味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

人の情、発し易くして制し難き者は、惟だ怒りを甚だしと為す。

2014-11-30 10:50:47 | ブログ
2164号 26.11.30(日)
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人の情、発し易くして制し難き者は、惟だ怒りを甚だしと為す。『近思録』
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 人間の感情のうちで、最も発しやすく、しかも抑えにくいのが怒りである。
 この怒りを去って外物に対さなければ、正しい処置はできない。294

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 【コメント】上の『近思録』の訓戒はまそしくその通りだと思います。この怒りを何事もなかったかのように平常心で捉えるためには、種々の経験、読書等を通じて、強固な信念、自らを守るしたたかな精神を構築することが肝要でしょう。
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 今朝の新聞にも掲載されていましたが、小学6年の子どもが、いじめにあって学校の3階から飛び降りたということです。曰はく、「靴をかくされた、言葉の暴力」等々らしいです。
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 なぜその程度でビルから飛び降りるのでしょう。私は空手道指導の際、人間の将来は、努力すれば、素的で楽しい人生が待っているから、自らで死に急ぐことをしてはならないと力説しています。
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 親がジジババが甘やかせて育てるからそういうことになるのです。それに教育評論家という人たちが、指導する方法も私はおかしい部分が多分にあるような気が致します。

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『大学味講』(第2回)
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 なぜ『大学』を読むのか   三
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 大学に限らず、東洋の古典には次の二つの特色がある、と私には思われる。
 その一つの特色は、渾沌未分性とでもいおうか。いろいろのものを、未分のままで総合的に混在していることである。私は、これを「堆肥」にたとえて把握しているのであるが、「堆肥」はワラや草を発酵させた有機質肥料であるが、その中にチッソも、リンサンも、カリも、その他諸々の成分を混在しているのである。東洋の古典には、-随って大学にもー哲学もー道徳も、政治も、教育も、経済も、あたかも堆肥のように渾然として総合的に混在しているのである。

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 その二つの特色は、その叙述が断続的であり、飛躍的であり、その故に省略的であることである。私はこれを日本庭園の「飛び石」にたとえて把握しているのであるが、「飛び石」は、その上を歩いていけば美しい立派な「線」になるのであるが、一見すると、その一つ一つ孤立した「点」としか見えず、そしてその点と点との間があまりにも大きく隔っている場合は、時に脈洛を見失うこともなしとせぬのであるが、東洋の古典を読む時に、私はそうしたものを感ずるのである。
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                     四
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 そこで、こうした古典を読むには、やはりそれ相応の読み方をせねばならぬ。何々早わかり読本とか、週刊誌的のものを読むような読み方をして、どうも古典はむずかしくてだめだなどというのは、いう方が無理である。スープとソーセージで育った現代っ子たちは、もう骨のついている魚は食えなくなっているといわれるが、これは読書にも通ずることである。
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 魚のうまさは、軟い肉よりも、むしろ骨とかヒレとかいうところを上手に料理して、それをかみしめて味わうところにある、と玄人はいう。イカやカツオなどでも、生のままの肉よりも、それを乾して作ったスルメとか、カツオ節とかを、よくかみしめて味わうところに、得もいわれぬ妙味が出てくるのではないのか。このことは古典の読書においてもそうである。
 本書の書名を「大学味講」としたのも、こうした心からである。

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『論語』102
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子曰はく、「吾未だ剛者を見ず。」或ひと対えて曰はく、「申棖。」子曰はく、「棖や慾、焉んぞ剛を得ん。」
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 孔子が言うには、「自分はまだ真の剛者というべき人物を見たことがない」と。ある人が、「いや、申棖がおります」と答えた。孔子が言うには、「いや、申棖にはまだ慾が多い。あのような慾張りがどうして剛者たりうるものか。」
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学校を卒業して後生徒たちが、「あの程度の先生が高校の先生だったとは」と回想するとしたら、教わった生徒が不幸なのでしょうか、教えた先生が悪いのでしょうか。
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 昨夜の空手道指導は対象者は9名でした。75年間の総決算の気持で子どもたちに対峙しました。ある母親様が、学校でも何處でも聞くことの出来ない、愛情と厳しさのこもった指導でした。親の私たちが、大変参考になりましたと言ってくれました。手前みそながら、こういう指導をこそしなければならないのですよ、と言外に思いました。ここには平和運動とか、甘えの教育はないのです。人様を大事にしながらも、自らに挑戦する、人生に生き抜く術を伝授しているのです。教ゆ師は、授業と同時に日本国民としての資質が最優先されなければならないのです。

