味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

遠きを柔らげ邇きを能くす。

2015-01-17 11:27:20 | ブログ
第2212号 27.01.17(土)
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遠きを柔らげ邇きを能くす。『書経』
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 遠隔の地域にいる粗野な人民はこれを柔らげ安んじるよう教化し、中央に近い人民はこれをよくなつかせて、柔順にする。これが政治の要諦である。194
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 【コメント】私は政治家ではありませんが、どんな人にも穏やかに話し、安んじるように一歩下がって臨みたいものです。ただ、先方の戦略だけで来る人は除いていいのではないかと思います。
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 二十代の頃、空手道をしているということで、喧嘩っぱやく不良性があるのではないかと錯覚され、ヤクザの世界にいる人と出会いました。その方は先の解説にある〈粗野な人民〉に該当する人であったのかも知れません。おつきあいしている過程でその後輩の男の人を抱きしめたことがありました。その方は、今まで下げすまされてきたが、世の中にはこういう人もいるのか、と男泣きになきました。
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 どんな人間にも良心はあると思います。出来るだけ敵にまわさず、親切心で対応したいものです。

 今朝の学問館は遠く吉野分校からも馳せ参じてくださいました。話題は主に教育論でした。人間社会はそれぞれ利害が絡むものですが、そこに社会性・教育性がなければならないと考えます。多くの人が反感を抱かず、納得するということは、天の理だと私は思っています。そういう人には天は制裁はしないと思うようになりました。仲よく譲り合いながら、勤勉な日々でありたいものです。まかりまちがってもギャンブルはしない方がいいと思います。とにかく『南洲翁遺訓』を学ぶことです。
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『大学味講』(第50回)
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 その根によって養われた「本」の力によって、生長繁茂していくのが「末」の枝葉であるように、斉家も、治国も、平天下も、その局に当る人の正しい「修身」によって行われるものである、というのであります。
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 それはいささか唯心論的に過ぎるようにも思われるでしょうが、考えてみると、その人の一切の活動は、その人の「身」から発するものであるから----「身」とは、心と体とを統一しているものである----その身が正しく修まっておれば、何事に対しても、正しく認識し、正しく判断し、正しく行動するはずであります。

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『論語』(第150)
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 子曰はく、徳の修まらざる、学の講ぜらる、義を聞いて徙(うつ)る能はざる、不善改むる能はざる、是吾が憂ひなり。
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 孔子がいうには、修養の至らないこと、己の勉むべき学が研究して明らかにならないこと、正しいと知りながらそちらにうつり得ないこと、己の不善を改めることのできないこと。この四つはわしの深く憂うる事柄であり心配していることだ。
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『農士道』(第34回)
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 先づ右に於ける神の御名に用ゐられし語の意義を明らかにする。
 「天御中主」は造化それ自體、-----易の大極----西洋哲学でいふ中心生命ともいふべき存在であって、「中主」とは如何にそれに相応しい名であると思ふ。其の「中主」の分化発現的のはたらきが即ち「高御産霊」であり、統一収蔵的のはたらきが即ち「神産霊」である。

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