味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

予れ一人罪ありとも、爾万方を以てするなけん。

2016-05-31 10:12:32 | ブログ
第2709号 28.05.31(火)
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(わ)れ一人罪ありとも、爾万方(なんじばんぽう)を以てするなけん。『書経』
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 わたしひとりに罪があるとしても、その責任を人民におおいかぶせてはならぬ。(湯王のことば)202
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 【コメント】上の言葉を読み、西郷南洲翁も同様のことをいうでしょう。林房雄著『西郷隆盛』全22巻を先ほど読み終わりました。その昔、一応読んだつもりでしたが、余り鮮明な記憶がありませんでした。西郷伝説等々数多く読んできたからこそ、喜び嬉しさもひとしおでありました。
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 著者の林房雄氏は32年かかって書いたと記しています。よくぞ書いてくれたと感謝の念一杯です。
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 最後は城山で、弟子の別府晋介に、
「晋どん、晋どん、もうここでよかろう」
と言い、しずかに正座して、手を合せて東の空を拝した。
「そうでござりまするか」
 別府晋介はゆっくりと駕籠を出て、よろめく足をふみしめながら吉之助のうしろに立ち、
「先生、お許し下さい!」
 紫電一閃、西郷吉之助の首は大地に落ちた。-----とあります。

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 叶うものなら、盟友であった大久保の末路もこの後に付け加えて欲しかったという思いです。
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 辺見十郎太が涙をはらって、
「おれたちが全滅したら、山県も川村も----いや、大久保と岩倉がさぞ安心し喜ぶだろう。----」
 吉之助は静かに、
「いや、必しも喜ぶとはかぎらぬ。木戸は死んだそうだが、大久保も岩倉も国を思う心は同じだ。------」
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 とあります。しかし仲間であった盟友を思う気持ちがどうであったか、----それはならぬ我々凡人がわかる筈はないでありましょう。
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 ここで詩吟道の師匠・竹下先生の漢詩「可愛岳突破」をご紹介します。
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   三千を攻撃す 数万の旌
   興亡既に決し 戦成り難し
   可愛岳の前路を突堕して  
   家山に帰到するは四百の兵

突堕(とっき)の「き」は堕の俗字を使用
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『臥牛菅実秀』(第245回)
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 実秀はこの構想に、なおも綿密な検討を加えた上で、西郷にはかった。西郷も士族の将来には深く心を痛めていたのであるが、この構想を聞くと膝をうって賛成した。
 そして、
「鋤をとって銃にかえ、ぜひお国のために尽していただきたい。」
と、力強く励ましたのである。
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 荘内で藩兵が解体したのは翌五年三月である。
  (旧藩の)有志の士、藩祖酒井忠勝公の神前において盟を結び、銃を鋤にかえて開墾に従事して、道義を修し、士気を振い、団結を固く   し、国家有事に奉公せんことを誓えり。
という記録があり、実秀の成案は、ただちに荘内士族の今後の方途として確認されたのである。このように藩兵を解体する前に、今後の方向が確立したことは、旧荘内藩の士族の不安と動揺を防ぐうえにも、重大な意義をもつものであった。

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『農士道』(第521回)
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 夏の未明、暁靄の中を馬の背に揺られながら、爽やかな歌を張り上げて歌ふあの草刈り歌など、村の若者に如何に朗らかなる生気を與へて呉れることであろう。歌の文句は忘れても、あのなごやかな調べから受けた少き日の記憶は、今でも夏の朝露を踏む私に、ゆかしい詩情を限りなくそそるものがある。今試みに農仕事の間に歌はれる謡いの二三をしるしてた見るも、
  そろたそろたよ 早乙女がそろた
        稲の出穂よりなほそろた」
  この田も植えて あの田も植えて
        たなぼり酒を飲んでいの」
  ここは道ばた よう植えておきやれ
        あすは殿御の水まはり」
  今年豊年 穂に穂がなりて
        道の小草に米がなる」
  さては元気のよい-----
  仕事なされよ きりきりしやんと
        かけた襷の切れるまで
こんなのがある。

