味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

論語を読む者は、但諸弟子の

2018-01-01 10:41:16 | 南洲翁遺訓
第3289号 30.01.01(月)

 明けましておめでとうございます。本年も拙いながらブログを書いて行きたいと思っています。何卒ご海容賜りたくお願い致します。

論語を読む者は、但諸弟子(ていし)の問ひし處を将(もっ)て便(すなわ)ち己の問ひと作(な)し、聖人の答へし處を将(もっ)て便(すなわ)ち今日の耳聞(じぶん)と作(な)さば、自然に得る有り。若し能く論・孟中に於て深く求めて玩味せば、将来涵養して甚生の気質を成さん。189

 論語を読むものは、門人たちの質問を自分の質問とし、聖人の答えを現に耳にする答えとせよ。そうすれば自然に得るところがあろう。もし論語・孟子の中から深く道を求め、よく玩味することができたならば、やがてはすばらしい気質を養成することになろう。189

 【コメント】漢籍を読むということは、聖人の教えを聞き心を養っていくことだと思います。長年漢籍を読み、至らない私は漢籍に導かれています。

 そして教えの国・荘内の先生方の生き方にその姿勢を観、指標とさせて頂いているのです。まもなくするとNHK大河ドラマでセゴトンが放映される運びとなっていますが、西郷さんの生き方は荘内の方々の生き方でもあるのです。まさしく『南洲翁遺訓』のとおりなのです。

 昨年末、全国吟詠大会に参加されたいとの要請を賜り、単身荘内へ行って参りました。23日は東北公益文科大学で大会が開催され、そこで自作の「荘内南洲会を詠ず」を吟じて参りました。

 そして翌日の24日は、致道館に於て『書経』を拝読してきました。荘内南洲会の事務長・阿曾先生にお願いし雪が降る中、致道館へご案内していただきました。

 今朝の読売新聞によりますと、好からぬ猥褻の類とする動画が、お堅い仕事を専門とする検事・警察官の人々にも行き亘っているとのことです。

 男であれば、多くが興味を持つでしょうが、できれば猥褻動画・写真よりか、漢籍に移行されたら如何かと提案いたします。連日拝読してこれ程楽しいものはないと思っています。

 年賀状を頂いた中に、『南洲翁遺訓』を学びつづけます、と小学3年生が初春の誓を書いてきてくれています。

 昨年の早い時期に目眩がして隠れ脳梗塞と診断されましたが、それでも何がなんでもブログは書きつづけなければならないとしてパソコンに向かっています。

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『不動心』(第152回)

 実行にして留意すべきこと一つ

 「私はその男に答えて、当然こういうだろう。
 友よ、君は、多少なりとも値打ちのある人間なら、生死の見通しまで時間をかけて吟味すべきだと思っているのか。それなら君は間違っている。何かを行うときに考慮すべきことはただ一つ、正しく行動しているか誤った行動をしているか、また善き人のように行動しているか、悪しき人のようにか、という点なのだ」(プラトン『ソクラテスの弁明』より)

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君子は敬を主として以て其の内を直くし、

2017-11-01 18:23:29 | 南洲翁遺訓
第3229号 29.11.02(木)

君子は敬を主として以て其の内を直くし、義を守りて以て其の外を方にす。敬立ちて内尚く、義形(あら)れて外方なり、義は外に形る、外に在るに非ざるなり。敬義既に立てば、其の徳盛んなり。大なるを期せずして大なり。徳孤ならざるなり。用ふるとして周からざる所無く、施すとして利ならざる所無し。孰(たれ)か為さん。『近思録』75

 敬を第一として心を正しくし、義を守って形をきちんとする。敬が確立すると心が正しくなり、義が現れると形が整ってくる。義は内から外に現れるものであって、外にあるのとは違う。敬義が確立すると、徳が立派になるし、大きくなることを期待せずに大きくなる。徳は孤立しない。それで何を用いてもその力が世のすみずみまで行き渡り、何を施工してもその効果が現れる。この点について、誰が疑いを挟もう。75

 【コメント】大変素晴らしい教えだと思います。我々普通の者も「敬」と「義」を日常的に確立するよう心得たいものです。

 先般、高速道路で車を停車し後部の車両運転手に無謀な振る舞いをしたとして、逮捕された男がいましたが、今朝の新聞には22歳の青年が60歳の老人の車を停車させ、暴言を吐いて走り去ったとして逮捕されたとしています。

