味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

上に居て驕らざれば、高くして危ふからず。

2018-02-28 10:07:10 | ブログ
第3347号 30.02.28(水)

子曰く、上(かみ)に居て驕(おご)らざれば、高くして危(あや)ふからず。『孝経』100

 孔子が言うには、指導者として人の上に在っても、心驕り人に対して不遜であったり、こ馬鹿にするようなことがなければ、高い位にいても、不信を招きやがて身を滅ぼし、遂には國をも滅ぼすような危険なことはきずない。

 【コメント】上の解説は、世の多くの人々が感覚としては理解していることなのですが、実際にそれが出来るかというと、ついかねての癖が出て、傍若無人な対応をしがちです。

 ですから、人様との対応については、細心の注意を払わなければならないと思います。

 『論語』学而篇に、「子貢問ひて曰く、貧にして諂うこと無く、富みて驕ること無きは如何と。子曰く、可なり。未だ貧にして道を楽しみ、冨みて礼を好む者には若かざるなり。と。」とある一文には、人間が当面する重大な関心事に対して、多大の示唆を含んでいるものと思います。

 また『荀子』に、「高上尊貴なるも、以て人に驕らず、聡明聖智なるも、以て人を窮めず」とあります。また『礼記』に、「富貴にして礼を好むを知れば、則ち驕らず淫せず。貧賤にして礼を好むを知れば、則ち驕れずとあります。

 『南洲翁遺訓』も大変よい手引書なのですが、多くの漢籍を日々繙くと未熟な私には大変良い参考書となっています。文化が進み過ぎた今日ですが、精神にも良薬を与える時期であるように思うのは、私獨りではないと思います。

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『不動心』(第205回)

 人間には「人間の条件」以内のことしか起こらない

 人間にはいろいろなことが起きるが、人間の条件以内のことしか起こらない。牛やブドウや石にも、それぞれに紫前なことしか起こらない。こんなふうに、万物それぞれにお決まりの自然なことしか起きないのに、なぜあなたは不服なのか。万物と同様、あなたをも支配する自然は、あなたに耐えられないようなみのは決して持たらしはしない。

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私と瑞光寮 児玉正志 第2回

 南方進出を指向する産業開発会社も、先を争うように、多数進出してきたが、基本的心構えを転換させるため、会社従業員を再教育再訓練することが訓練所設立の目的であった。
 現地人と接触することの多い会社従業員が、皇道奉行舎としての自覚をもち、信頼され、親愛される行動をとるようにとの念願すら、きびしい現地での訓練が始まった。

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人は心正しく意誠ならば、乃ち能く中正の道を極めて充実光輝す。

2018-02-27 10:33:29 | ブログ
第3346号 30.02.27(火)

夫れ人は心正しく意誠ならば、乃(すなわ)ち能く中正の道を極めて充実光輝す。若し心に比する所有り、義の不可なるを以てして之を決せば、外に行ひて、其の中正の義を失はず、以て咎无(な)かる可しと雖も、然れども中道に於いて未だ光大を為すを得ざらん。『近思録』303


 そもそも人は、心が正しく意が誠であれば、中正の道を極めることができて、徳が内部に充実し、外に向かって輝くものである。心にとらわれるものがあり、道としてよくない方面から決定するなら、外部がうまくいって中正の道を失わず、咎なく済むとはいうものの、中道の点で発展が望めない。303

 【コメント】人の一生で大事なことは、心が正しく意が誠であり、その状態を人様の為に盡すことではないでしょうか。人様の為につくせば、その思いが自分へも却ってくると思います。

 夜間高校を出て、電電に入社し、労働運動もしてきましたが、労働運動は奪いとるものではなく、お願いし戴くものでありたいものです。

 高校出たての若い子供たちに権利意識のみ植え付けるのは考えものだと思います。自ら人の倍、三倍働いて賃金をいただくことがすばらしい行為だと私は思います。私はそのようにしてきたのですから。

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『不動心』(第204回)

 人間の力強さとは何か

 私を持ち上げて、どこまでも好きなところへ投げ飛ばしてみたまえ、それでも私は自分の内の神霊を手放さず、それが自らにふさわしく感じられたり動いている限りは、落ち着いた気分でいるだろう。
 投げ飛ばされようがどうしょうが、そのために魂が苦しめられたり悪い状態におちこんだり、委縮して臆病になり、すっかりしよげこんでしまったりするほどの一大事にはならない。およそ、魂にそれほどの影響を与えるものがこの世にあるはずがないではないか。

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昨日は枕崎へお墓詣りに行ってきました。枕崎からは頴娃の別府小学校へ行き、中島先生に『南洲翁遺訓』等々を贈呈してきました。帰り着いたらすっかり疲れて寝込んでしまいました。

