タイトル----『命もいらず名も入らず』の紹介---3. 第508号 22.06.30(水)
できると思えば何でも出来る。世の中に、念じて出来ないことなんか、何一つありはしない。
稽古などは、おのれの身を鍛錬するだけのこと。国のこと、人のためになるということではない。益荒男たる者、国の礎となってこそ生きている値打ちがある。そうではないか。〔藤原正彦氏の文芸春秋七月号の「日本人に告ぐ」を読んだからではないが、かねがねそのように思っていた。それはトケイヤー著『日本人は死んだ』を読んでから、歴史の真実に辿りついたからである。〕
なすべきことをなす。それはおのれのためであり、天下のためになるということです。
人を悪し様に罵る清河は、豪傑には違いなかろうが、やはり見苦しい。鉄太郎には、人が偉くこそ見えるが、馬鹿に見えるということはない。むしろ、どんな人間にも、よいところのあるのが見えてくる。だから自然に謙虚になるし、頭をさげることができる。〔人格が陶冶された武道人の姿なのでしょう。〕
おのれを突き動かす性欲というものが、鉄太郎にはよほど不思議だったのだろう。何事も徹底的。
清河がまくしたてた。漢籍をひもとけば、魏翁曹操打倒を期して、劉備が血判を押した故事もある。血判を押せば、本人の心気いやが上にも高まるばかりでなく、なにごとにも用心を怠らず、精神をつねに尽忠報国の一事にそそくことができる。これすなわち血判の効用だ。-----この男、理屈が多い。そう思ったが、口にはしなかった。〔-----なにごとにも用心をおこたらず-----とあるが、用心をおこたったから、殺害されたのではないか。〕
名を揚げる----のは、所詮、他人の評判を気にすることであろう。そんなことにこだわっていては、人間の器が小さく縮こまってしまう。
宇宙界の中では塵芥にもひとしい人間だが、宇宙界と対峙して雄雄しく生きたい。そのために、なにより大切なのは、他人の評判ではなく、自分の信(まこと)の気持ちなのだ、と強く思っている。〔雄雄しくはないが、信を貫きたい、という気持ちはあります。円心会の師範たちはそうだと受け取っています。〕
人は何よりもまず、高い志をもたねばならない。
著者の思いいれもあるのだろうが、何と言う気高い志であろうか。〔その精神を学びたい一念であります。〕