第2801号 28.08.31(水)
.
矜高倨傲(きょうこうきょごう)は、客気(かっき)に非ざるはなし。客気を降服し得て下し、而る後に正気伸ぶ。『菜根譚』
.
思いあがった、人を人とも思わない態度をとるのは、客気、すなわちから元気である。この客気を抑制しえて、はじめて人間の正しい気象が伸びる。563
.
【コメント】年若い時は、社会経験が乏しく、矜高倨傲的である場合があるようです。でも性格として矜高倨傲を形成している人間はどうすることも出来ないと思います。
.
先に強姦致傷の刑事事件を起こした青年は、若気の至りで前者に該当すると私は解釈したいのですが、それでもその代償は大きすぎるような気が致します。それを社会経験を踏まえた母が、大人が、教えなければならないと思うのです。
.
私の場合、大家族8人で育ちましたが、夕食の時、大きなテーブルを全員で囲んだ時、母が大きな声で一般論として話して聞かせてくれたものです。とにかく、いたずら盛りの私たち男の子へは厳しいでした。マイクがいらない程大きな声でした。
.
8月も今日で終わります。あの蒸し暑かった日々でしたが、短パンをはいていると、ヒンヤリ致します。10数年前、荘内へお伺いした際、小野寺先生たちが荘内の全域を案内してくださいました。
.
月山神社へ行った時、寒さで私がブルッと震えたら、小野寺先生が、「寒いですか」といったことが思い起こされます。薩摩と荘内では違うのですね。
-------------------
『臥牛菅実秀』(第336回)
.
武村にある西郷の家は柴垣にかこまれ、小さな門には西郷吉之助と書いた木札がかかっていた。門の右手は物置小屋で、そこには猟犬かつながれていた。左手は戸の口で土間になっており、別に玄関はなく、庭を廻って座敷に上るようになっていた。
庭には、
我が家の松籟 塵縁を洗う
満耳の清風 身 僊ならんと欲す
誤って京華名利の客と作り
斯の声 聞かざること已に三年
と西郷が詠じた巨松が四、五本そびえており、そこからは鹿児島の屋並をへだてて、桜島の雄大な風光が一望された。
座敷は、四方の壁にワシントン、ナポレオン、ペートル、ネルソンの銅版画がかけられているだけで、すこぶる簡素なものであった。この座敷で荘内の人たちは、それぞれの胸に、高く深い西郷の心の響きをシッカと刻みこんだのであった。
----------------
『農士道』(第611回)
.
勿論今日かくの如き多種多様の指導機関の発生を見るに至ったことに就いては決して理由なしとせぬ。之を自然の現象に就いて見るも、春夏の侯、草木が生長し繁茂して行く時季に於ては必然の理法として「末」の作用ん゛強く働き、随って分裂的傾向が盛に行はれ、一より二、二より四と、農村関係の団体も「多」へ----「多」へと多きを加えて来たのであって、明治より大正にかけては正にかかる時勢にあったのである。農村に於ける最大の指導機関は何といっても学校と役場との二つであらう。
------------------
.
矜高倨傲(きょうこうきょごう)は、客気(かっき)に非ざるはなし。客気を降服し得て下し、而る後に正気伸ぶ。『菜根譚』
.
思いあがった、人を人とも思わない態度をとるのは、客気、すなわちから元気である。この客気を抑制しえて、はじめて人間の正しい気象が伸びる。563
.
【コメント】年若い時は、社会経験が乏しく、矜高倨傲的である場合があるようです。でも性格として矜高倨傲を形成している人間はどうすることも出来ないと思います。
.
先に強姦致傷の刑事事件を起こした青年は、若気の至りで前者に該当すると私は解釈したいのですが、それでもその代償は大きすぎるような気が致します。それを社会経験を踏まえた母が、大人が、教えなければならないと思うのです。
.
私の場合、大家族8人で育ちましたが、夕食の時、大きなテーブルを全員で囲んだ時、母が大きな声で一般論として話して聞かせてくれたものです。とにかく、いたずら盛りの私たち男の子へは厳しいでした。マイクがいらない程大きな声でした。
.
8月も今日で終わります。あの蒸し暑かった日々でしたが、短パンをはいていると、ヒンヤリ致します。10数年前、荘内へお伺いした際、小野寺先生たちが荘内の全域を案内してくださいました。
.
月山神社へ行った時、寒さで私がブルッと震えたら、小野寺先生が、「寒いですか」といったことが思い起こされます。薩摩と荘内では違うのですね。
-------------------
『臥牛菅実秀』(第336回)
.
武村にある西郷の家は柴垣にかこまれ、小さな門には西郷吉之助と書いた木札がかかっていた。門の右手は物置小屋で、そこには猟犬かつながれていた。左手は戸の口で土間になっており、別に玄関はなく、庭を廻って座敷に上るようになっていた。
庭には、
我が家の松籟 塵縁を洗う
満耳の清風 身 僊ならんと欲す
誤って京華名利の客と作り
斯の声 聞かざること已に三年
と西郷が詠じた巨松が四、五本そびえており、そこからは鹿児島の屋並をへだてて、桜島の雄大な風光が一望された。
座敷は、四方の壁にワシントン、ナポレオン、ペートル、ネルソンの銅版画がかけられているだけで、すこぶる簡素なものであった。この座敷で荘内の人たちは、それぞれの胸に、高く深い西郷の心の響きをシッカと刻みこんだのであった。
----------------
『農士道』(第611回)
.
勿論今日かくの如き多種多様の指導機関の発生を見るに至ったことに就いては決して理由なしとせぬ。之を自然の現象に就いて見るも、春夏の侯、草木が生長し繁茂して行く時季に於ては必然の理法として「末」の作用ん゛強く働き、随って分裂的傾向が盛に行はれ、一より二、二より四と、農村関係の団体も「多」へ----「多」へと多きを加えて来たのであって、明治より大正にかけては正にかかる時勢にあったのである。農村に於ける最大の指導機関は何といっても学校と役場との二つであらう。
------------------