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「礼節いろはことば」「し」
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修身は 人世に生きる 基なり
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自らを修めて人生に処するのが基本である。
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短歌の紹介
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物事に熱中勤勉習慣が
 精神才覚鍛え躍動 6993 向上心94


仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざるは二の楽しみなり。

2014-11-29 11:47:54 | ブログ
第2163号 26.11.29(土)
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仰いで天に愧じず、俯して人に怍じざるは二の楽しみなり。『孟子』
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 心に疚しいところがなく、俯仰天地に恥じることのないのは人生の一つの楽しみだ。135
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【コメント】今朝の学問館には正田宗一郎君、佳那子ちゃんとお父上様が来てくれました。終了後、木曜日第二道場に見学に来て下さった山城様から電話がありました。木曜日、見学し帰宅してから寝つけなかったと述懐してくれました。3歳児・佳那子ちゃんの『南洲翁遺訓』第一章を暗記し、発表する姿にショックを受けたそうです。あまりの素晴らしさに。
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 11時半に朝食をしながらテレビを見ました。沖縄の子どもたちが、珠算、重量挙げ、空手道けいこ、英語等々にとりくむ子供たちの熱血ぶりでした。凄い、凄いと思って観賞しました。幼少の頃からそれぞれの道にとりくむことは素晴らしいことです。
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 でも私に言わせると、精神を磨く学問こそが優先されるべきだと思うことでした。頭デッカチになると大人になってから失敗する危険性が多いからです。自分の能力だけを誇り、人様に対して傍若無人の態度でいると自分を維持して行くことが出来なくなるからです。南洲翁遺訓第16章、冒頭に云う「節義廉恥を失いても国を維持するの道決してあらず。(国を自分と捉えています。)

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 そういう人は集団におれなくなり、引いては健康で長生きを阻害することになるのです。昨夜は健康ランドに行き、天風師のテープを堪能するほど聞きました。上に書いた人との摩擦から生じる健康問題等々懇切に解説しています。75年生きてきてこれほど確かな訓戒はないと確信しています。だから、まずは『南洲翁遺訓』を徹底的に学ぶべきなのです。

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菅原兵治著『大学味講』(第1回)  序 
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    なぜ「大学」を読むのか  一 
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 「哲学をもたぬ時代」--------日本の現在をこう観るのは僻みであろうか。
 開闢以来いまだ経験したことのない「敗戦」という大事変後の三十年であるから、やむを得ぬといえばそれまでであるが、窮乏ー高度成長ー低成長不況と、激動の中の現実にふりまわされてしまって、それに対処する一貫の原理をもたずに来てしまったのが、現下の日本ではないのか。
 だから一時は、一見すばらしい成果を収め得たかのように見えても、それは哲学をもたぬ政治であり、哲学をもたぬ経済であり、哲学をもたぬ教育であったのでるから、それには根のない草花のように一貫の生命がなく、時運の流転と共に、誤算を生じ、破綻をきたして、今やその後遺症の対応に汲々としているのである。
 かくて私どもは、「哲学をもたぬ時代」を脱すべく、まず「哲学をもつ人」とならねばならぬ時であり、そのために「大学」を読むのである。(ただし「哲学」とは、哲学概論の知識をいうのではない。)
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            二
 大学は、修身、斉家、治国、平天下という現実処理の道を教えた書である。しかしそれは、今日の政治学とか、倫理学とか、経済学とか、教育学とかいうような専門的のものではない。本文にも「その本乱れて、末治まるものはあらず」といっているように、「本」に立って現実を処理しようとするものである。だから、それは「本」に立っての「末」の成長であり、「末」を伸ばすための「本」の確立なのであって、哲学に根ざした現実処理の道であり、現実処理の哲学なのである。

