第2437号 27.08.31(月)
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一徳を眷求(けんきゅう)して、神の主作(た)らしむ。『書経』
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天は、純一無垢の徳ある人を心に求めて、百神の主とする。
それ故に人は、純一の徳を求め、神の主たるを志さなければならない。(伊尹のことば)205
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【コメント】真面目で、心にわだかまりがなく、徳のある人に、人々は協力しついて来るということでしょうか。大変難しいことですが、共に助け合い人生を過ごしたいものです。決して我田引水であってはならないと思います。
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菅原兵治先生の『大学味講』『農士道』『教えの國・荘内』等々を繙けば参考になると思います。
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今年の自殺者が860人位と今朝のテレビで紹介されました。それもいじめが原因というのが多いとのことです。「ウザイ、キモイ、バカ、シネ」と云われて何故死ぬのでしょうか。
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20数年前の週刊誌に「諸悪の根元は日教組」という記事が掲載されたものを持っています。これは学校の先生方は二度と不幸な戦争をしてはならないという思いで平和教育をしてきたことが裏目に出たということでしょう。学校の先生方は、まじめな方が多く、その対処がまずかったと私は見ています。槇枝氏が書いた、私の路線は間違いだったというのを読んだことがあります。
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子供たちがいう「いじめ」の大半は「いじめ」ではなく「ジャレ」なのです。私は半世紀子供たちに空手を教えて来て、目の前でジャレあう子供たちをみてきたからわかるのです。もう少し、生きる厳しさを教えなければならないのです。
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安保法案反対で大変な集会が計画され、凄いことになっています。野党の党首たちが扇動し、デモをしているやに思われます。戦争は決してあってはならないと思います。
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人々の先頭に立って法案反対を叫んでいるある党が、政権を取ったら戦争以上に大変怖いということを皆様は分かっているのでしょうか。
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私は菅原兵治先生の考え方が、日本人にとって一番よいと思っています。それは『南洲翁遺訓』の精神です。『南洲翁遺訓』をふりがざして、利用している人もいるやに聞かれますが、その内淘汰されるのです。
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掲げている指標に永遠性があり、人々の共感を呼び、そして日々の行動に真摯さがなければならないのです。何よりも、『南洲翁遺訓』刊行に際して取り組んだ人々の「命に代えて」を知らなければならないのです。約束を守らない人々に、『南洲翁遺訓』を口にする資格はないと思っています。私が間違っている時は高木先生教えてください。
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毎日、朝晩、道場に掲げている西郷先生、菅先生、菅原先生、長谷川先生、小野寺先生、竹下先生方のお写真に誓いの言葉と感謝の言葉を申しています。
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『大学味講』(第274回)
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(八) すべて物事には、「常道」と「権道」とがあります。「常道」というのは、平常の場合の道であり、「権道」というのは、平常でない変則的状態の時の権(かり)の道であります。
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実例を以て申しましょう。健康な人の平常の場合ならば、日に三度の食事をとって、一度の便通があるというのが「常道」でありましょう。ところが、中毒したというような場合には、一日や二日位は絶食して何も食わず、その上、下剤を用いて下すこともあるでありましょうが、これが即ち「権道」なのであります。
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こう考えてくると、現在のような生産を縮少して、消費を拡大するという在り方は、一体「常道」なのか、「権道」なのかとなるのですが、果たしていずれでしょうか。何かしら中毒症患者に対する応急手当的のもののように思えるのですが、どうでしょうか。もし応急手当の「権道」であるならば、私どもはその認識で対処せねばならぬでありましょう。
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『論語』(第374)
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子磬(しけい)を衛に撃つ。蕢(あじか)を荷うて孔氏の門を過ぐる者あり。曰はく、「心あるかな、磬を欝。」既にして曰はく、「鄙なる哉硜硜たり。己を知るなくば、斯れ已めんのみ。『深ければ則ちし、浅ければ則ち掲す。』」子曰はく、「果なるかな。之を難しとすること末(な)きなり。」
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孔子が衛の国で、磬という楽器を打って楽しんでいた。すると、もっこをかついで、孔子の泊まっている家の門前を通りかかった者があった。孔子の打つ磬の音に耳を傾けて、「はて、心ありげな磬の打ちようだな」といって聴いていたが、「どうもコチコチした融通性のない、いやしい音色だ。
世に執着のある者の打つ音だ。世の中に自分を知ってくれる者が無かったらそれまでで、退いて止めてしまったらよいではないか。
詩にも、『水が深ければ衣を脱ぎ、浅ければ裾をまくればよい』という句があるように、状勢によって適当に変わる融通性を持たねばならんよ」と言いすてて行ってしまった。門人がこのことを告げると、孔子は、「まことに思い切りがいいなあ。そう割り切って平気で居れれば、世の中は何もむずかしいことなかろう」(と歎息して、道が行われず、自分も用いられないが、さりとて世も人も捨て切れない、救世の愛情を吐露した。)
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『農士道』(第253回)
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而して私は其の士道の實現に最も相応しい存在の最も有力なる一つとして「農」を選ぶのである。そは何故か、其の理由として左の點を挙げ得ると思ふ。
一、農は天地自然を相手として最も自主自けん性ある職業たること。
二、農は祖孫相続の世襲的従業の可能性ある職業たること。
孟子も「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず之を是れ大丈夫といふ」といっているが、「人を相手とせず、天地を相手とする」農道生活は、現在制度の下に於ける俸給生活者や、商工生活者に比して、眞に精神的に開眼されてさへ居れば、大いに此の大丈夫道の実践に相応しい生活であると思う。
