、名物・度数・草木・鳥獣の類の如き、其の煩に勝へず。聖人は須ず是れ本體明かなるも、亦何によって能く盡く知らんや。『伝習録』434

 聖人は何事も知らないことはない、といわれるのは、天理を知っている意味に外ならないし、何事もできないことはない、といわれるのは、天理をよく行うとの意味である。聖人は心の本体が明らかであるから、どの物事についても、天理のありかをよく知っている。そこで進んで天理を充分に尽くすことができるのである。しかしそれは本体が明らかになった後に、天下の物事についてすべてを知り、行うようになるというのではない。天下の物事の中でも、名物・度数や草木・鳥獣などの類は、数が多すぎて、全部を知ることは煩に勝えないのである。それ故、聖人は必ずしも本体を明らかにするが、これらのもののすべてを知ることなどをどうしてしよう。

 【コメント】何事も為す上において、慎重に正確に事を進めて行けば、行き違いなく思ったように事は進んで行くと思います。我々もよく天理を理解し、物事をすすめたいものです。
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『啓発録』--稚心を去る---3  橋本佐内

 源平のころ、並に元亀・天正の間までは、随分十二三歳にて母に訣れ、父に暇乞して初陣など致し、手柄功名を顕し候人物もこれ有り候。これ等はみな稚心なき故なり。もし稚心あらば、親の臂の下より一寸も離れ候事は相成り申すまじく、まして手柄功名の立つべきよしは、これなき義なり。
 且つまた稚心の害ある訳は、稚心除かぬ時は士気は振わぬものにて、いつまでも腰抜け士になり居り候ものにて候。故に余稚心を去るをもって、士の道に入る始めと存じ候なり。


 〔訳〕源氏や平氏が活躍した時代から、織田信長など群雄が割拠した時代ごろまでは、十二三歳ともなると父母に別れを告げて初陣に参加し、見事敵を討ちとって武名をとどろかせた人も少なくない。そのような抜群のはたらきは、稚心をすっかり取り去っていたからこそできたのである。もし、少しでも稚心が残っていたら、両親の庇護の下からちょっとでも離れることはできんかったであろうし、まして戦場へ出て敵の首を討ち、武名をあげるなどということのできたはずがない。
 更にまた、稚心を取り除かぬ間は、武士としての気概も起らず、いつまでも腰抜け士でいなければならない。そのため、わたくしはりっぱな武士の仲間入りをするために、第一番に稚心を去らねばならぬと考える。

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且く君心の荒楽に蔽はるるが如き、

2018-06-27 16:36:38 | ブログ
第3467号 30.06.28(木)

且く君心の荒楽に蔽はるるが如き、唯其の蔽や故なるのみ。力めて其の荒楽の非を詆ると雖も、其の省ざるを如何にせん。必ず蔽はれざる所の事に於て、推して之に及ばば、則ち能く其の心を悟らしめん。古より能く其の君を諌めし者、未だ其の明かなる所に因らざる者有らず。故に評直強勁なる者は、率(おほむ)ね多くさからいを取り、温厚明瓣なる者は、其の説多く行はる。『近思録』505

 例えば、君主の心がすさんだ快楽に覆われている場合、それは長いこと覆われているのだから、すさんだ快楽の非を強く難じたところで、反省のない心はどうにもならない。覆われてないことがらから推しすすめることが必要で、そうすれば、相手を悟らせることができるであろう。昔から、君主を諌めえたものは、必ず君主がはっきり分かっていることがらを手がかりにしている。従って、悪を強くあばいたり、気が強かったりするものは、おおむね逆効果を招き、性格がおだやかで道理の良く分かったものは、意見がおおむね受け入れられるのである。

 【コメント】人間の性格論を論じていますが、<性格がおだやかで道理のよくわかったもの>は前向きに処理できるとされています。非を追求された場合、すぐ逆上するタイプがおりますが、おだやかに論理的に進めてみたいものです。
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 『啓発録』--2  橋本佐内

 人に在りては、竹馬・紙鳶(たこ)・打毬の遊びを好み、或ひは石を投げ虫を捕ふを楽しみ、或ひは糖菓・蔬菜・甘旨の食物を貪り、怠惰安佚に耽り、父母の目を窃み、藝業職務を懈り、或ひは父母によしかかる心を起し、或ひは父兄の厳を憚りて、兎角母の膝下に近づき隠るる事を欲する類ひ、皆幼童の水くさき心より起ることにして、幼童の間は強ひて責むるに足らねども、十三四にも成り、学問に志し候上にて、この心毛ほどにても残り是れ有る時は、何事も上達致さず、とても天下の大豪傑と成る事は叶はぬ物にて候。