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『論語』101
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宰予昼寝ぬ。子曰はく、「朽木は雕る可からず。糞土の牆は杇すべからず。予に於いてか何ぞ誅めん。」子曰はく、「始め吾、人に於けるや、其の言を聴いて其の行ひを真ぜり。今吾、人に於けるや、其の言を聴いて其の行いを観る。予に於いてか是を改む。」

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宰予が昼寝をしたので孔子が大変立腹されて、「朽ちた木には彫刻のしようがないし、土がぼろぼろに腐った土塀には上塗りのしようもない。このように精神の腐った宰予のような者には、小言をいって責めたって何ともしようがない。」といった。「私は今まで人を観るのに、言葉を聞いただけで、その行いもそのようにあるものだと信じていたか゜今後は言葉だけでなく、行いを観た上で信用することにしよう。宰予で失敗したから、方針を改めることにした。」
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「礼節いろはことば」「み」
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味読せよ 偉人の訓え 繙きて
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偉人の訓えを眼光紙背に徹する気で学ぼう。
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短歌の紹介
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大久保の妾に南洲あんときも
 規則うるさく大変だのう 6992 大西郷138

肫肫たる其の仁。淵淵たる其の淵。浩々たる其の天。

2014-11-28 10:17:41 | ブログ
2162号 26.11.28(金)
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肫肫たる其の仁。淵淵たる其の淵。浩々たる其の天。苟も固(まこと)に聡明聖知にして天徳に達する者にあらざれば、それ孰(たれ)か能くこれを知らん。『中庸』
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 「肫肫は、仁慈のいきわたっているさま。「淵淵」は、淵の深きがごとく、人柄の静深のさま。「浩々」は、天の広きがごとく、徳沢の広いさま。天徳を完全に備えた人の姿はこのようなものである。
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 【解説】肫肫(じゅんじゅん)と懇至(こんし・十分に行き届いたさま)なるその仁徳よく大経を経綸し、淵淵と静深なるその淵徳よく大本を立て、浩々と広大なるその天徳よく化育を知りてこれを助くるのである。いやしくも実に聡明聖知にして天徳に達する聖人でなければ、それ誰がよくこの至誠の域を知ることができよう。(宇野哲人全訳注『中庸』一部修正追加)

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 第三十ニ章の前半は、ブログ1622号 平成25.06.4でご紹介してあります。
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 上の解説にある〈聡明聖知にして天徳に達する聖人〉とは、菅臥牛先生、菅原兵治先生、長谷川信夫先生、小野寺時雄先生等、人格・学識豊かな人を言うのだと思っています。
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『臥牛先生遺教抄』(第100回)
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一〇〇、学ぶには人の先に立つ者にならずはならぬように、或る人より論ぜられし事あり。之を請問せしに、決してさにあらず、この所間違いて済まぬぞ。常々申す通り、事々必死になれば大名人になり、大名人になれば人に信ぜらるるものなり。さすれば天が立つるか人が立つるか、自ずから先に立つものなり。又天下の事も事業も決して二つなし。養蚕名人ならば天下の事も名人ならん。汝は事業に掛かりたるは仕合わせなり。是れ心の研究出来ればなり。必死勉強せよと仰せらる。
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 『臥牛先生遺教抄』は今回をもって終了致します。明日からは菅原兵治先生の『大学味講』をご紹介致します。上の遺教抄に言う何事も「必死」にやっているつもりですが、元々浅学菲才故、思うにまかせないところでございます。田賀先生、高木先生、私の必死度、20点くらいあるでしょうか。終日漢籍と向かい合っていますが、これほどの仕合わせはございません。
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『論語』100
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一〇〇、子、子貢に謂って曰はく、「女(なんじ)と回とは孰れか愈(まさ)れる。対えて曰はく、「賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知る。」子曰はく、「如かず。吾、女が如かざるに与(くみ)せん。
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 孔子が子貢に「お前と顔回とどちらがまさっていると思うか」と問うた。子貢は「私などどうして顔回と比較になるものですか、とても及びません。顔回は一を聞いて十を知る鋭敏さです。私は一を聞いてやっと二を知る程度に過ぎません。」と答えた。これを聞いた孔子は、「まことにその通りだ。お前は顔回に及ばない。だが、及ばないのはお前だけではない。かく言う私もお前と同じく顔回にはかなわないところがあるよ」と、(いって,子貢の自分を知る賢を認めながら、更にその気持ちを引き立てて励ました。)
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「礼節いろはことば」「め」
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明徳を 磨き人世の 役に立て
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 能力を高め、国家社会の有為な人材となろう。
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短歌の紹介
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達人は正直なるも義を好み
 言を察して人に下る人 6991 運命119

