味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

家庭に個の真仏あり『菜根譚』

2011-12-31 10:07:17 | ブログ

タイトル---家庭に個の真仏あり『菜根譚』。第1099号 23.12.31(土)

 『菜根譚』 21

〈家庭に個の真仏あり、日用に種の真道あり。人よく誠心和気、愉色婉言(ゆしょくえんげん)

もて、父母兄弟の間をして、形骸両(ふた)つながら釈(と)け、意気こもごも流れしめば、調息観心に勝ること万倍なり。〉

〔訳文〕 どの家庭の中にも、一個、真正の仏様というものがいるし、ふだんの日常生活の中にも、一種、真正の道士がいる。それは人間として、まごころをもって仲よくし、にこやかな顔で楽しく語り合って、父母や兄弟の間柄を、からだまでお互いにうち解けさせ、気持ちもお互いに通じ合うようにせさることであって、これこそ調息や観心をするよりも、万倍もまさっている。

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〔コメント〕 調息観心とは、気息を調えると、内心を観照すると。前者は道士の養生、後者は仏者の座禅をいう、とあります。

 要はそれぞれの家庭には、仏様(神様)がいると解釈していいでしょう。それを中心にして、和やかな生活が出来るよう、努力したいものです。

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 昨日はお墓参りに行って参りました。帰りに川辺吹上庵様に立ち寄り、好物の峠鍋うどんを戴いてきました。お店にはとても素敵な和田さんがいてくださり、今年お世話になったご挨拶をしてきました。この姿・姿勢が吹上庵様の象徴なのだと再確認しました。そしてまた、大薗様の対応もお見事だと何時も、感謝しています。

 川辺吹上庵様に入ると、民謡等々が何時も流れており、訪れる客を日本の心でお迎えしてくれているようです。短い食事の時間ですが、お心をいやしながら、真心こめて作った料理をお召し上がりください、ともてなしてくれています。

 すぐる日、雨漏りがありブログに書きましたが、無風よりか、たまにはいろいろあっていいのではないかと思います。そこで気を引き締め、さらに良いお仕事をする、ということがいいのではないかと思います。

 吹上庵様の益々のご繁栄を祈念しています。この一年、ありがとうございました。

 


何事にも、ゆとりを残し『菜根譚』

2011-12-30 10:40:28 | ブログ

タイトル----何事にも、ゆとりを残し『菜根譚』。第1098号 23.12.30(金)

 『菜根譚』 20

〈事々、個の有余不尽の意思を留むれば、便(すなわ)ち造物も我を忌むこと能わず、鬼神も我を損すること能わず。若し業は必ず満を求め、功は必ず盈を求むれば、内変を生ぜざれば、必ず外憂を招かん。〉

〔訳文〕 何事にも、ゆとりを残し控えめにする気持ちというものを持っておれば、造物者もその人を忌み嫌うこともないし、神霊もその人に害を加えることもない。しかしもし、事業にも功名にも必ず十二分に満ち足りることを求めたならば、(造物者や鬼神に忌み憎まれて)、内部から変事が起るか、さもなければ、必ず外部から心配ごとを招く結果になるであろう。

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〔コメント〕 このくだりを読んで普通の方々はどう思うでしょう。そうだよ、本当だよ、と相槌を打って共鳴するでしょうか。私は天風師の書を20年前から録音し、今も聞いています。まさしく、『菜根譚』が示唆するとおりだと思います。

 そのことを過去、空手の指導の度に門弟に話してきました。今は師範となっている木場弟師範が、そういうことがあるものか、と楯突いたものでした。その彼も、天風師の本を全て購入し、連日読むと同時に、人生に活用しているのです。

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 昨日は、福岡在住の檪尾夫妻がやってきました。これから空手道稽古を再開したいと言いましたので、それなら岩坪範士に挨拶し、教えを請いなさい、と言いました。範士様、よろしくお願い致します。とても実直な方です。だから彼の結婚式には大坪師範と二人出席して上げたのでした。

 友人に公務員になった人がいますが、人間の中身が違うと私は観ています。人間には、至誠、謙虚さがなければならないのですが、もう一人のお方にはそれが見えないのです。

 一番強いのは、『南洲翁遺訓』の訓戒を順守することと、今日の『菜根譚』の教えも、同様に順守することただと思います。

 今、政治の世界では断固としてやる、と言っているリーダーがいますが、『菜根譚』の教えと逆行しているような気がするのです。金がないのにバマキをすれば、財政は逼迫するし、人心は荒廃するのです。ただし、困っている人を救うのは理の当然です。


完全無欠な名誉や節義『菜根譚』

2011-12-29 10:15:18 | ブログ

タイトル---完全無欠な名誉や節義『菜根譚』。第1097号 23.12.29(木)

 『菜根譚』 19

〈完名美節(かんめいびせつ)は、宜しく独り任ずべからず。些(いささ)かを分って人に与うれば、以て害を遠ざけ身を全うすべし。辱行汚名(じょっこうおめい)は、宜しく全く推すべからず。些かを引いて己に帰すれば、以て光を韜(つつ)み徳を養うべし。〉

