2164号 26.11.30(日)
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人の情、発し易くして制し難き者は、惟だ怒りを甚だしと為す。『近思録』
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人間の感情のうちで、最も発しやすく、しかも抑えにくいのが怒りである。
この怒りを去って外物に対さなければ、正しい処置はできない。294
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【コメント】上の『近思録』の訓戒はまそしくその通りだと思います。この怒りを何事もなかったかのように平常心で捉えるためには、種々の経験、読書等を通じて、強固な信念、自らを守るしたたかな精神を構築することが肝要でしょう。
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今朝の新聞にも掲載されていましたが、小学6年の子どもが、いじめにあって学校の3階から飛び降りたということです。曰はく、「靴をかくされた、言葉の暴力」等々らしいです。
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なぜその程度でビルから飛び降りるのでしょう。私は空手道指導の際、人間の将来は、努力すれば、素的で楽しい人生が待っているから、自らで死に急ぐことをしてはならないと力説しています。
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親がジジババが甘やかせて育てるからそういうことになるのです。それに教育評論家という人たちが、指導する方法も私はおかしい部分が多分にあるような気が致します。
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『大学味講』(第2回)
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なぜ『大学』を読むのか 三
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大学に限らず、東洋の古典には次の二つの特色がある、と私には思われる。
その一つの特色は、渾沌未分性とでもいおうか。いろいろのものを、未分のままで総合的に混在していることである。私は、これを「堆肥」にたとえて把握しているのであるが、「堆肥」はワラや草を発酵させた有機質肥料であるが、その中にチッソも、リンサンも、カリも、その他諸々の成分を混在しているのである。東洋の古典には、-随って大学にもー哲学もー道徳も、政治も、教育も、経済も、あたかも堆肥のように渾然として総合的に混在しているのである。
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その二つの特色は、その叙述が断続的であり、飛躍的であり、その故に省略的であることである。私はこれを日本庭園の「飛び石」にたとえて把握しているのであるが、「飛び石」は、その上を歩いていけば美しい立派な「線」になるのであるが、一見すると、その一つ一つ孤立した「点」としか見えず、そしてその点と点との間があまりにも大きく隔っている場合は、時に脈洛を見失うこともなしとせぬのであるが、東洋の古典を読む時に、私はそうしたものを感ずるのである。
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四
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そこで、こうした古典を読むには、やはりそれ相応の読み方をせねばならぬ。何々早わかり読本とか、週刊誌的のものを読むような読み方をして、どうも古典はむずかしくてだめだなどというのは、いう方が無理である。スープとソーセージで育った現代っ子たちは、もう骨のついている魚は食えなくなっているといわれるが、これは読書にも通ずることである。
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魚のうまさは、軟い肉よりも、むしろ骨とかヒレとかいうところを上手に料理して、それをかみしめて味わうところにある、と玄人はいう。イカやカツオなどでも、生のままの肉よりも、それを乾して作ったスルメとか、カツオ節とかを、よくかみしめて味わうところに、得もいわれぬ妙味が出てくるのではないのか。このことは古典の読書においてもそうである。
本書の書名を「大学味講」としたのも、こうした心からである。
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『論語』102
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子曰はく、「吾未だ剛者を見ず。」或ひと対えて曰はく、「申棖。」子曰はく、「棖や慾、焉んぞ剛を得ん。」
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孔子が言うには、「自分はまだ真の剛者というべき人物を見たことがない」と。ある人が、「いや、申棖がおります」と答えた。孔子が言うには、「いや、申棖にはまだ慾が多い。あのような慾張りがどうして剛者たりうるものか。」
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学校を卒業して後生徒たちが、「あの程度の先生が高校の先生だったとは」と回想するとしたら、教わった生徒が不幸なのでしょうか、教えた先生が悪いのでしょうか。
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昨夜の空手道指導は対象者は9名でした。75年間の総決算の気持で子どもたちに対峙しました。ある母親様が、学校でも何處でも聞くことの出来ない、愛情と厳しさのこもった指導でした。親の私たちが、大変参考になりましたと言ってくれました。手前みそながら、こういう指導をこそしなければならないのですよ、と言外に思いました。ここには平和運動とか、甘えの教育はないのです。人様を大事にしながらも、自らに挑戦する、人生に生き抜く術を伝授しているのです。教ゆ師は、授業と同時に日本国民としての資質が最優先されなければならないのです。
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「礼節いろはことば」「し」
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修身は 人世に生きる 基なり
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自らを修めて人生に処するのが基本である。
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短歌の紹介
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物事に熱中勤勉習慣が
精神才覚鍛え躍動 6993 向上心94