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君子は進め難くして退け易し。小人は是れに反す。

2016-05-30 10:52:09 | ブログ
第2708号 28.05.30(月)
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君子は進め難くして退け易し。小人は是れに反す。『宋名臣言行録』
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 君子は進退を重んずるから、人が官途に進めようとしてもなかなか承諾してくれない。やめてくれという場合には、君子は欲がないから簡単にやめる。小人はこれに反して、取り立てようとすればいち早くとびついてくるから進めやすい。いったん官途につけば、欲があってかじりつくからなかなかやめさせがたい。これが君子小人の常態である。631
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 【コメント】時の人となっている首都の偉い人は、君子、小人の何れなのでしょう。因みに西郷南洲翁は人が言う前に姿を消す人でありました。
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 『西郷隆盛』第22巻 最終巻の半分を読みました。作者の林房雄氏は末尾に次のように書いています。曰く、
〈西郷隆盛を”雲の上の巨人”から救い出すために、私は無条件礼讃派の作った英雄伝説らしいものは出来るかぎり削除した。書き進めば進むほど、この人は生涯、自分を英雄とも偉人とも重要人物とも思ったことがなく、その故に自分を粗末にしたことがわかった。月照との投海、二度の流刑、征韓論(彼自身は軍人流の征韓論者ではなかった)による隠退、城山の悲劇、すべてその現れである。「偉人は自分が偉人であることを知らぬ。ただ、その時々に為さざるべからざることを為して死んだ人物のことだ」という先哲の言葉が最もよくあてはまる人物の一人にちがいない。〉
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 私の書棚には30種くらいの西郷隆盛がありますので、継続して拝読したいと思っています。読めば読むほど至らない自分に対して、身を修めよと檄を飛ばしてくれているようです。
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 ただその他の一般論を申し上げるならば、自動車の安全運転に心掛けてほしいと思います。因みに私は、つい先日、宮崎まで往復無事故無違反で帰宅したのですから。
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 人が人を殺害することは断じてあってはなりませんが、殺人事件に抗議行動を興す人々は、自動車事故撲滅にも抗議行動を起こしたらいいのにと思う次第です。

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『臥牛菅実秀』(第244回)
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 その実秀に、ある夜、突如として脳天をうたれたように閃いたものがあった。それは、
「不毛の土地を開拓して養蚕を興し、力食の道を切りひらこう。」
ということであった。
 翌年の明治五年に発令された徴兵令の告諭には『世襲坐食の士』とか『双刀を帯びて武士と称し、抗顔坐食し』という文字を使って旧武士団を批判しているが、実秀はいち早く、自ら耕し自ら生産する自主独立の『力食の道』を開こうと考えたのである。そしてその『力食の道』を『養蚕を興す』ことに求めたのは、当時、輸入超過に悩んでいた日本として、外貨獲得の第一位が生糸であったから、養蚕はただちに富国策に連るものであった。
 天啓のように閃いたこの構想をつかんだ実秀は、深夜ただひとりで躍りあがらんばかりに歓喜したと伝えられている。

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『農士道』(第520回)
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  而して高橋泥舟の
   野に山によしや鐖うとも蘆鶴の
        群れ居る雞の中にや入らむ

の歌に至っては、些か孤高の嫌があるかも知れぬが、腐爛の瞰下して、山澤の間に卓居する高士の概あらしむるではないか。なつかしきものは詩である。
 次に私共の見逃してはならぬことは、詩が-----歌が、田園農耕の労苦を慰する力のあることである。船こぎには船頭歌があり、大工には木遺り歌があり、軍隊に軍歌があるやうに、農業の仕事にも田植歌があり、田草取り歌があり、草刈り歌がある。