 なんで無謀なことをするのでしょう。こういう人間は性の問題ですから、この青年の前途はいろいろな事件が待ちうけていると思います。こういう手合いは徹底的に取り締まるべきだと思います。この青年は殴るなどの暴行をしていないので逮捕するのは行き過ぎたというメディアもありますが、強制的に車を停車させたことは暴行と同次元だと思います。

 意見を発することはいいことなのですが、少しのことでカチンときた、というのは人間の未熟性を露呈したものと言っていいでしょう。

 私はブログでも書いてきましたが、こういう社会現象はいいたい放題の労働運動に起因していると思います。私どもが子供の頃は年上の人の言い分には謙虚に従ったものです。戦後喪失した精神文化としての長幼の序が無くなったことでも理解できます。

 このままだと美徳とされたものが亡くなり、今の若い人々が子供を育てる時、大変なしっぺ返しがくるのです。

 政治の世界では立憲民主党が伸びたことは歓迎しますが、この政党と連動して学校教育現場で反戦・平和を主導する団体が子供たちの躾の悪化につながるのです。

 私は長年労働運動に与してきましたが、高校を出たての青年たちはすぐ悪に染まるのです。かく申す私はスパルタ教育の母に厳しく育てられたのでした。

 仕事の手伝いをしない、挨拶をしない、言葉づかいが悪いときは、御飯を食べさせて貰えないのでした。

 人間、真面目で素直、勤勉にして努力、勤労精神旺盛な性格を形成したいものです。それが健康にして長生きにつながるのです。

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「西郷南洲の政治思想について」----第14回

 現実を直視し真剣に生きることすら出来ぬ浮薄な生活で、如何にして眼を以て眼に報い歯を以て歯に報いる様な痴愚を去り、執拗な応報観念や呪詛気分を超脱して、真に人間の平和幸福を希願することが出来ようか。それでも個人的には流石に多くの英霊漢によって是の如き宗教的心境も蘭かれたが、後れて発達した国家の生活では、まだまだ弱い者は奴隷的或は逃避的態度を余儀なくされ、強いものは暴力を以て臨むが現状で真の尚武国家は我が日本以外殆ど見当たらない。244
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『不動心』(第96回)

 最高の復讐法
 人からされても、やり返さないのが最高の復讐だ。
 われわれの指導理性は自らを目覚めさせ、自ら進むべき方向を定める。しかも自ら望むものに姿を変えたり、見聞きしたものを自らの考えで解釈したりできる。104


 私の復讐法も同様です。変な事をされても天が観ているということを学んでいるので、グッと我慢することにしています。
 今長野県で自動車のタイヤが周囲一帯パンクさせられたとしてテレビ報道されました。犯人は天の制裁を受けることになるのです。
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『臥牛先生遺教抄』(第54回)

 師事する人に対し尤もなる言は聞き、不尤もなる言は聞かぬという者あり。それは無礼と言わんより寧ろ物知らずというべきぞとて笑い給えり。
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この所、若い人々も含め非違行為が目立つようです。折角この世に生を得たのに、意義ある人生にして頂きたいものだと思います。悪いことをすれば必ず天の報復があるのです。
 
 子供を産んだお母様がたは、我が子を厳しく育て人生を誤まらないよう躾を徹底して欲しいものです。他人がいろいろ言うと問題がありますが、母親が言う分には子供は真剣に聞かざるを得ないのです。
 私の母親は、それはそれは厳しい人でした。それでも母親にバレないように、カルタ遊び等したものでした。そういう時も後で厳しく叱られたものでした。そして庭掃除、拭き掃除、お便所の掃除など躾けてほしいものです。
 厳しく育てられたお蔭で、母親に感謝する日々です。

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『南洲翁遺訓』〈仰ぎて天に愧ず〉

2011-06-05 17:47:37 | 南洲翁遺訓

タイトル----『南洲翁遺訓』〈仰ぎて天に愧ず〉。第866号 23.06.05(日)