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一徳を眷求(けんきゅう)して、神の主作(た)らしむ。『書経』
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天は、純一無垢の徳ある人を心に求めて、百神の主とする。
それ故に人は、純一の徳を求め、神の主たるを志さなければならない。(伊尹のことば)205
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【コメント】真面目で、心にわだかまりがなく、徳のある人に、人々は協力しついて来るということでしょうか。大変難しいことですが、共に助け合い人生を過ごしたいものです。決して我田引水であってはならないと思います。
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菅原兵治先生の『大学味講』『農士道』『教えの國・荘内』等々を繙けば参考になると思います。
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今年の自殺者が860人位と今朝のテレビで紹介されました。それもいじめが原因というのが多いとのことです。「ウザイ、キモイ、バカ、シネ」と云われて何故死ぬのでしょうか。
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20数年前の週刊誌に「諸悪の根元は日教組」という記事が掲載されたものを持っています。これは学校の先生方は二度と不幸な戦争をしてはならないという思いで平和教育をしてきたことが裏目に出たということでしょう。学校の先生方は、まじめな方が多く、その対処がまずかったと私は見ています。槇枝氏が書いた、私の路線は間違いだったというのを読んだことがあります。
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子供たちがいう「いじめ」の大半は「いじめ」ではなく「ジャレ」なのです。私は半世紀子供たちに空手を教えて来て、目の前でジャレあう子供たちをみてきたからわかるのです。もう少し、生きる厳しさを教えなければならないのです。
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安保法案反対で大変な集会が計画され、凄いことになっています。野党の党首たちが扇動し、デモをしているやに思われます。戦争は決してあってはならないと思います。
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人々の先頭に立って法案反対を叫んでいるある党が、政権を取ったら戦争以上に大変怖いということを皆様は分かっているのでしょうか。
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私は菅原兵治先生の考え方が、日本人にとって一番よいと思っています。それは『南洲翁遺訓』の精神です。『南洲翁遺訓』をふりがざして、利用している人もいるやに聞かれますが、その内淘汰されるのです。
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掲げている指標に永遠性があり、人々の共感を呼び、そして日々の行動に真摯さがなければならないのです。何よりも、『南洲翁遺訓』刊行に際して取り組んだ人々の「命に代えて」を知らなければならないのです。約束を守らない人々に、『南洲翁遺訓』を口にする資格はないと思っています。私が間違っている時は高木先生教えてください。
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毎日、朝晩、道場に掲げている西郷先生、菅先生、菅原先生、長谷川先生、小野寺先生、竹下先生方のお写真に誓いの言葉と感謝の言葉を申しています。
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『大学味講』(第274回)
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(八) すべて物事には、「常道」と「権道」とがあります。「常道」というのは、平常の場合の道であり、「権道」というのは、平常でない変則的状態の時の権(かり)の道であります。
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実例を以て申しましょう。健康な人の平常の場合ならば、日に三度の食事をとって、一度の便通があるというのが「常道」でありましょう。ところが、中毒したというような場合には、一日や二日位は絶食して何も食わず、その上、下剤を用いて下すこともあるでありましょうが、これが即ち「権道」なのであります。
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こう考えてくると、現在のような生産を縮少して、消費を拡大するという在り方は、一体「常道」なのか、「権道」なのかとなるのですが、果たしていずれでしょうか。何かしら中毒症患者に対する応急手当的のもののように思えるのですが、どうでしょうか。もし応急手当の「権道」であるならば、私どもはその認識で対処せねばならぬでありましょう。
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『論語』(第374)
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子磬(しけい)を衛に撃つ。蕢(あじか)を荷うて孔氏の門を過ぐる者あり。曰はく、「心あるかな、磬を欝。」既にして曰はく、「鄙なる哉硜硜たり。己を知るなくば、斯れ已めんのみ。『深ければ則ちし、浅ければ則ち掲す。』」子曰はく、「果なるかな。之を難しとすること末(な)きなり。」
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孔子が衛の国で、磬という楽器を打って楽しんでいた。すると、もっこをかついで、孔子の泊まっている家の門前を通りかかった者があった。孔子の打つ磬の音に耳を傾けて、「はて、心ありげな磬の打ちようだな」といって聴いていたが、「どうもコチコチした融通性のない、いやしい音色だ。
世に執着のある者の打つ音だ。世の中に自分を知ってくれる者が無かったらそれまでで、退いて止めてしまったらよいではないか。
詩にも、『水が深ければ衣を脱ぎ、浅ければ裾をまくればよい』という句があるように、状勢によって適当に変わる融通性を持たねばならんよ」と言いすてて行ってしまった。門人がこのことを告げると、孔子は、「まことに思い切りがいいなあ。そう割り切って平気で居れれば、世の中は何もむずかしいことなかろう」(と歎息して、道が行われず、自分も用いられないが、さりとて世も人も捨て切れない、救世の愛情を吐露した。)
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『農士道』(第253回)
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而して私は其の士道の實現に最も相応しい存在の最も有力なる一つとして「農」を選ぶのである。そは何故か、其の理由として左の點を挙げ得ると思ふ。
一、農は天地自然を相手として最も自主自けん性ある職業たること。
二、農は祖孫相続の世襲的従業の可能性ある職業たること。
孟子も「富貴も淫する能はず、貧賤も移す能はず、威武も屈する能はず之を是れ大丈夫といふ」といっているが、「人を相手とせず、天地を相手とする」農道生活は、現在制度の下に於ける俸給生活者や、商工生活者に比して、眞に精神的に開眼されてさへ居れば、大いに此の大丈夫道の実践に相応しい生活であると思う。
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