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何を以てか位を守る、仁と曰う。

2016-05-29 12:04:35 | ブログ
第2707号 28.05.29(日)
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何を以てか位を守る、仁と曰う。『易経』
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 一番の宝は天子の位であるが、その位はなにによって守るか。それは仁の道である。238
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 【コメント】最下級の場末で生きている我々には関係ないことですが、有難いことに『西郷隆盛』等の本を読むことで仁の道を教えていただいています。
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 特に我が空手道教室の子供たちは、荘内の英傑、菅臥牛先生、菅原兵治先生を始めたくさんの先生方に憧れています。林房雄著『西郷隆盛』第21巻「雷雲の巻(63頁)に菅臥牛先生と西郷先生の似顔絵が載っているため、大ファンの森永礼弥君にコピーして持参してあげました。
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 女の子に興味を持つよりか、臥牛先生がたに憧れた方が、遥かに健康的であり、教育的なのです。それは漢籍の世界も逍遥できるからです。
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 『週刊文春』5月29日号によりますと、東京大学の学生ら5人が女子大生を裸にして弄んだとして、逮捕されたと報じています。そしてRV車に7名の青年たちが載って深夜に事故を起こし一人が死亡、そして重軽傷者が出たという痛ましい事件も発生しています。
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 事故を起こす前に、危険性を教えても俺たちが事故を起こすものかと全員答えるのです。ところが事故を起こして始めて眼が覚めるのです。学業も大事でありますが、先ずは身体の健康こそを優先すべきだと思います。そして非違行為をしてはならないことも、です。
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 そしてまたまた、国際政治学者・知事様のスキャンダル女遍歴が華々しく週刊誌で報道されています。人間、大なり小なり若気の至りがあるものですが、事実は認め、謝罪すべきは早々と丁寧にお詫びしなければならないと思います。
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 昨夜は子供たちにRV車の事故等々お話し、非違行為に繋がることをしてはならないと教えてあげました。夜間高校を卒業してすぐ電電に入社した職場には、今の私みたいに漢籍を読むなどという人はいませんでした。
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 特に最初の職場は会社か賭博場かわからぬ位の処でした。学校を卒業した人間の世界はこういうものかと思ったものでした。
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 ところが鹿児島に転勤し、現在の自宅に空手道場付の家を建築する際、岳父が「君は大学も出ていないので平井先生に師事して学びなさい」という一言が、私の人生を大きく変えてくれたのでした。それは『南洲翁遺訓』との出会いが齎してくれたのでした。
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 あれから半世紀、『南洲翁遺訓』を肌身離さず拝読して参りました。そして荘内南洲会の先生方に何かとご指導して戴いたのでした。
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 『西郷隆盛』より、----
〈----西郷吉之助という男は最初から最後まで、自分を英雄とも偉人とも思わず、それどころか、さしたる重要人物だとも思っていなかったという一点である。-----名声と冨を求めて右往左往する人間は多いが-----西郷吉之助はそれらの一切を不要と言い、国の大事のためには命もいらぬと言った。〉64
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 今日、名声を誇っている国際政治学者の知事様とは真逆といってよろしいかと思います。

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『臥牛菅実秀』(第243回)
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 これらの人たちを時勢の成り行きにまかせておけば、完全に方途に迷ってしまうのだ。それに問題は、近く解散させられる運命にある常備隊だけのことではなかった。武家のしきたりしか知らない多くの士族と、その家族たちの将来も、きわめて暗く不安なものであった。
 政府では、この士族対策として、帰農、あるいは商業への転出をすすめ、その転業資金として禄高の五ケ年分を一時に支給する制度を設けたのであるが、なれぬ職業にばらばらに転じていっては、生計に追われて、三百年間、日本の精神の背骨をなしてきた節義の風も廉恥の心も崩れ去ってしまうかも知れないのだ。
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 実秀は、旧潘士が団結して、この精神の背骨をたもちつつ将来をはかる基盤を、何かに求めなくてはならないと苦しみ抜いていたのである。