 〔訳〕人間でいえば、竹馬・凧・まりけりをはじめ、石投げや虫取りなどの遊びばかりに熱中し、菓子や果物など甘くておいしい食物ばかりをむさぼり、毎日なまけて安楽なことばかり追いかけ、親の目をぬすんで勉強や稽古ごとをおろそかにし、いつでも父や母よりかかって自分では何にもせず、あるいはまた、父や兄に叱られるのを嫌って、常に母のかげに隠れ甘えるなどといったことは、すべて子供じみた水っぽい心、つまりは「稚心」から生ずるのである。それも、幼い子供の内は強いて責めるほどのこともないが、十三四歳に成長しみずから学問に志す年齢になって、この心がほんの少しでも残っていたら、何をしても決して上達せず、将来天下第一等の大人物となることはできない。

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 今朝はNHKテレビで橋本佐内の生涯が報道されました。26歳で安政の大獄で死去したことは大変な損失であったと思います。そのような天下に刃を向けるようなことをするから、井伊直弼は志士たちに打たれたのでしょうか。

 事例は事件がことなりますが、昨日は自民党幹事長は我々は安倍さんを推してきたのだから、次回9月も推すということを発言しました。昨日の党首討論では、岡田さんが良心の呵責はないのかと問うたのに対して、安倍さんはへらへら笑っていました。これほど国民を愚弄した態度はないでしょう。誠実に対応して貰いたいものです。
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 プロゴルフの片山晋呉氏がプレーをした人に対して、礼を失することをしたとして謝罪会見がありましたが、全く謝罪している姿ではありませんでした。頭を下げる時は、体を直角に曲げるものなんです。真面な礼が出来ない人はゴルフはお止めになられた方がいいでしょう。思い上がってはなりません。
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宗廟に敬を致すは、親を忘れざるなり。

2018-06-26 17:17:12 | ブログ
第3466号 30.06.27(水)

 宗廟に敬を致すは、親を忘れざるなり。身を修め行ひを慎むは、先を辱めんことを恐るるなり。宗廟に敬を致せば、鬼神著る。孝弟の至りは、神明に通じ、四海に光ち、曁(およ)ばざる所亡し。詩に云ふ、東自り西自り、南自り北自り、思ひて服せざる亡し、と。『孝経』294

 先祖のみたまを祀ってある宗廟に誠教をお尽しになるのは、親を片時も忘れるということがないからである。己の身を修め行いを慎まれるのは、先祖のかがやかしい名を汚すことを常に畏れ心配されているからである。祖先のおたまやに誠教をお尽しになると、先祖の神霊がそれに感応して、わざわいが生じなくなる。かくて天子が父兄に孝弟のまごころをお尽しになる。その至りきわまることは、至誠が天地の神々に通じ、遠く四方のすみずみまでも、その至徳の余光が充ち広がって、行きわたらないところはないほどにあまねく恩恵に与らざるはない。このような状況はすでに古くからあったことが『詩経』の大雅、文王有声之篇にいわれている。「東から西から、南から北から、有徳の人君を思い慕わないほどである。」と。

 【コメント】「宗廟に敬を致すは、親を忘れざるなり。」について、孔伝に、「父母に事ふる所以の道を説くなり。廟を立て主を設けて以て其の生存に象るなり。潔斉敬祀して以て追孝継思し、行を脩め名を掲げて以て祖孝を顕明す。皆孝敬の事なり、とあります。

 解説にある<宗廟に誠敬をお尽しになるのは、親を片時も忘れない>とあるように、大事なことだと思います。時代が急速に変転しているからでしょうか、家族間の信頼・尊敬等々の概念が急速に低下していると思うのは私ひとりではないと思います。

 子が親を殺害する、親が子を殺すというようなことをニュースで聞く時、世の中どうなっているのかと思わざるを得ません。お互いが信頼しあい、おだやかに過ごしたいものです。

 昨日は富山にある交番に男が侵入し警察官を殺害するという事件が発生しました。犯人は警察官の拳銃を奪取し、さらに警備員に発砲し殺害しました。大変悲惨な事件でした。犯人は元自衛官だったとのことです。