 先程、娘・晴美が東京へ帰りました。

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親を愛する者は、敢て人を悪まず。

2018-02-25 17:22:51 | ブログ
第3345号 30.02.26(月)

子曰く、親を愛する者は、敢て人を悪(にく)まず。親を愛する者は、敢て人を慢らず。『孝経』89

 孔子が言うには、親を愛する者は、必ずその親を愛する心を以て、他人をも愛する態度で接するから、どんな場合でも、強いて他人を憎むようなことはしない。同様に、その親を愛する者は、必ずその親を敬する心を以て、他人をも敬する態度で接するから、どんな場合でも、強いて他人をこ馬鹿にするようなことはしない。

 【コメント】解説を読んでかくありたいものだと思います。然し私が見てきた男たちは、こういう品格品性のからもない、全く真逆な生活風景でした。

 身体が大きく、柔道で鍛えた肉体を誇り、他人を殴る、投げ飛ばすなどの傍若無人ぶりを露呈していました。何をしても怒らない母親を見てびくりしたものです。

 私がそのようなことをしたら、母から薪で殴られた上に晩御飯は食べさせて貰えなかったと思っています。鰹節製造工場を営んでいた私の家には、人の頭くらいの薪がありました。

 終日休む間もなく働いていた母はまさしく戦闘態勢でした。父親は仕事は職員に任せきりで自分は囲碁会場に浸りきりでした。そういう父の態度に業を煮やした母は、斧で囲碁の盤を割り、火で燃やしたことがありました。

 だから全国の子供たちが、囲碁将棋に凝っているのを見てもどうしても好きになれないのです。真面目に働かないのは国家崩壊のダニ的存在だと思っています。何をしてもいいのですが、一人前働いてからしなければならないと考えます。

 私の母は枕崎で一番厳しい女という刻印を推されていたそうです。そんな厳しい母に負けない位私も働いてきたものです。
 今からお墓参りに行ってきます。次は後で書きます。

哲人は幾を知り、之を思に誠にす。

2018-02-25 09:59:01 | ブログ
第3344号 30.02.25(日)

動箴に曰く、哲人は幾を知り、之を思に誠にす。志士は行を厲み、之を為(い)に守る。理に順へば則ち裕にして、欲に従へば惟れ危し。造次にも克く念ひ、戦況として自ら持す。習性と成れば、聖賢と帰を同じくす。『近思録』297

 動きの戒め。明哲の人はものの機(きざし)を知り、志を立てた人は行動を厳しくし、何をするにも道を守る。道理に従って思慮行動すれば、心に余裕ができ、欲望に従えば危険になる。寸時の間も十分に思い、恐れ慎んで自分の節操を守る。以上の努力を積み重ねてそれが天性になれば、聖人や賢人と同じ境地に達する。297

 【コメント】日々の行いについて、心の微かな動きに善悪の区別が生じやすいので、心の微かな動きにも偽りがないようにしたいものです。

 昨夜の空手道教室でも、人間の一生で大事なことは、真面目であることだと思います、と子供たちに説明しました。とにかく遊ぶことや、我儘が優先し、でたらめ化しているように思われます。

 それは全国組織である電電時代に、中央本部から来るオルグに来るわけですが、権利のみを吹聴し、真剣に働くことを説明しないからなのです。

 いい加減な人間がいい加減な働き方をしていると、いい加減な人生の末路しかないと私は思います。精神誠意、命懸けで働く習慣を身につけたいものです。

 私が32歳の時、大根占局の係長で赴任しましたが、当時の愛甲局長があなたみたいな命がけではたらく人を見たことがなかったと絶賛してくれたものです。そして貴方は金のインチクをしない、とも言われました。

 前任舎が備品を買うと言って、物は買わずに飲み食いに使ったということを局長は見抜いていたのでした。

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『不動心』(第203回)

 今日という日を最大限に生かすこと

 今日の日を最大限に生かしなさい。明日にも拍手喝采を浴びようともくろんでいる者は未来のことを考えている人間かもしれないが、いま自分がイヤな奴だと思っている連中と大した変わりがない。
 要するにこういう手合いは、自分がやがて死んでゆく存在ということに気づいていないのだ。それはともかく、後世の人間があなたについて何をいおうと、またとどんな意見を抱こうと、それがいったいあなたにとってどうだとというのか。

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私と瑞光寮  児玉正志「みなみ」9号 昭和58.8.25

