味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

『命も入らず名も入らず』の紹介---3。

2010-06-30 16:54:15 | ブログ

タイトル----『命もいらず名も入らず』の紹介---3. 第508号 22.06.30(水)

 できると思えば何でも出来る。世の中に、念じて出来ないことなんか、何一つありはしない。

 稽古などは、おのれの身を鍛錬するだけのこと。国のこと、人のためになるということではない。益荒男たる者、国の礎となってこそ生きている値打ちがある。そうではないか。〔藤原正彦氏の文芸春秋七月号の「日本人に告ぐ」を読んだからではないが、かねがねそのように思っていた。それはトケイヤー著『日本人は死んだ』を読んでから、歴史の真実に辿りついたからである。〕

 なすべきことをなす。それはおのれのためであり、天下のためになるということです。

 人を悪し様に罵る清河は、豪傑には違いなかろうが、やはり見苦しい。鉄太郎には、人が偉くこそ見えるが、馬鹿に見えるということはない。むしろ、どんな人間にも、よいところのあるのが見えてくる。だから自然に謙虚になるし、頭をさげることができる。〔人格が陶冶された武道人の姿なのでしょう。〕

 おのれを突き動かす性欲というものが、鉄太郎にはよほど不思議だったのだろう。何事も徹底的。

 清河がまくしたてた。漢籍をひもとけば、魏翁曹操打倒を期して、劉備が血判を押した故事もある。血判を押せば、本人の心気いやが上にも高まるばかりでなく、なにごとにも用心を怠らず、精神をつねに尽忠報国の一事にそそくことができる。これすなわち血判の効用だ。-----この男、理屈が多い。そう思ったが、口にはしなかった。〔-----なにごとにも用心をおこたらず-----とあるが、用心をおこたったから、殺害されたのではないか。〕

 名を揚げる----のは、所詮、他人の評判を気にすることであろう。そんなことにこだわっていては、人間の器が小さく縮こまってしまう。

 宇宙界の中では塵芥にもひとしい人間だが、宇宙界と対峙して雄雄しく生きたい。そのために、なにより大切なのは、他人の評判ではなく、自分の信(まこと)の気持ちなのだ、と強く思っている。〔雄雄しくはないが、信を貫きたい、という気持ちはあります。円心会の師範たちはそうだと受け取っています。〕

 人は何よりもまず、高い志をもたねばならない。

 著者の思いいれもあるのだろうが、何と言う気高い志であろうか。〔その精神を学びたい一念であります。〕


『命もいらず名も入らず』の紹介---2

2010-06-29 20:49:49 | ブログ

タイトル----『命も入らず名も入らず』の紹介--2。第507号 22.06.29(火)

 前回に引き続き紹介します。未熟な私に「人として生きる心構え」を提示してくれていると思い、何回も読んでいます。

 善行や手柄を声高にほこる男は、はたで見ていても、全く尊敬できない。

 そもそも男(女、人間)の一生は何のためにあるのか。〔学ぶためにあるのです。〕 

 運命の扉は、その人間が求めた通りに開く。〔そのとおりだと思います。〕

 厳しく鍛えることで、人格の芯が磨かれているようだ。〔まだまだ私は足りない。〕

 命のギリギリの際で稽古をしている気魄。

 男が突いているのは、虚空ではない。---自分のこころだ。〔そのように致します。〕

 一晩中、素突き三万回に達した。〔とても、かないません。〕

 磨きに磨いて技の精妙を競いあう。

 芸というものは、そもそも力と技を超えたところにある。

 力と技の根底にあるもの、---徳のこころ。〔これこそが一番大切であります。〕

 修行するものは寸暇も心をゆるめてはならない。〔修行と金儲けと混同している人が多い〕

 人というものは骸骨にすぎない。美人もだ。

 一日中、わずかも気をゆるめず常に、修行のことを心から離さぬことだ。〔そうしています〕

 だれに対しても、何事に対しても誠実であること。〔評価は他人が致します。〕

 鉄太郎には、人間の人となりを感得する素地がある。

 講武所にかよってくる旗本連中----子弟たちはまるで自分の立場に自覚がない。徳川家康が、幕府を開いて二百五十年。そのあいだに、さしたる仕事もせず、威張り散らしていただけの侍は、いまや、ただの木偶のぼうにすぎない。いかにすれば、楽をして俸禄を得ることが出来るか----そんなことにしか興味のない生き物をたくさんつくってしまった。〔見渡して、同様に見える、思える人々の何とおおいことか。政治家にしても、官僚にしても。相撲協会にしても。自覚して欲しいと願っているのは、私だけではないと思います。〕 


