味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

令和3年3月31日(水) 貞観政要・頁632 特に須く

2021-03-31 12:10:35 | ブログ
特に須く禁断すべし。仮令、謀反する者有りとも、必ず独り成すを得ず。終に将に人と之を計らんとす。頁632

(訳)ぜひとも特に禁断すべきである。たとい謀反をする者があっても、必ず独力ではすることができず、結局、人と共謀するに違いない。頁632
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 書籍の紹介

 『自助論』

 1 成長への意欲と自助の精神

 「天は自ら助くる者を助く」
 この格言は、幾多の試練を経て現代にまで語り継がれてきた。その短い章句には、人間の数限りない経験から導き出された一つの真理がはっきりと示されている。自助の精神は、人間が真の成長を遂げるための礎である。自助の精神が多くの人々の生活に根づくなら、それは活力にあふれた強い国家を築く原動力ともなるだろう。
 外部からの援助は人間を弱くする。自分で自分を助けようとする精神こそ、その人間をいつまでも励まし元気づける。人のために良かれと思って援助の手を差し伸べても、相手はかえって自立の気持ちを失い、その必要性をも忘れるだろう。保護や抑制も度が過ぎると、役に立たない無力な人間を生み出すのがオチである。
 いかにすぐれた制度をこしらえても、それで人間を救えるわけではない。
 いちばんよいのは何もしないで放っておくことかもしれない。そうすれば、人は自らの力で自己を発展させ、自分のおかれた状況を改善していくだろう。
 だが、いつの時代にも人は、幸福や繁栄が自分の行動によって得られるものとは考えず、制度の力によるものだと信じたがる。だから「法律をつくれば人間は進歩していく」などという過大評価が当たり前のようにまかり通ってきた。
 確かに、法律がうまく施工されれば、人は個人的な犠牲をさほど払わずにそれぞれの労働(精神労働や肉体労働)の果実を楽しむことができる。
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令和3年3月30日(火) 貞観政要・頁632 比、奴、其の主の

2021-03-30 10:08:04 | ブログ
貞観二年、太宗、侍臣に謂ひて曰く、比、奴、其の主の謀逆を告ぐるもの有り。此れ甚だ極めて弊法なり。頁633

(訳)貞観二年に、太宗が左右の侍臣たちに語って言われた、「このごろ、奴がその主人が謀逆をすると告げる者がある。これは極めて悪い法である。頁632

 今日も昨日同様、よどんだ天候です。最近尿漏れが酷いので病院へ行ってきました。膀胱が小さくなっているとのことでした。明日から薬を飲むことにしました。
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 書籍の紹介

 佐藤一斎著『言志四緑』

 本著を購入したのが昭和59,1,27日となっています。まもなくしたらふれふいランドへ行ってきます。

 「言志四緑」は百世の鴻儒、佐藤一斎先生の語録である。それで最初に、一歳先生について少しく述べておこう。
 先生名は坦、字は大道、通称捨蔵、一斎はその号、別に愛日楼、老吾軒などの号もあり、江戸に住んでいたので江都とも称した。

 原文
 言志四緑は、言志録、言志後録、言志晩録、言志轍てつ録からなる。先生の境遇は幾度か変転し、激務の余暇に筆を執られて、世に示されたのがこの語録であるから、その内容の千種万態であるのはやむを得ない。即ち
『或いは倫理道徳を論じ、或は学問修養を説き、或は政治法律を述べ、士官の上から処世の教訓を与え、或は自然を写して風流韻事に及び、忽ちにして真理、忽ちにして人事,戦伐海防の軍事に亙り、或は史論、或は人物月旦、或は教育、或は衛星に至り,殆ど応接に遑がない。』

 言志録を購入した40歳代の頃、漢籍にも執りつかれ終日読み書きをしきたものです。大学にも出ていないというコンプレックスがやる気に火をつけてくれたと思っています。

 多くの人は運動・スポーツと言っていますが、それよりか読み書きの方が遥かにいいと思います。

令和3年3月29日(月) 貞観政要・頁630 是れ由り

2021-03-29 10:02:19 | ブログ
是れ由り四年に至るまで、死刑を断ずること天下に二十九人のみ。幾ど刑措くを致せり。頁631

(訳)そのようにしてから四年になるまでの間に、死刑の断罪を下したものが、天下中で、わずかに二十九人だけであり、ほとんど、刑罰を実施することがないと同様の状態にまでなった。頁631

 テレビでは女の子供たちが、踊って歌ってと飛び跳ねています。尤も男の子たちも同じです。テレビでも新聞でも今こそスポーツをと呼びかけています。それは体を動かして健康を保持しようということだと思います。

 思うにそれよりか、漢籍の読み書きをした方が遥かに意義があると思うのです。そして自分の周囲のことを運動だと思ってすれば、スポーツをするだけの効果はあるのです。
 
 最近、40年の長きにわたり読んできた書籍を紹介していますが、忘れているのもあるけど、読み返して見て読んできてよかったと思っています。皆様も是非お読みいただければと思います。健康保持のためにも、です。
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 書籍の紹介
 