 〈仰ぎて天に愧ず、佈して人に怍ず、夫れ此の如し、故に其の冠を掛け、故山に帰るや、三州の士民老者は之れを安んじ、朋友は之れを信じ、少者は之れに懐く、海内の士皆な領を延きて南望し、〉(荘内南洲会・『南洲遺訓』P61)

 上の文言を何人の人が読み、理解しているでしょうか。実はブログ・ココログ第865号で未就学児童・西川さくらちゃんのことを紹介しました。

 上の文言は、さくらちゃんの兄である西川 蓮君(小学2年)が書いてきたものです。ノートに書いている堂々たる書き方に何時も唸っています。西川君のノートは昨日お見えになった古川文子様にもお見せいたしました。その文字に見入り、吃驚していました。

 西川君は、漢籍の書きとりをした用紙を見て、二回くらい諳んじて紙を裏返し、すぐ声に出して言えるのです。凄い暗記力です。まさしく神童の域だと思います。

 こういう幼い頃暗記したのが、やがて顕現されてくると思うと、安岡正篤先生の幼少時代を思い出します。

 昨日は、西南の役で戦死し、南洲神社のお墓で眠っている庄内出身の榊原政治、伴兼之両氏のお墓の花をきれいなのに取替え、お線香をあげ、慇懃に礼拝しました。

 そのお墓の真ん中に古川文子様にお立ち戴き、写真撮影もしました。出来上がり次第、荘内南洲会へ送付しますので、阿曾事務長様、『敬天』に載せて戴きたく存じます。勿論、西郷隆盛のお墓のお花も取替えお線香もあげました。

 城山ガーデンス水簾では、副店長の安川あかねさんと古川文子様の対面も実現しました。安川さんは18歳の時、海音寺潮五郎の西郷隆盛を読み、西郷ファンになり、半年一回、横須賀からお墓詣りにきていたのだというのです。9年前、鹿児島に移住し、鹿児島の人と結婚し、現在、西郷隆盛研究家として活躍しておられます。

 安川さんが西郷隆盛研究家としてテレビに映った時、古川様がそれを写真に撮り、荘内南洲会阿曾事務長に送ったのでした。その後、荘内から安川さんに『南洲翁遺訓』を送りました。そして古川様、安川さんが電話、手紙で交流したのですが、お合いしたことはなかったのでした。その為、私が昨日対面をさせた、という訳です。

 そういった意味で昨日は、誠に素晴らしい、意義ある一日でした。お互い心ある者が、西郷隆盛の訓え、そして『南洲翁遺訓』の精神を中心にして、世の人々に声掛けをし、世の正常化運動を勧めて参りたいと思います。

 昨年度、『南洲翁遺訓』編纂事件でひと揉めしましたが、お二人もそのやり方に首を傾げています。まともな人なら首を傾げるのが当然でしょう。

 冒頭に「仰ぎて天に愧じず--」と小学生が書いたと紹介しましたが、『南洲翁遺訓』を改竄するなどという行為は天に愧じる行為なのです。昨日は、南洲神社のお墓でのご案内をする森田様からもお話を伺いましたが、『南洲翁遺訓』改竄をはじめ、大変なご立腹でした。全く南洲翁の精神が分かっていない御仁の暴走と言えるでしょう。その方は、刑事事件にも発展しかねないことがあるともお話しました。

 あえて天下の先とならず、という古典の言葉があるが、敢えて背信行為をすることなかれといいたいと思います。

 先般、顕彰会評議員会があった際、『南洲翁遺訓』編纂に関して、薩摩士魂の会様からの回答書の一部を私が読み上げました。ところが問題を引き起こした御仁は、当初から荘内南洲会の方からも意見を聞きたかったのだ、という詭弁を弄しました。

 西郷さんがあの世で一番お悲しみになっておられると思うのです。


租税を薄くして民を裕にするは---。

2011-04-22 14:27:11 | 南洲翁遺訓

タイトル---租税を薄くして民を裕にすは---。第822号 2304.22(金)

 租税を薄くして民を裕にするは、即ち国力を養成する也。故に国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確守し、上を損して下を虐げぬもの也。(『南洲翁遺訓』第十三章)

 税金を軽くして国民を豊かにするのは国力を養成する基である。それによって、はじめて国力が養われることになるのである。その為には、国家の仕事が多くなり財政が不足して苦しむことがあっても、定まった税金の制度を守り簡単に改めることはすべきではない。上を損じて下を虐げぬものなりと言うことは、政府が損をしても民間を苦しめないということである。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)