 世の中大変な事態だと思います。こういう時だからこそ、政治家がウソを言わず、真面目な人間像を国民に見せなければならないと思います。

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 『啓発録』---橋本佐内

 稚心を去る(去稚心)

  稚心とは、をさな心と云ふ事にて、俗にいふわらびしきことなり。果菜の類のいまだ熟せざるをも稚といふ。稚とはすべて水くさき処ありて、物の熟して旨き味のなきを申すなり。何によらず、稚といふことを離れぬ間は、物の成り揚る事なきなり。

 〔訳〕稚心とは、おさな心、すなわち子供じみた心のことである。果物や野菜が、まだ熟していないものをも稚というように、物が熟して美味になる前、まだどこか水くさい味がする状態をいうのである。どんなものでも、稚といわれる間は完成に至ることができない。
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憤を発して食を忘るとは、

2018-06-25 14:14:09 | ブログ
第3465号 30.06.26(火)

憤を発して食を忘るとは、是れ聖人の志此の如くにして、真に已む時有る無きなり。楽しんで以て憂を忘るとは、是れ聖人の道此の如くにして、真に戚(いた)む時有る無きなり。恐らくは必ずしも得ると得ざるとを云はざらん。『伝習録』431

 孔子が「物事に熱中するときは、食事も忘れる。」と言われた言葉は、聖人の気持ちはこのようであって、求道の志が常にやむ時のないことを示すものである。また「楽しんで憂を忘れる。」と言われた言葉は、聖人の実態がこのようであって、真に憂え悲しむことがないことをしめすものである。これを朱子の解釈するように、望むものを得た時とか、得ない境地だとか、分けて説く必要はないであろう。

 【コメント】「物事に熱中するときは、食事も忘れる。」とか、また「楽しんでは憂を忘れる」と言われた言葉は、聖人の実態だけでなく、我々凡人もかくありたいものです。

 日々の仕事にしても勉強にしてもこのような情熱で取り組めば、より成果が上がると思われますし、実践した本人も更に熱中できるのではないかと思われます。

 サッカーの勝敗に熱狂している人々も、総ての事象にこのように取り組めば充実した人生が期待できると信じます。

 昨日は無銭飲食した男が、警察に電話をし俺を捕まえに来いといい、逮捕劇が演じられました。どのような育て方をすれば、こういう人間が生まれるのでしょうか。

 こういう人間は、また同様の事件を犯す危険があるので、厳しい刑期で臨んだ方がいいと思います。そしてまた、インターネットで罵り合いをしたあげく殺人事件を起こす、なんて馬鹿げたことをするのでしょう。

 頭にカチンと来たとして殺人をし、そして刑務所暮らしをすることになるのですが、それで折角の人生は台無しになるのですが、それでいいのでしょうか。

 そして今朝は学校でのいじめ問題が紹介されましたが、「無視された」「悪口を言われた」等々がいじめだとのことです。なんでこの程度のことがいじめなのでしょうか。

 シリアあたりで生きている子供たちは、まさしく命がけで生きているのです。私は厳しい母親に徹底的にしごかれて日々の仕事をしてきました。
 そして今風に言ういじめをする連中は早々とあの世に逝ってしまいました。刃物で切り付けられれば生命の危険がありますが、言葉の暴力は実害はないのです。ですから空手道教室では、何言われても自ら命を絶ってはいけませんよ、と教え諭しているのです。

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『菜根譚』175

 節義を標する者は、必ず節義を以て謗りを受け、道学を榜する者は、常に道学に因って尤を招く。故に君子は悪事に近づかず、また善名を立てず、只だ渾然たる和気のみ、纔に是れ身を居くの珍なり。

 〔訳〕大義名分を表看板に掲げる者は、必ずその大義名分のためにそしりを受けることになり、道学を振り廻す者は、いつもその道学のためにとがめを招くことになる。そこで君子の心がけとしては、悪事に近寄らないだけでなく、またよい評判も立てないようにして、ただ円満な和気だけを守っておれば、それでもう身をおく最上の道である。

 こういう枯れた精神になることは修養をすることが必要だと思います。芸能界への出たがり屋の子供たちにはできないでしょう。尤も、子供たちをそういう世界へ引っ張り込む大人がいることは困ったものです。

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