第3166号 29.08.31(木)
問ふ、書を看るも明らかにする能はず。如何、と。先生曰く、此は只だ是れ文義上に在って穿求す。故に明らかならず。此の如くんば、又舊時の学問を為すに如かず。他看(かれみ)ること多きに到れば、解し去(ゆ)く。只だ是れ他の学を為すは、極めて解して明暁なりと雖も、亦修身得る無し。須く心體上に於て功を用ふべし。凡そ明らかにし得ず、行ひ去(ゆ)かずんば、須く反って自心上に在て體當せば、即ち通ず可し。蓋し四書五経は、這の心の體を説くに過ぎず。這の心の體は即ち所謂道心なり。體明らかなれば即ち是れ道明らかなり。更に二無し。此は是れ学を為すの頭脳の處なり、と。『伝習録』(伝習録巻上)87
陸澄問う、「書物を読んでもよく理解できないのは、どうしたらよいでしょうか。」先生曰く、「それはただ文章の意味の上から無理に求めようとするために理解できないのである。それならば、むしろ程朱の古い学問の仕方をした方がましだ。彼らの方法では、たくさん書物を読めば読むだけ理解して行けるからである。もっとも、そうした学問の仕方では、意味の上は極めて明瞭に理解できても、一生涯自分のものとなることはないのだが。
真の学問をするための読書の方法は、必ず心の本体の上において努力しなけけばならない。即ち凡そ理解し得ないこと、実行できないことは、必ず自己の心の中に体察するようにすれば、すぐに通暁できるのである。要するに、四書五経も、わが心の本体を説いたものに過ぎないし、この心の本体は所謂道心なのだから、心の本体が明らかになれば、道理も明らかになり、道理と心の間に区別はなくなるのである。これが学問をするに最も重要な点である。」
【コメント】読書をするには、王陽明は、まずわが本心を明らかにせよ、そうすれば一切の道理は明かになる。それが学問の根本だと言う。
昭和の碩学として名声を博してきた安岡師は、とにかくいろいろ読み続けることだ、最初は分からないがやがて理解できるようになると説いています。
私は安岡師が説くように、ただ読んで、書き写してを繰り返してきていますし、これからもそのようにしたい考えています。
書籍は一回購入すれは゛5.60年は持つので都合がいいと思います。とにかくくだらないテレビコマーシャルからは遠ざかることです。
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『不動心』(第35回)
信を裏切らないこと
どんなに自分に都合がいいことでも、そのために信頼を裏切ったり自尊心を傷つけたり、相手を憎んだり疑ったり呪ったり、自分に不誠実な行動をとらせたり隠し立てしなければならないなら、そういうことに重きを置いてはいけない。自分の精神と心の内なる神霊、そしてその善行のみを見つめる人間は、気取りもしなければ不平もいわず、孤独も群集も必要としない。生涯かけて何かを追い求めたり、何かから逃げ回るということもない。
こういう人間は、魂をつつんでる肉体がいつまで自分のものであるか、その期間が長かろうと短かろうと気に留めることはないのだ。死への旅立ちの時刻が今やって来たとしても、少しもうろたえずいつものように潔く出発できるだろう。こういう人間が注意を払っているのはただ一つ。知的な人間にはふさわしくない道へと迷いこまないようにすることだである。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第111回)
大意は、松ヶ岡開墾場の農耕は農業の専門家であればいいというものではない。諸君が使う鍬鎌の農具は、国を護る楯であり城であり武器である。かの原生林はいまや平らな農地に変わって、洋々として生産を約束している。われわれも、中国古代の聖人文王が築いた周の国のように、農業を基盤にした理想の道義国家を建設しようではないか。
という意味ですが、まことに高尚な理想であります。
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問ふ、書を看るも明らかにする能はず。如何、と。先生曰く、此は只だ是れ文義上に在って穿求す。故に明らかならず。此の如くんば、又舊時の学問を為すに如かず。他看(かれみ)ること多きに到れば、解し去(ゆ)く。只だ是れ他の学を為すは、極めて解して明暁なりと雖も、亦修身得る無し。須く心體上に於て功を用ふべし。凡そ明らかにし得ず、行ひ去(ゆ)かずんば、須く反って自心上に在て體當せば、即ち通ず可し。蓋し四書五経は、這の心の體を説くに過ぎず。這の心の體は即ち所謂道心なり。體明らかなれば即ち是れ道明らかなり。更に二無し。此は是れ学を為すの頭脳の處なり、と。『伝習録』(伝習録巻上)87
陸澄問う、「書物を読んでもよく理解できないのは、どうしたらよいでしょうか。」先生曰く、「それはただ文章の意味の上から無理に求めようとするために理解できないのである。それならば、むしろ程朱の古い学問の仕方をした方がましだ。彼らの方法では、たくさん書物を読めば読むだけ理解して行けるからである。もっとも、そうした学問の仕方では、意味の上は極めて明瞭に理解できても、一生涯自分のものとなることはないのだが。
真の学問をするための読書の方法は、必ず心の本体の上において努力しなけけばならない。即ち凡そ理解し得ないこと、実行できないことは、必ず自己の心の中に体察するようにすれば、すぐに通暁できるのである。要するに、四書五経も、わが心の本体を説いたものに過ぎないし、この心の本体は所謂道心なのだから、心の本体が明らかになれば、道理も明らかになり、道理と心の間に区別はなくなるのである。これが学問をするに最も重要な点である。」
【コメント】読書をするには、王陽明は、まずわが本心を明らかにせよ、そうすれば一切の道理は明かになる。それが学問の根本だと言う。
昭和の碩学として名声を博してきた安岡師は、とにかくいろいろ読み続けることだ、最初は分からないがやがて理解できるようになると説いています。
私は安岡師が説くように、ただ読んで、書き写してを繰り返してきていますし、これからもそのようにしたい考えています。
書籍は一回購入すれは゛5.60年は持つので都合がいいと思います。とにかくくだらないテレビコマーシャルからは遠ざかることです。
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『不動心』(第35回)
信を裏切らないこと
どんなに自分に都合がいいことでも、そのために信頼を裏切ったり自尊心を傷つけたり、相手を憎んだり疑ったり呪ったり、自分に不誠実な行動をとらせたり隠し立てしなければならないなら、そういうことに重きを置いてはいけない。自分の精神と心の内なる神霊、そしてその善行のみを見つめる人間は、気取りもしなければ不平もいわず、孤独も群集も必要としない。生涯かけて何かを追い求めたり、何かから逃げ回るということもない。
こういう人間は、魂をつつんでる肉体がいつまで自分のものであるか、その期間が長かろうと短かろうと気に留めることはないのだ。死への旅立ちの時刻が今やって来たとしても、少しもうろたえずいつものように潔く出発できるだろう。こういう人間が注意を払っているのはただ一つ。知的な人間にはふさわしくない道へと迷いこまないようにすることだである。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第111回)
大意は、松ヶ岡開墾場の農耕は農業の専門家であればいいというものではない。諸君が使う鍬鎌の農具は、国を護る楯であり城であり武器である。かの原生林はいまや平らな農地に変わって、洋々として生産を約束している。われわれも、中国古代の聖人文王が築いた周の国のように、農業を基盤にした理想の道義国家を建設しようではないか。
という意味ですが、まことに高尚な理想であります。
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