山本兼一著『命もいらず名も入らず』の一部を紹介します。

2010-06-28 17:25:43 | ブログ

タイトル----山本兼一著『命も入らず名も入らず』の一部を紹介します。第506号 22.06.28(月)

 『命も入らず名も入らず』の一部をご紹介します。ご購入の上、読んでみてください。平和と繁栄に安住した人々に、人は何故生きるのか、を教えてくれると思います。そして、日本人とは、も。

 気に入ったところを抜粋しましたので、そういうところを書いてみます。

  剣術が大好きで、竹刀を握れば、突きと体当たりが得意である。道場のだれもが呆れるほど力いっぱいまっしぐらに突き進む。---私心を微塵ももちあわせていない。

 人というもの、ついおのれを過信し、他人を見下す悪癖がある。おのれが正で他人が邪、おのれが清く、他人が穢れていると思いがちだ。世の多くの人間が、そう慢心して生きておる。まこと、ばかばかしいかぎりだが、とかく人とは愚かなものよ。

 世に棲む九割の人間が凡愚と思うてまちがいない。ただし、なかには慧眼の士、具眼の士がおるゆえ、初対面の人に接するときは、ゆめゆめ侮ってはにらぬ。

 酒の器はわかりやすい。人の器は外見からは、まったく判別がつかない。その人間にどれくらいの器があるかは、実際に、一緒に戦い、仕事をしてみないと分からない。

 人は器量に応じた仕事しか為せない。器量に応じた人生しか送ることが出来ない。器量を広げたいと願うなら、目の前のことをとことん命がけでやることだ。人間の真摯さとはそういう事だ。

 人をみるときは、気をみるのだ。

 こころが定まるとは、いつでも死ぬ覚悟ができているということだ。

 腹が減ったって、稽古してりゃわすれるさ。

 鉄太郎こと、鉄舟は、おのれの身をどうやって修めればよいかを考え、二十の鉄則を書き並べた。

 一、嘘をいう可からず候。   二、君・主人、父母、師、人の恩を忘れる可からず。

 三、幼児をあなどる可からず。   八、己に心よからざることは、他人に求む可からず候

 九、腹を立つるは、道にあらず候   十、何事も不幸を喜ぶ可からず候

 十一、力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候   十二、好きなことばかりしてはよくない

 十三、食事のときに農家の苦労を思え   十四、草木土石も大事にせよ

 十五、ことさら着物をかざりうわべをつくろう者は、心ににごりがあるものだ

 十七、己の知らざる事は、何人にてもならう可く候

 十八、名利の為に、学問技芸す可からず候

 十九、人にはすべて能不能あり、いちがいに人をすて、或いはわらう可からず候

 二十、己の善行を誇り顔に人に知らしむ可からず、すべて我が心に恥じざるに務む可く候

 以上、幕末の三傑の一人、山岡鉄舟の修身のための二十の鉄則を一部を除き、紹介しました。

 一世紀以上経た今日でも、参考とすべき事柄が書かれていると思います。


字を書きましょう。それは自分のためです。

2010-06-21 12:56:21 | ブログ

タイトル----字を書きましょう。それは自分のためです。第498号 22.06.21(月)

 昨夕の行軍は谷山神社周辺を歩きました。土砂降りの中でした。背中10キロ、片足2キロ装着でした。雨具を上下来て、片方にステッキを持ち、片方に傘をさして歩きました。中村天風述『成功の実現』を聞きながらでした。天風師ファンは数多いるでしょうが、私見たいに本を朗読録音している人が、全国で何人いるでしょうか。

 他人様が見たら馬鹿かキチガイかと思うでしょうが、本人は至って正気のつもりです。昨日は終日読み書きをしたものですから、行軍をした後、ふれあいらんどに身体の癒しに行くことにしたのです。私自身、これほど充実した生き方はないと思っています。