 私は、昭和十五年四月、海南島海軍特務部所管、海南島農民訓練所指導員として赴任した。
 それまでは台湾総督府煙草試験場で試験管を振っていた。時のきょう崖(海南島のこと)臨時政府最高顧問は、山下知彦海軍大佐であり、東京でその後援工作をしていたのは、五・一五事件の林正義さん、大庭春雄さんであった。
 私を林さんに引合わせたのは、鹿児島の敬天舎先輩の武田信近さん(光機関)で、昭和十二年の夏であった。渡台二ケ年、台湾人から支那的伝統を完全に抹殺しようとする総督政治に疑問を抱き、台湾皇民化政策批判と題する小論文を書きあげた頃、海南島に行かないかという誘いがあった。
 日支提携による東亜新秩序建設のモデル社会を、海南島で実現しようとする夢を抱いて、満州、北支、日本内地から理想を追う壮士どもが、山下顧問のもとに馳せ参じた。

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爾の祖を念ふこと亡からんや。

2018-02-24 10:08:54 | ブログ
第3343号 30.02.24(土)

大雅に云ふ、爾(なんじ)の祖を念(おも)ふこと亡(な)からんや。其の徳を聿(の)べ修む、と。『孝経』84

 思い起こすことは、『詩経』の大雅(周の文王の章)にすでに言っているところの、「汝の祖先のことを何時も忘れることがあってはならない。祖先の徳を受け継いで、これを子供に伝え、一そう盛んにするようにして、決して怠ってはならない。」と。85

 【コメント】大雅の「文王」の篇は文王の徳を称えたものであり、併せて祖先の徳を顕彰したものであり、孝を基本として考えられていたものであるという。

 この孝こそは人間社会に大変重要だと思われます。この孝はひとり自分自身だけのことではなく、人間社会に生きる他人様へも用いなければならないのではないでしょうか。

 79年間生きてきて、人様への孝が薄れ自分本位になってきているような気がするのは私ひとりだけではないと思います。現代社会は余りにも急ぎ過ぎ、そして便利さ裕福さを希求しすぎているような気がするのです。

 私に言わせると急ぎ過ぎて、結果的に天の制裁を受けている部分があるのではないかと思うのです。

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『不動心』(第202回)

 人それぞれに自分にとっての至福がある

 人にはそれぞれ自分にとっての至福というものがある。私の場合は、支配力である理性が健全であるとき、人類とその変遷にだじろがぬ心を持つとき、万物を慈愛の眼をもって眺め、受け容れ、それぞれの価値に応じて対処してゆける能力が備わっているときこそ、こよなく喜ばしいときである。

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研究所と合気道 植芝盛平先生を偲ぶ 児玉正志 第3回

 お見舞を言上しますと、植芝は慾があったから病気になったと申され、内観自責の謙虚な御心に感銘しました。魄の武道でなく、魂の武道に到達したい。魂の武道こそ神の武道である。自分が倒れたら、誰かの五体に乗り移って、この願望を遂げたいと話されました。先生は、天の啓示を受けるため、武蔵野の曠野の中に、神武求道の本拠を定められたのではないかと思いました。
 「偉い人は、後ろ姿でもよいから拝んでおけ」と先輩からよく言われたものですが、心こもる昼食を共にいただき、澄みきった青空の下を、ここは神社敷地、あそこは道場予定地と、先生の後に従って歩いた初春の一日は、終生忘れることの出来ない有難い思い出であります。
 あの時から、三十六年、唯一回の敗戦で日本民族は、国魂を忘れ、私利私欲の民に堕落してしまいました。敗戦後の世相で最大の痛恨事は、武を軽んじ、口先だけで平和を唱えておれば、平和がくるものと思う人の多いことです。これは、奴隷の平和、妾婦の幸福に通ずる道です。
 自主独立・世界人類に貢献する栄光ある平和は、武魂を鍛錬して不義を許さぬ正気が、国家民族に充満することによって護持されるものであります。
 内外の時局艱難、国連危急のとき、植芝先生の真武即和合の大道が、津々浦々に宣布されることを祈ります。

(合気道万生報より転載)
 (筆写は西郷南洲顕彰館々長)

 
                        
 右者本所武道ニ精励シ大イニ其進歩ヲ見タリ
 仍テ植芝道主ノ認可ニ依リ初目録初段ヲ授与ス

 
   昭和拾五年四月九日
 
 東立経済調査局附属研究所長 
             大川周明「印」

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児玉論文を拝読し、国民よ覚醒せよ、と諭しているような気がします。ある老人が、既に他界している政治家のことを「天才」と評しているらしいが、これは天才ではなく、「天災」でしょう。政治家は金まみれであってはならないのです。清廉潔白でなければならないのです。

 児玉先生の論文を拝読し、お会いして観察した通りの人物像が彷彿としてきます。

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