タイトル----人は未だ自ら致す者あらず。必ずや親の喪か。第2012号 26.06.30(月)
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人は未だ自ら致す者有らず。必ずや親の喪か。『論語』485
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人間社会で、ぜひ自分でなければならないとして、最大限に力をつくすべきことはそれほど多くはない。もしありとするならば、それは親の喪をいとなむときであろうか。
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【コメント】
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親の喪をいとなむ時は大事であります。私は遠く枕崎まで毎月二回はお墓詣りをしています。大根占にいるときもそのようにしていました。
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併せて道場関係者に難問がふりかかり、困窮している時は、家族同様すぐ行動を開始します。そして誠心誠意盡すことにしています。だから元気なのだと思います。
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ある子どもさんが入会したいと言って諸手続きは済ませましたが、お稽古にやってきません。来ないのに、稽古にきなさいということは言わないつもりです。その子どもさんは私の所でお稽古をしないと、やがて大変なことが起こると思っています。
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私から見たその子どもは、そこいらの空手道場では育てることは出来ないと思っています。なぜなら指導者が人間学を修得していなければならないからです。
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『天保おすわり事件』(第67回)
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二 三
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川南、西郷組二十一人に、先鞭をつけられた川北組のお百姓達は、気が気でなかった。
「一日遅れれば一日だけ、おかみの警備が厳重になる。出かけるなら今のうちだ。いたづらに逡巡して、悔を千載にのこしてはならぬ。」
かう思って、川北のお百姓たちは躍起したのである。
川北で、運動の中心となったのは、飽海郡江地村玉龍寺住職文隣和尚であった。
文隣、諱は圓貞、川南で牛耳を取った加茂屋文治の實兄である。轉封の臺命下るや、痛心措く能はず、何とかして事前に之を阻止せんものと、弟文治を通じて、本間辰之助等と密かに談合、萬全の策を講じていたが、川南の第一陣が失敗したと聞くと、直ちに腹心の人々と協議の末、遊佐、平田、荒瀬の三郷から廿一人を選び出し、十二月廿三日、吹浦口から今の秋田県由利郡を迂回し、折柄の猛吹雪を冒して及位峠を越え、天保十二年の正月三日、新庄領の名木澤に着いた。
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短歌の紹介
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新政府官僚機構の整備など
歳出膨張紙幣乱発 6869 『臥牛菅実秀』
荘内藩練武のために奨励す
殺生士族の生計支ゆ 6870 『臥牛菅実秀』
大久保は明治十一年五月
島田一郎暗殺される 6871 『臥牛菅実秀』262