我れに三宝あり。持して之れを保つ。

2014-11-27 10:11:19 | ブログ
第2161号 26.11.27(木)
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我れに三宝あり。持して之れを保つ。『老子』
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 わたしには三つの宝があり、それをしっかり抱き保っている。その三宝とは、慈、すなわち情け、倹、すなわち倹約、それに敢えて天下の先と為らず、すなわち人のいちばんしりえにいることの三つである。334
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 分かりやすく言うと、その第一は、人様に対して慈しみの心で接すること。第二は、倹約を旨とする真摯さであること、第三は、敢えて世の人の先に立たない、でしゃばらないということである。
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 【コント】現今は、人より先に目立ちたい、テレビに出たいと言う人が増えているやに感じられますが、ひっそりとして生きながらも、自分の行動は天下に出しても恥じることはない、如何なる人にも負けることはない、という生き方こそ本物ではないかと思います。そういった意味では『老子』の言葉は人生を達観した人の訓戒であると言えるでしょう。
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 森信三先生の教育論によりますと、走りすぎたら墓穴を掘ると訓戒していますが、同感です。そいう大事なことを教えず、テレビをはじめとするメディアに翻弄されることのなきよう、心したいものです。歳若く名声を得て途中で挫折するよりも、艱難辛苦を乗り越えて晩年に人々が瞠目する花を咲かせることこそ、本望と言えるでしょう。

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 菅臥牛先生の遺教抄を連日ご紹介してきましたが、これこそ、人生最高の宝典だと確信します。菅先生のそういった英明さを見抜いたからこそ、「菅先生」という言葉を西郷隆盛は漢詩に残しているのだと思います。 
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『臥牛先生遺教抄』(第99回)
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九九、予養蚕は日本一の名人なりと思う。何となれば世間の作は五匁掃きにて収繭(しゅうけん・まゆ)七八斗と聞く。吾が家の作は一石四五斗なり。されば日本一と言って可ならずや。或る人松ケ岡の養蚕は大仕掛けなれば、容易に上作は出来ずという。いや大仕掛け小仕掛けの差別なきものなり。足下は自分に許す所あれば何事も成就致すまじと言いしに、その人如何にと言いし故、予先年養蚕の事を発明せり。それは少女が箱の蓋に些少の蚕を飼いしを見るに、子供の事なれば桑葉尽くれば畑より取り来たりて直ちに与え、又尽くれば前のように与え常々善き繭を得たり。之に因って蚕は決して死なぬものと思い、之を蚕室に移して飼育したり。但し齋戒沐浴して神仏に祈り、一匹たりとも捨ててならぬ殺してならぬと、必死の心掛けにて飼わせたり。養蚕に限らず学ぶ所も必死の心掛け只一つなりと仰せられき。
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『論語』99
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九九、孟武伯問う。「子路仁なるか。」子曰はく、「知らず。」又問う。子曰はく、「由や千乗の国其の賦を治めしむべし。其の仁を知らず。」「求やいかん。」子曰はく、「求や千室の邑、百乗の家、之が宰たらしむべし。其の仁を知らず。」「赤やいかん。」子曰はく、「赤や束帯して朝に立ち、賓客と言わしむべし。其の仁を知らず。」
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魯の大夫の孟武伯が孔子に問うて言うには、「子路は仁者ですか。」孔子は「仁者であるかどうか存じません」と答えたので、武伯は又繰り返し尋ねた。孔子は「由(子路の名前)は大諸侯の国で、軍事などの政治を扱わせるだけの腕前は十分ありますが、仁者かどうかは存じません」といった。孟武伯は「冉求はどうですか。」孔子「求は多芸ですから、千戸ぐらいの大邑の大官が、兵車百乗を出すくらいの領地をもってる卿大夫の家の家老にするならば、必ず立派な成績を上げることができます。仁者であるかとうかは知りません。」孟武伯「公西赤はどうですか。」孔子「公西赤は礼を知っていますから、礼装をして朝廷に立って賓客に対応させれば必ず立派に役目を果たすことが出来ます。仁者であるかどうかは知りません。」
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「礼節いろはことば」「ゆ」
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夢を見よ 努力重ねたあとの世を
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無心で努力し、後の世の成果をみよう。
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短歌の紹介
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心中に努力し励む気があれば
 その志天は与する 6990 運命234