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『農士道』(第519回)
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 更に又山内容堂の次の詩を高吟せんか、隴畝の間のさびしさの中に、又高邁の志向の生じ来るものがあるではないか。
   風は妖雲を巻いて 日斜ならんと欲す
   多難 意に関して 家を思はず
   誰か知らん 此の裏余裕あるを
   馬を郊原に立てて 菜花を看る

 幕末多事の秋、「多難意に関して家を思はざる」其の間に在って、土佐の藩主山内容堂が、猶綽綽たる余裕を有し、時来りなば、将軍に堂々大政奉還を勧告せんとする大経綸を胸に秘めつつも、「馬を郊原に立てて菜花を看る」の心----此の心は又、現下の若き青年に、一郷一村の現状を見、天下国家の現状を察して、或は五年後或は十年後に想いを致し、其の若き改革の経綸を深く毅く蔵しつつ、猶檄せず、「菜花を看る」の男性的風懐を抱かしむるものがあるであろう。

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高木先生、「鶴岡天満宮の御祭り」は賑やかだったのでしょうね。毎年、此の時期なのですか。
 昨夜の空手道教室でも、子供たちは大きな声で『南洲翁遺訓』を発表してくださいました。
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 森永礼弥君が、菅先生の似顔絵をどういうふうに書いてくるか楽しみです。

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自己を欺くこと莫れ。

2016-05-28 08:48:44 | ブログ
第2706号 28.05.28(土)
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自己を欺くこと莫れ。(『宋史』)
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 自分を常に欺かない。
 人を欺かないことも必要だが、自己を欺かないことはさらに大切だ。686

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 【コメント】多くの人は、基本的には人も自分も欺いてはならないと思っているでしょう。超多忙な日々を過ごしていて、ついついミスを犯すことだってあり得ると思います。
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 そういう時には、出来るだけ相手の言い分にも耳を傾けてあげたいものです。そして理解してあげたいものです。少々損をしたといっても、やり直しは利く筈ですから。ただ首都の一番偉い人は、国民を、都民を冒涜している人といるように見得るし、この男だけは手がつけられないようです。
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 早く自分の非を認めていればいいものを、次から次に、週刊誌が書きたててくれます。凡ての恥部が洗いざらい出てくるようです。人間大なり小なり長短あるのですが、俺は格別だという思い上がりが、結果的に自分を苦しめているようです。
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 これと比較したら号泣会見のお兄ちゃんは赤子のようなものだと言った人がいましたが、本当のような気が致します。
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 昨日は、広島にオバマ大統領が来てくださいました。何事も善処するよう努力して貰いたいものです。原爆を落とした国も落された国も、それぞれ言い分はあるでしょうが、今後このようなことをしてはならないと思いますが、周囲には物騒な国が虎視眈々と控えています。
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 昨日は、宮崎へ往復し無事帰宅しましたが、すっかり疲れました。とにかく交通事故だけはしてはならないと思い、慎重を期してきました。それにしても軽車両の暴走が数多く散見されました。

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『臥牛菅実秀』(第242回)
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 また政府として強兵策を推し進めるためには、国民皆兵の徴兵令を施行しなければならないことも時間の問題になっていた。そしてこの徴兵令の実施は、結果的に武士団の存在を基本的に否定するものであった。このように政府として富国強兵を進める上に、士族の存在は、無用で厄介なものになってしまったのである。
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 実秀はいち早く士族の将来をどうするかという困難な問題に取り組んで苦慮していた。
 国もとの鶴岡では、常備隊の精鋭たちが、報国の意気に燃えて練兵に励んでおり、またその中の都筑隊五十余名は、前年から東京に出て村田経芳の指導で砲術の猛訓練をつづけていた。この都筑隊の人たちは、木綿の半纏を筒袖に直したものに、木綿のズボンというすこぶる粗末な服装で、意気揚揚と東京市中を闊歩していたのであった。