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人の情、発し易くして制し難き者は、惟だ怒りを甚だしと為す。『近思録』
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人間の感情のうちで、最も発しやすく、しかも抑えにくいのが怒りである。
この怒りを去って外物に対さなければ、正しい処置はできない。294
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【コメント】上の『近思録』の訓戒はまそしくその通りだと思います。この怒りを何事もなかったかのように平常心で捉えるためには、種々の経験、読書等を通じて、強固な信念、自らを守るしたたかな精神を構築することが肝要でしょう。
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今朝の新聞にも掲載されていましたが、小学6年の子どもが、いじめにあって学校の3階から飛び降りたということです。曰はく、「靴をかくされた、言葉の暴力」等々らしいです。
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なぜその程度でビルから飛び降りるのでしょう。私は空手道指導の際、人間の将来は、努力すれば、素的で楽しい人生が待っているから、自らで死に急ぐことをしてはならないと力説しています。
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親がジジババが甘やかせて育てるからそういうことになるのです。それに教育評論家という人たちが、指導する方法も私はおかしい部分が多分にあるような気が致します。
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『大学味講』(第2回)
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なぜ『大学』を読むのか 三
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大学に限らず、東洋の古典には次の二つの特色がある、と私には思われる。
その一つの特色は、渾沌未分性とでもいおうか。いろいろのものを、未分のままで総合的に混在していることである。私は、これを「堆肥」にたとえて把握しているのであるが、「堆肥」はワラや草を発酵させた有機質肥料であるが、その中にチッソも、リンサンも、カリも、その他諸々の成分を混在しているのである。東洋の古典には、-随って大学にもー哲学もー道徳も、政治も、教育も、経済も、あたかも堆肥のように渾然として総合的に混在しているのである。
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その二つの特色は、その叙述が断続的であり、飛躍的であり、その故に省略的であることである。私はこれを日本庭園の「飛び石」にたとえて把握しているのであるが、「飛び石」は、その上を歩いていけば美しい立派な「線」になるのであるが、一見すると、その一つ一つ孤立した「点」としか見えず、そしてその点と点との間があまりにも大きく隔っている場合は、時に脈洛を見失うこともなしとせぬのであるが、東洋の古典を読む時に、私はそうしたものを感ずるのである。
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四
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そこで、こうした古典を読むには、やはりそれ相応の読み方をせねばならぬ。何々早わかり読本とか、週刊誌的のものを読むような読み方をして、どうも古典はむずかしくてだめだなどというのは、いう方が無理である。スープとソーセージで育った現代っ子たちは、もう骨のついている魚は食えなくなっているといわれるが、これは読書にも通ずることである。
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魚のうまさは、軟い肉よりも、むしろ骨とかヒレとかいうところを上手に料理して、それをかみしめて味わうところにある、と玄人はいう。イカやカツオなどでも、生のままの肉よりも、それを乾して作ったスルメとか、カツオ節とかを、よくかみしめて味わうところに、得もいわれぬ妙味が出てくるのではないのか。このことは古典の読書においてもそうである。
本書の書名を「大学味講」としたのも、こうした心からである。
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『論語』102
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子曰はく、「吾未だ剛者を見ず。」或ひと対えて曰はく、「申棖。」子曰はく、「棖や慾、焉んぞ剛を得ん。」
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孔子が言うには、「自分はまだ真の剛者というべき人物を見たことがない」と。ある人が、「いや、申棖がおります」と答えた。孔子が言うには、「いや、申棖にはまだ慾が多い。あのような慾張りがどうして剛者たりうるものか。」
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学校を卒業して後生徒たちが、「あの程度の先生が高校の先生だったとは」と回想するとしたら、教わった生徒が不幸なのでしょうか、教えた先生が悪いのでしょうか。
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昨夜の空手道指導は対象者は9名でした。75年間の総決算の気持で子どもたちに対峙しました。ある母親様が、学校でも何處でも聞くことの出来ない、愛情と厳しさのこもった指導でした。親の私たちが、大変参考になりましたと言ってくれました。手前みそながら、こういう指導をこそしなければならないのですよ、と言外に思いました。ここには平和運動とか、甘えの教育はないのです。人様を大事にしながらも、自らに挑戦する、人生に生き抜く術を伝授しているのです。教ゆ師は、授業と同時に日本国民としての資質が最優先されなければならないのです。
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「礼節いろはことば」「し」
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修身は 人世に生きる 基なり
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自らを修めて人生に処するのが基本である。
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短歌の紹介
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物事に熱中勤勉習慣が
精神才覚鍛え躍動 6993 向上心94