 『西国立志篇』を現代訳に書き直す作業をしているのですが、その中に登場する世界の偉人たちに比べたら、私のやっていることはママゴトだと何時も思っています。人は生まれ、やがて死を迎え原子の世界に返るわけですが、さて、満足して旅立つ人がどれほどいるでしょうか。「満足して旅立つ」ことの出来る人間とは、どういうタイプなのでしょうか。お金持ちでしょうか。学問を修めた人でしょうか。世の為人の為尽くした人でしょうか。

 先ずお金もちの人は「貯めた金がどうなるだろうか」ということが、気掛かりであろうと思います。私の詩吟道の師匠であった恩師は喜んで、と言ったらご家族からクレ-ムが来るかもしれないが、私が見るところ「喜んで」逝ったと思っています。私に「死にたい」と三回ほど漏らしたのですから。それは、崇拝する西郷隆盛と同数程度の漢詩を創り、西郷隆盛になりきって死んでいったからなのです。詩吟を習う人はたくさんいますが、私を一番信用していたと自負しているのです。西郷隆盛関係の蔵書を貰ってくださいませんか、と懇願されたことからも推測されます。清廉潔白な人でした。『西国立志篇』に付け加えたい人でした。

 今日午前中は、土曜日に子供たちが提出してくれたノ-トの点検に追われました。4歳の西川さくらちゃんをはじめ多くのこどもたちが『南洲翁遺訓』、『論語』等々を書いてきてくれました。お母さん方も数名書いてくださいます。その中のお母さんから、子供が最近書きたがらないから、書かせるのに苦労している旨のことが書いてありました。そこで私も子供たちに「字を書きましょう」ということを、呼びかけることにしました。

………………

 円心会空手道場で修行するあなたへ

 ごはんをたべたらおいしいし、げんきがでてきます。それはげんきな「いのち」をつくることです。字をかくことは、あたまにごはんをたべさせていることです。あたまにえいようをあたえることです。

 だから、あたまにたくさんたくさんえいようをあたえてください。わたしは一にち、ほんをよまなかったり、字をかかなければ、すぐしんでしまうだろうとおもっています。だから、まいにちよろこんで字をかいているのです。おかげでたいへんげんきです。

 字をかくということは、まえむきなきもちになることです。まえむきなきもちになるということは、あたまからアドレナリンというからだによいホルモンがでてくるのだといわれます。

 だからげんきでながいきをしたいとおもったら、字をかくことをおすすめします。字をかくくせをつけたら、やがて、やがて、よかったとおもえるひがくるはずです。20ねんご、30ねんご、からてのせんせいのことをおもいだしてください。そして、あなたがたも、字をかくことを、ほかのひとにすすめてください。

 ひとのわるぐちをいうことは、まえむきのはんたいです。おこることも、かなしむことも、しんぱいすることもです。だからひとになんといわれようがケロッとした、ケロッとできる、じぶんをつくりましょう。それがながいきの“ひけつ”なのです。 71さい みそのひろゆき


拙著『礼節のすすめ』より「宇都影義社長」の紹介--2

2010-06-19 15:41:43 | ブログ

タイトル---拙著『礼節のすすめ』より「宇都影義社長」の紹介--2. 第496号 22.6.19(土)

 昨日の第495号に引き続いて紹介します。

 父親から仕事の王道を学んだ宇都社長は今日、若い従業員を雇って板金塗装の会社を経営しています。宇都社長の仕事に取り組む姿には威厳があります。仕上がり前の車の塗装をしている時、社長の姿を見た事があるが、その眼つきには凄いものがありました。

 武士が刀を抜き、敵と対峙している様と同じに見えました。真剣勝負そのものでした。そしてまた宇都社長が経営する会社の雰囲気が誠にもって良いのです。従業員はキビキビした動作の中に充実感が漲っています。私は、それは仕事に対する厳しさと同時に、社長の人生哲学から来る処の「忠恕」の精神が、従業員に投影されている、と観ました。

「人様から仕事を戴いている、あだや疎かにしてはならない」という商人哲学が読み取れるのです。現代の若者は茶髪が多く、働く従業員も同様の姿の青年が多いが、そこに仕事に対する情熱、お客様から預かった大事な車をより高度な技術を持って修理をし、満足行く商品に仕上げてお客様にお渡ししなければならないという真剣さがあるのです。宇都社長を先頭に会社の一体感が見てとれます。