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『農士道』(第518回)
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 木下犀潭の詩にいふ。
    林葉風に飄って瑟瑟として鳴る
    盧窓、唯見る一燈の明
    人間多少功名の夢
化して作る、山戻夜雨の聲。
と。秋雨のしとしとと降る夜など、寂かに浸る幽情であろう。更に又、
    一たび家を移して紫煙に入りてより
    深林棲むこと久うして遂に年を忘る
    山中道うこと莫かれ、供給無しと
    明日清風 銭を用いず
という王陽明の詩を味へば、都門の高層建築の中に於ける扇風機によって購はるる濁風の生活に比して、明月と清風とを一銭の銭も用いずして満喫し得る山中の生活に床しい矜をさえ覚えるではないか。

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堯、舜の道は,孝弟のみ。

2016-05-27 17:49:50 | ブログ
第27054号 28.05.27(金)
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 堯、舜の道は、孝弟のみ。『孟子』
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 聖人堯舜の道といっても、要するに孝悌をつくす、常に親を親愛し、年長者を尊敬することにほかならない。129
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 【コメント】〈親と年長者だけでなく、できれば世の多くの人々を尊敬できる人間〉になりたいものだと思います。私が連日拝読している『西郷隆盛』も世の人々を親愛したとして描かれており、『南洲翁遺訓』を半世紀にわたり学んできて、そして子供たちに『南洲翁遺訓』を教えてきて良かったと幸福感につつまれています。
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 『南洲翁遺訓』を学び、そしてそれを世の人々に紹介しようとする人は、団体は、『南洲翁遺訓』と西郷隆盛の精神を踏襲しなければならないと考えます。
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 会合に参加させて貰って、さも自分たちが主導してやってきたという偽りはすべきではないのです。相手がどんなに多人数であっても、私は絶対まけません。大都市のウソをつく知事と五十歩百歩だと思います。
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 『南洲翁遺訓』を命がけで世に広めてきた小野寺先生が、どれほどの口惜しさを持ったままあの世へ旅立ったかということです。
 只今夕刻5時55分でございます。実は、宮崎に住んでいる家内の姉88歳が急遽、体調が悪くなりましたので、早朝お見舞いに行って参りました。往復自家用車を運転し、事故もせず、無事帰りつきました。車両事故を起こすと、77歳の後期高齢者が無謀な運転をしたと新聞で報じられますので、前方ヨシ、スピートヨシと声を出し安全運転をして参りました。
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 昨夜の空手道教室も大変賑わいました。荘内の先生方に聞えるように発表してくださいと檄を飛ばすと子供たちは大きな声で発表してくださるのです。これが必ず、燎原の火となって燃え盛っていくのです。
 その為には、指導者は真面目にならないといけないのです。

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『臥牛菅実秀』(第241回)
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 しかし一面、旧武士団である士族の不満を考慮する政府は、士族階級の徹底的な解体にはきわめて慎重で、明治三年の禄制改革(荘内藩では、この改革によって従来の藩士の禄高の三分の一、乃至五分の一に削減された)以降と同一の禄高を政府の手によって支給することを約束した。全国士族の給禄の総額は、当時の政府歳入の三分の一から四分の一をしめる巨額なもので、政府がこのまま給禄をつづければ、国家財政に破綻をきたすことは、誰の眼にも明らかなこどあって、早晩その支給を打ち切らねばならぬ性質のものであった。とりあえずこれだけを更新いたします。ブログを御覧になってくださっている先生方には大変ご迷惑をおかけしました。後は引き続き書きたいと思います。
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『農士道』(第517回)
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 以上幾種かの陶淵明の詩を通じても味ははれるが、田園農耕の生活は、之を花やかな都門の生活に比すれば、確かに「さびしさ」がある。然し西行法師も、
  さびしさに堪えたる人のまたもあれな
            菴ならべん冬の山里
と歌っているが、私共は此の「さびしさ」に堪えねばならぬ。詩はこの「さびしさ」を慰むるに亦與って力あるものである。

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