〔訳文〕 完全無欠な名誉や節義などは、自分だけで独占してはならない。(たとえそうであっても)すこしは人にも分かち与えるようにすれば、危害を遠ざけ無難に身を終ることができる。(これに反して)、恥しく汚れた行為や評判なども、すべて人の責任に推しつけてはならない。(たとえそうであっても)、すこしは自分にも引きかぶるようにすれば、外には才能の光をつつみ、内には道徳を養うことができる。

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〔コメント〕 分かり切ったことであっても、人間そうは出来ないのが世の常だということでしょう。「完全無欠な名誉や節義」などあろう筈がないと思います。一人で轆轤をまわしながら、例えば壺を拵えるような人は別として、組織で事をなそうという場合、独りで完全無欠にできよう筈がありません。

 組織する仲間に感謝してこそ、成果も上がるというものです。要は、仲間に名誉を与えながら、操縦する、ハンドルを切るという作業が大切でしょう。

 そして事がなったら仲間に感謝し、上手くいかなかったら、非は私にあります、という謙虚さが大切です。本項解説では「危害を遠ざけ無難に身を終ることができる」とあるが、こういう考えは持つべきではない、と断言したいし、私は、そのようにしています。それが、男の、そして人の上に立つ、組織の責任者の気概でなくてはならないのです。

 『政治家の殺し方』を出版した中田宏氏は、そういう人だと思って共鳴した次第です。


西郷隆盛作、漢詩「白鳥山---」石碑の場所。

2011-12-28 18:29:17 | ブログ

タイトル---西郷隆盛作、漢詩「白鳥山--」石碑の場所。第1096号 23.12.28(水)

 

 西郷隆盛作、漢詩「白鳥山温泉寓居雑詠」の石碑がある場所は次のところです。

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 当該場所には、上湯、下湯とあります。石碑は上湯・展望台の処にあるそうです。

 住所は、えびの市大字末永1470番地

 とのことです。年末の多忙な時にえびの市役所、観光商工課 中村様が教えてくださいました。中村様、有り難う存じました。

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 漢詩  白鳥山温泉寓居雑詠

 

 白鳥山三頭涼しき処に眠り、

 起き来って神爽やかにして渓泉(けいせん)を煮る

 瀑声松籟(ばくせいしょうらい)塵耳(じんじ)を洗ひ、

 占断す茅廬(ぼうろ)一洞(いっとう)の天。

〔解説〕 白鳥山の上の涼しい処に眠り、目が覚めて、さっぱりした気持ちで起き上がり、渓(たに)の泉の水を汲んで来て茶の湯を沸かして居ると、瀑(たき)の声松風の音が、浮世の塵に汚れた耳を洗って、身も心もすがすがしくなり、茅のいほりと、四方山に囲まれて洞穴の恰好に見える此の場所から仰ぎ見られる限の天とを、自分一人で占領する事は、誠に大きな楽しみである。(大木俊九郎著)

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 韓国岳(からくにだけ)登山のため駐車するえびの駐車場のすぐ近くなのですが、登山のみちみち下界を眺むれば、西郷さんの漢詩を詠んだ心境が、分かるような気が致します。荘内にある鳥海山同様、迚も素晴らしい景観が望めます。

 

 


世を蓋うの功労も『菜根譚』

2011-12-28 10:52:52 | ブログ

タイトル---世を蓋うの功労も『菜根譚』。第1094号 23.12.28(水)

『菜根譚』 18

〈世を蓋(おお)うの功労も、一個の矜の字に当たり得ず。天に弥(わた)るの罪過も、一個の悔の字に当たり得ず〉

〔訳文〕 一世をおおうほどの大きな功労も、(それを自慢する心がすこしでも生じたら全く値打ちがなくなるので)「矜」というひとことに相当することができない。(反対に)、天下に満ちわたるほどの大きな罪過も、(それを後悔する心がほんとうに生じたらすっかり消滅してしまうので)「悔」というひとことに相当することができない。

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〔コメント〕 こうしてご紹介しながら自分の勉強・戒めになります。「矜」とは、おごりたかぶるという意味があります。史記に「力は山を抜き気は世を蓋う」(項羽本紀)とあります。

 私の場合、空手道場に集う子供たちのために一所懸命やっています。それも一つの功労・骨折りですが、ただ、子供たちのためにどうして役立とうか、どうしたら健全に、勤勉性を培う人間にそだってくれるかを考え、日々に挑戦しているのです。

 そして後半の「罪過」については、子供よりか先人である大人は自ら漢籍等々を学び、後輩の青少年に善い影響を与えるようにしなければならないと思います。たまたま空手道場建設と同時に『南洲翁遺訓』と出会った私は果報者であったと思います。

 鹿児島に出てくる以前の職場では、思い出したくない唯物主義、そしてエロチシズムの充満した職場でした。それも怠惰主義に陥った一人の指導者の影響大なるものがあったのです。先輩の後ろ姿というものは大変大事であります。そういった諸々を体験したからこそ、円心会に集う子供たちには、意義ある人生を歩いて欲しいのです。

 『南洲翁遺訓』を読みましょう。漢籍を繙きましょう。それが「人間学」へとつながるのです。