 損上益下

 易経の言葉に「上を損じて、下を益すれば、民悦びて限りなし」とある。このことを南洲翁は国家多端にして財用の足らざるを苦しむとも、租税の定制を確立し、上を損じて下を虐げぬもの也と教えられておる。上とは支配する治者のことであり、下とは支配されておる一般住民のことである。(前掲書)

 俗吏を用いてはならない

 俗吏とは、無理やりに税金を集めることには能力があり上手であるが、他の仕事では普通より程度が落ちる役人のことである。(前掲書)

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 『南洲翁遺訓』を繙いて30年が経過しました。荘内南洲会・小野寺理事長の『南洲翁遺訓』といい、頭山立雲先生の『南洲翁遺訓』に対する解説といい、今の政治家の方々に読んで聞かせたいくらいです。小野寺先生は、「政治家の方々に読んで欲しい」と言い続けています。

 南洲翁の精神といい、潔さといいこれからも『南洲翁遺訓』は読み続けられるであろうし、読まれなければならないと思います。

 西郷隆盛を慕う荘内南洲会の方々は、かくあるべしというお手本と『南洲翁遺訓』に言う「人民の標準」としての生き方を示されているのです。

 『南洲翁遺訓』を改竄しようとするような人間は、本当の『南洲翁遺訓』を理解していないのです。

 

 


正道を踏み国を以て斃るるの精神なくば--

2011-04-03 16:27:49 | 南洲翁遺訓

タイトル---正道を踏み国を以て斃るるの精神なくば--。第801号 23.04.03(日)

 タイトルの言葉は『南洲翁遺訓』第17章の言葉です。原文は、

 正道を踏み国を以て斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず。彼の強大に畏縮し、円滑を主として、曲げて彼の意に順從する時は、軽侮を招き、好親却って破れ、終に彼の制を受くるに至らん。(『南洲翁遺訓』17章)

 何と力づよい言葉でしょう。西郷南洲翁は国の要職を歴任した方だから、我々場末の者が高度なことを論ずる訳には行かないと思います。だから私は、我々の次元に置き換えて活用・応用するよう勧めています。

 例えば押し売りが来たとします。そういう時にグズグズした対応をすれば、相手はその弱腰に付け込んできます。そういう時、いらないものはいらない、とハッキリ言わなければならないと思います。

 翻って、子供たちにも甘えの構造を汚染してはならないのです。人間は何時、どういうことが起こるか分かりません。私は、空手道場では基本的に褒めちぎることにしています。9誉めるのです。そして1は悪いところは叱るか、指摘するかしているのです。これは精神力の強い子供になって欲しいからです。いじめではないのです。学校教育現場では、一寸したことが「いじめ」とされているのです。

 東北で地震に遭遇した子どもたちで、親も兄弟姉妹も、家も無くなって一人ボッチという子どももいるのです。そういう子供は一人で生きて行かなければならないのです。

 今、空手の舞をおけいこにくる女児がいます。付き添って見学していた母上様が、私が優しく丁寧に指導するものだから、とっても喜んでメールが届きました。その女児は5回のお稽古で大体ストーリーを覚えてくれました。

 その母上様にメールで申しました。上手くなるに従って厳しくなります、と。やがて人様の前で演ずる時、肉体と精神の全てを燃焼して、表現しなくてはならないのです。目つきと、呼吸と、動きと、態勢とが渾然一体となって演じなければならないのです。そうでないとお客様に対して礼を失することになります。そういう挑む心が、中村天風師に言わせると、宇宙と一体となり、宇宙から気を貰うことになるのです。『孟子』に言う、「浩然の気」という世界でしょうか。そのことが健康と長生きにつながるのだ、とは正論だと思います。そうした時、人々に心からの感動を与えるのです。これを人間芸術と言うのです。

 先に酔っ払い喧嘩を興した海老蔵氏が、こういう真剣な精神で舞台に望んでいるとしたら、灰皿にウイスキーを入れて人様に、呑め、というようなことはしなかったのではないか、と思ったのです。そこに若さとはいえ、甘さがあるように思えてなりません。

 正道を踏み、力いっぱい生きる努力をしたいものです。