タイトル----人柄と書画『言志録』。第1036号 23.10.31(月)
『言志録』 24 人柄と書画
〈心の邪正、気の強弱は、筆画之を掩うこと能わず。喜怒哀懼、勤惰静躁に至りても、亦皆諸を字に形わす。一日の内自ら数字を書し、以て反観せば、亦省心の一助ならむ。〉
〔訳文〕 心がよこしまであるか、正しいか、また気が強いか、弱いかは、筆蹟に現れるもので、これをおおい隠すことはできない。また、心の喜びや怒り、哀しみやおそれということ、および勤勉、怠惰、平静、躁然などに至るまで、皆これらは字に現れるものである。故に一日の内、自分で五、六字を書いて、それをくりかえして観れば、自己反省の一助となろう。
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〔コメント〕 半世紀前のことです。従妹の一つ下の女性が、私に言いました。
高校で書道の先生が、字は人柄を現すので、諸君もうまくなるよう研鑽しなさいと。因みに私の字をみればわかるとおり、私は、最高の人格になっているのですよと言ったが、本当だと思いますか、と。
その従妹の人は、それは人格とは関係ない、と半世紀した今でも言っています。私も同感です。下手くそな人が、字の練習をしてうまくなったからといって、性格が変わるものではないからです。尤も、古典の学問をすれば変わってくる場合もあると思います。
私の内には、特に書道の先生・達人と言われる人から頻繁に電話がきたものです。その中でまともに電話対応の言葉づかいができる男は一人もいませんでした。
はい、味園ですと申しますと、
「オッサンナ オイケナ」(奥さんは、ご自宅においでになりますか)です。一人として謙虚にして、まともな言葉づかいができる男はいませんでした。要件の前に自分の名前を告げて、内容を話す、これが礼儀なのです。おれは普通の人間と違って字がうまいのだ、という驕りがもろに出ているのです。
佐藤一斎が言うことは傾向としてはあるでしょうが、これは断じて違う、と反論します。