第2709号 28.05.31(火)
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予(わ)れ一人罪ありとも、爾万方(なんじばんぽう)を以てするなけん。『書経』
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わたしひとりに罪があるとしても、その責任を人民におおいかぶせてはならぬ。(湯王のことば)202
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【コメント】上の言葉を読み、西郷南洲翁も同様のことをいうでしょう。林房雄著『西郷隆盛』全22巻を先ほど読み終わりました。その昔、一応読んだつもりでしたが、余り鮮明な記憶がありませんでした。西郷伝説等々数多く読んできたからこそ、喜び嬉しさもひとしおでありました。
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著者の林房雄氏は32年かかって書いたと記しています。よくぞ書いてくれたと感謝の念一杯です。
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最後は城山で、弟子の別府晋介に、
「晋どん、晋どん、もうここでよかろう」
と言い、しずかに正座して、手を合せて東の空を拝した。
「そうでござりまするか」
別府晋介はゆっくりと駕籠を出て、よろめく足をふみしめながら吉之助のうしろに立ち、
「先生、お許し下さい!」
紫電一閃、西郷吉之助の首は大地に落ちた。-----とあります。
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叶うものなら、盟友であった大久保の末路もこの後に付け加えて欲しかったという思いです。
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辺見十郎太が涙をはらって、
「おれたちが全滅したら、山県も川村も----いや、大久保と岩倉がさぞ安心し喜ぶだろう。----」
吉之助は静かに、
「いや、必しも喜ぶとはかぎらぬ。木戸は死んだそうだが、大久保も岩倉も国を思う心は同じだ。------」
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とあります。しかし仲間であった盟友を思う気持ちがどうであったか、----それはならぬ我々凡人がわかる筈はないでありましょう。
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ここで詩吟道の師匠・竹下先生の漢詩「可愛岳突破」をご紹介します。
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三千を攻撃す 数万の旌
興亡既に決し 戦成り難し
可愛岳の前路を突堕して
家山に帰到するは四百の兵
突堕(とっき)の「き」は堕の俗字を使用
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『臥牛菅実秀』(第245回)
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実秀はこの構想に、なおも綿密な検討を加えた上で、西郷にはかった。西郷も士族の将来には深く心を痛めていたのであるが、この構想を聞くと膝をうって賛成した。
そして、
「鋤をとって銃にかえ、ぜひお国のために尽していただきたい。」
と、力強く励ましたのである。
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荘内で藩兵が解体したのは翌五年三月である。
(旧藩の)有志の士、藩祖酒井忠勝公の神前において盟を結び、銃を鋤にかえて開墾に従事して、道義を修し、士気を振い、団結を固く し、国家有事に奉公せんことを誓えり。
という記録があり、実秀の成案は、ただちに荘内士族の今後の方途として確認されたのである。このように藩兵を解体する前に、今後の方向が確立したことは、旧荘内藩の士族の不安と動揺を防ぐうえにも、重大な意義をもつものであった。
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『農士道』(第521回)
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夏の未明、暁靄の中を馬の背に揺られながら、爽やかな歌を張り上げて歌ふあの草刈り歌など、村の若者に如何に朗らかなる生気を與へて呉れることであろう。歌の文句は忘れても、あのなごやかな調べから受けた少き日の記憶は、今でも夏の朝露を踏む私に、ゆかしい詩情を限りなくそそるものがある。今試みに農仕事の間に歌はれる謡いの二三をしるしてた見るも、
そろたそろたよ 早乙女がそろた
稲の出穂よりなほそろた」
この田も植えて あの田も植えて
たなぼり酒を飲んでいの」
ここは道ばた よう植えておきやれ
あすは殿御の水まはり」
今年豊年 穂に穂がなりて
道の小草に米がなる」
さては元気のよい-----
仕事なされよ きりきりしやんと
かけた襷の切れるまで
こんなのがある。
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予(わ)れ一人罪ありとも、爾万方(なんじばんぽう)を以てするなけん。『書経』
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わたしひとりに罪があるとしても、その責任を人民におおいかぶせてはならぬ。(湯王のことば)202
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【コメント】上の言葉を読み、西郷南洲翁も同様のことをいうでしょう。林房雄著『西郷隆盛』全22巻を先ほど読み終わりました。その昔、一応読んだつもりでしたが、余り鮮明な記憶がありませんでした。西郷伝説等々数多く読んできたからこそ、喜び嬉しさもひとしおでありました。
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著者の林房雄氏は32年かかって書いたと記しています。よくぞ書いてくれたと感謝の念一杯です。
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最後は城山で、弟子の別府晋介に、
「晋どん、晋どん、もうここでよかろう」
と言い、しずかに正座して、手を合せて東の空を拝した。
「そうでござりまするか」
別府晋介はゆっくりと駕籠を出て、よろめく足をふみしめながら吉之助のうしろに立ち、
「先生、お許し下さい!」
紫電一閃、西郷吉之助の首は大地に落ちた。-----とあります。
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叶うものなら、盟友であった大久保の末路もこの後に付け加えて欲しかったという思いです。
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辺見十郎太が涙をはらって、
「おれたちが全滅したら、山県も川村も----いや、大久保と岩倉がさぞ安心し喜ぶだろう。----」
吉之助は静かに、
「いや、必しも喜ぶとはかぎらぬ。木戸は死んだそうだが、大久保も岩倉も国を思う心は同じだ。------」
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とあります。しかし仲間であった盟友を思う気持ちがどうであったか、----それはならぬ我々凡人がわかる筈はないでありましょう。
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ここで詩吟道の師匠・竹下先生の漢詩「可愛岳突破」をご紹介します。
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三千を攻撃す 数万の旌
興亡既に決し 戦成り難し
可愛岳の前路を突堕して
家山に帰到するは四百の兵
突堕(とっき)の「き」は堕の俗字を使用
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『臥牛菅実秀』(第245回)
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実秀はこの構想に、なおも綿密な検討を加えた上で、西郷にはかった。西郷も士族の将来には深く心を痛めていたのであるが、この構想を聞くと膝をうって賛成した。
そして、
「鋤をとって銃にかえ、ぜひお国のために尽していただきたい。」
と、力強く励ましたのである。
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荘内で藩兵が解体したのは翌五年三月である。
(旧藩の)有志の士、藩祖酒井忠勝公の神前において盟を結び、銃を鋤にかえて開墾に従事して、道義を修し、士気を振い、団結を固く し、国家有事に奉公せんことを誓えり。
という記録があり、実秀の成案は、ただちに荘内士族の今後の方途として確認されたのである。このように藩兵を解体する前に、今後の方向が確立したことは、旧荘内藩の士族の不安と動揺を防ぐうえにも、重大な意義をもつものであった。
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『農士道』(第521回)
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夏の未明、暁靄の中を馬の背に揺られながら、爽やかな歌を張り上げて歌ふあの草刈り歌など、村の若者に如何に朗らかなる生気を與へて呉れることであろう。歌の文句は忘れても、あのなごやかな調べから受けた少き日の記憶は、今でも夏の朝露を踏む私に、ゆかしい詩情を限りなくそそるものがある。今試みに農仕事の間に歌はれる謡いの二三をしるしてた見るも、
そろたそろたよ 早乙女がそろた
稲の出穂よりなほそろた」
この田も植えて あの田も植えて
たなぼり酒を飲んでいの」
ここは道ばた よう植えておきやれ
あすは殿御の水まはり」
今年豊年 穂に穂がなりて
道の小草に米がなる」
さては元気のよい-----
仕事なされよ きりきりしやんと
かけた襷の切れるまで
こんなのがある。
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