 今日、大きくは社会保険庁の年金問題、国土交通省が所管する所の税金無駄遣いの実態等々国民を愚弄していると思われる不祥事が続発しているが、町工場の人達は、それこそ命がけで仕事に精励しているのです。

 その宇都社長とのご縁を戴いたのが三十年前のことです。長男の伸一氏が私の空手道場に入門したのがきっかけでした。伸一氏は父親譲りの真面目生一本の性格でした。真面目に修行する伸一氏を通じてご両親の、人としての教育をまざまざと見せ付けられたのです。その伸一氏は高校卒業と同時に京都のコンピュ-タ-学校に進み、プログラム作成から全ての仕事をこなせる一流のエンジニアに成長しています。若き青年達の生き方が特に問題視されることがある世の中で、これぞお手本と評しても良い人間に成長し、頼もしい限りです。

 特筆したいのが、宇都社長夫妻の見事な人生哲学です。伸一氏が入門してから今日まで三十数年間、盆正月の志を欠かしたことがないのです。伸一氏が高校を卒業し京都に行った後も同様でした。その行き届いた行為に感謝の念を禁じ得ません。その度にお礼状を書き、かつ戴いたお返しに伺うのであるが、対応した際の話が、また素晴らしい。自動車板金に関する仕事は勿論の事、過去携わって来た人間模様のお話は、聞く者をして耳を欹たせずにはおかないのです。まさしく百科事典に勝る人生の教訓を紹介してくれます。組織を率いる校長先生としての社長が立派であるから、そこで働く職員の仕事への情熱を含めた姿勢が群を抜いているということだと思えてなりません。

 別項でも書いたが、防衛省事務次官の不祥事問題で内部調査をした際、我々の悪さに比べ政治家・官僚のたちの悪さは比べものにならないと証言した職員がいたとメディアで報じられたが、信憑性のある証言のような気がしてなりません。魚は頭から腐るという比喩を聞いた事があるが、上に立つ人々が心しなければならないことは今更論ずるまでもないことではあるが、どうにかならないものか、このままでよいのか、と考えさせられるのです。

 荘内南洲会の小野寺理事長は、政治家の人々も『南洲翁遺訓』を是非読んで欲しい、と書き、そして話しているが、それは哀願にも似た思いだと思料されます。どのような高度な国家論、人生論を説いても、要は多くの人々と共存していく精神がなければ真の精神文化とは言えないのではないでしょうか。

 宇都社長の工場に伺ってから三十年が経過した訳だが、本項冒頭に書いた〈水が低きに流れるごとく〉お客様という不特定多数の人々が挙って仕事を依頼し繁栄の一途を辿っているのは、若い時から自らを叩き上げてきた技術者としての努力と誇り、そしてそれを会社経営という組織の中で十二分に活用している所以だと思います。

 高給取りを目指して塾通いに奔走し、高度な頭脳を有しながら詐欺まがいのことをする公務員もいれば、誠心誠意お客様仕事という大人の精神世界を通じて、良心的な還元をしている人もいるのです。この両者の何れが国家社会のために意義があるか、世の人々が称賛するかは、小学生でも分かる論理でしょう。過去蓄えて来た技術も働く者の精神のありよう等々を練り上げ、人生を捧げて会社経営をするという硬骨忠節の士が、平成の今日にもいるのだということを紹介したかったのです。

 そしてまた、裏で事務全般を支えている夫人の内助の功は、会社の業務もさることながら社員全員を優しい心眼でみつめ、かつ見守っているのです。専門学校では社会人として巣立つ生徒に技術を教授しているが、机上で成し得ない会社での社員の心構え等々、必要不可欠の社員論を、神戸自動車の裏の経営者・夫人に伝授してもらった方が遥かに意義があると思うのです。永年の裏の経営者は、大学出の若いお姉さん先生が学ぶべき経営技術の秘法を心得ているからです。

 株式会社神戸自動車・宇都社長ご夫妻の経営ぶりこそは、礼と節を基調としたものであると思う次第です。

 以上、拙著『礼節のすすめ』から「宇都社長」の紹介をさせて戴きました。これは、ひとり会社経営ばかりでなく、国家経営に携わる政治家諸氏も学んで欲しいと思う次第であります。