孝を以て君に事うれば則ち忠なり。

2014-11-26 10:37:52 | ブログ
第2160号 26.11.26(水)
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孝を以て君に事(つこ)うれば則ち忠なり。『孝経』
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 親に孝を尽くすその心がけをもって君に仕えれば、それがすなわち忠となる。ともに愛と敬とが根本であるからである。288
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【コメント】昨夜は鹿児島神社で行われた、敬武館一門の古武術演武を観賞しました。鹿児島県で全日本空手道連盟公認六段合格第一号を成し遂げた空手道大家・政田敬次宗家率いる武道家の方々です。
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 その中に鹿児島南高校で空手道部に属していた森重としこ様も入っていました。帰りに拙宅まで送ってくださる道々指導を受けた先生のご尊名を御聞きしたら加治佐先生だといいました。森重様はとっても真面目で頑張り屋だとお見受けしています。今時珍しい「薩摩の女」だと思いました。清廉で、努力家で、粘り強い女性でした。その森重様に天風先生の『運命を拓く』を贈呈しました。

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 上の『孝経』の言葉をご紹介しながら、荘内南洲会前理事長・小野寺先生を思い出しています。小野寺先生が大好きな漢籍の書が『孝経』だとお聞きしていたからです。15年間に小野寺先生から頂戴したご芳翰を読み直してみると、孝経を愛したお人柄が彷彿としてまいります。本当に素晴らしい先生でした。私を信用して何もかも話してくださいました。まさしく「徳の交わり」であったと思っています。

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上の『孝経』の言葉にある〈君に事うれば〉を、「人様に」としたら如何でしょう。私はどんな子どもであっても基本的にそのように対応しています。
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『臥牛先生遺教抄』(第98回)
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九八、学ぶには人を愛するを以て目的とす。万(よろず)の事に取り掛かるにもその心入り違う事聊かもなし。学ぶには決して己を許さぬものなり。過たば快く改むるものぞ。而して是れ等の事は大賢人に成らんとの心掛け必死なれば、その中に自ずから出ずるものなり。
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『論語』98
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子曰はく、「道行はれず。桴(いかだ)に乗りて海に浮ばん。我に従ふ者は其れ由か。」子路之を聞きて喜ぶ。子曰はく、「由や勇を好むこと我に過ぎたり。取り材(はか)る所なし。」
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 孔子が歎息して言うには、「道義の行われない乱れた中国にいる気はしない。小さないかだにでも乗って、他の国へ行きたいものだ。その時、わしについて来る者は由(子路の名前)くらいのものかな。」と言った。子路がそれを聞いて、多くの門人中、自分一人に寄せられた信頼に感激して、喜び且つ得意になった。それを聞いた孔子がいうには、「由の勇気のあることはわたしも認めるが、どうも見境いがなくて困ったものだ。」と。
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『臥牛先生遺教抄』と『論語』等々をご紹介しながら、至らない我が身を恥じると同時に、謙虚に我が身に問いなおしているつもりです。これほどよい学修はないと信じています。
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 老いも若きも、政治かも、官僚も、先ずは人間学を学んで欲しいものです。特に為政者の皆さんは、まずは修身を目指して欲しいものです。
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 昨晩の鹿児島神社での直会の際、政治家・官僚らに対する厳しい意見が出されました。大衆を愚弄すると暴動が起こる危険性なしとしません。

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「礼節いろはことば」
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気概込め 南洲遺訓を 学ぶなり。精魂込めて人間学・南洲翁遺訓を学ぼう。
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短歌の紹介
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天の道 学び行う その人を
 世人見逃す ことはなきなり 6989 『果報』94