 鎌田茂雄著『禅とはなにか』

 この本には昭和59年6月5日の日付印をおしています。凡そ40年前に購入したことになります。

 西田哲学と鈴木禅学との出会い

 終戦直後、岩波文庫の『善の研究』を購入するため徹夜で書店に並んだという伝説があるが、当時は活字に飢えていたし、戦争中は哲学書を読む余裕などまったくなかったといってよい。唯物論哲学が哲学界の主流をしめて、西田哲学は観念論哲学であり積極的ではなかったが、戦争に奉仕した哲学としてほうむり去られようとしていた。私はそのような時に西田哲学と出会ったのである。
 今、はっきりと記憶していないが『寸心日記』という小冊子が出版された。それは西田幾太郎博士の若き時代の日記であった。今手もとにないので、昭和四十一年に岩波書店より刊行された『西田幾太郎全集』第十七巻の「日記」によって思い出すと、たとえば明治三十四年一月五日には、「午前坐禅、午後坐禅、夜坐禅、十二時半頃まで」とあり、翌日も同じく坐禅の連続である。これは洗心庵での坐禅であるからこのように連続して坐禅が行えたのであるが、自宅においても博士の坐禅は行われた。

 この西田博士の言葉は刃のように胸にささった。今まで天皇の御楯として祖国のために闘い、戦死してゆくことが生きがいであった私は、百八十度の転換を、真の自己を究明することに求めたのであった。自己を制する者は世界を制すというが、まさにここに己の生きる道を見出したのであった。
 西田博士は日記の欄外や余白に自らを律する自省の言葉や、古人の言句を書き示された。その言葉や句が私をどんなにか励ましてくれたか。つぎにそのいくつかを書き記しておく。

 〇古来天性英邁の人も幾多の辛酸を経て始て大道を成す.余輩せん劣なる者、豈等閑の思をなすべけんや。
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 このように学者の文言を書いて来たことが大変勉強になっと思っている。

令和3年3月28日(日) 貞観政要・頁630 今より大へきの罪は

2021-03-28 10:30:25 | ブログ
今より大へきの罪は、皆宰相・中書・門下の四品以上、及び尚書・九卿をして之を議せしめん。此の如くならば、えんらんを免るるに庶からん。頁630

(訳)今日から、死刑の罪は、すべて宰相と中書省・門下省の四品以上の高官及び尚書と九卿とに命じて、死罪の可否を評議させよう。このようにすれば、たぶん無実の罪によって死刑に処せられる者を、なくすことができるであろう」と。頁631

 今日の天候は快晴でなくどんよりとしています。
 今テレビでは東北で10年前に起きた津波被害の状況を放映しています。私どもが住んでいる鹿児島では何もなかったのですが、東北の皆様に心かお見舞いをしたいと思います。
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 書籍の紹介

 『古典の叡智』諸橋徹次著

 これからまことという「誠」、それから「明」と健康の「健」、「誠・明・健」という題目でお話することにいたしますが、その第一講では誠明健の説明、第二講ではその三徳を得るための修養法、第三講では三徳の主体の己れというものについて説明し、さらに現下の問題に論じ及ぼうと考えています。
 なぜ私がこういう変わったというか、妙な題目をしたかと申しますと、実はちょうど夏休みになります一月くらい前に、ある地方で大学を設立するというので、その設立者がまいりまして、「今度、自分の方に大学を設立したいが、それについては何か一般の教育方針を、どういうところに教育の重点を置くべきかというようなことについて、意見を聞きたい」と言ってまいりました。これはしかし、どこの大学でもその専攻の学科によって違いましょうし、あるいはまたその地方の状況によっても違うでありましょうから、一概に言い得ないということを申しましたところ、「そんなことはもちろん自分の方で考える。そうではなしに一般的に考えてどうあるべきか、というようなことについて、考えがあったならば述べてくれ」ということでありました。即答はもちろんできませんでしたのでしばらく考えておりました。
 けれども、私も教育界に六十年も従事したものでありますから、教育の一般のものについてなんらの意見がないということは、あり得べからざること、もしそれができないとすれば、自分として、はなはだ恥ずかしいことであるとも考えたわけであります。

 そこで私にも何か一貫したものがないかということを静かに考えてみましたとき思いだしましたことは、次に述べる希望だけは一貫して抱いていたということでありました。それは教育界におりましたあいだいつも考えておりましたことは、正し人間、それから道理のよくわかる明らかな人間、それからその二つの項目を断実行していくような人間、こういう人間をつくりたいという希望であります。
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 ミャンマーではデモ行進をする一般人に軍警察が発砲しているとのこと、国際社会ではどうにかして欲しいものです。軍のトップの家族を銃撃したらどういう気分になるでしょう。

 国連も一番強い言葉で避難するというが、そういうものは何の役にも立たないのです。各国が軍事で対応するしか方法はないと思います。