味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

ことばの慎み。

2012-02-29 13:34:54 | ブログ

タイトル---ことばの慎み。第1167号 24.02.29(水)

  寺田一清著『森信三先生の教えに学ぶ』(平成19年7月9日発行)から、「ことばの慎み-----災いは口から出て口から入る---」をご紹介します。

 ひと言のことばがけによって、人はどれだけ励まされ、また反対に傷つけられたことか、誰しも経験するところでしょう。たったのひと言ですが、その違いは、計り知れないものがあります。

 ひと言のコトバの重大さをそれほど知りつつも、日頃は案外と、心ない言葉を吐きちらかせているもので、申し訳なく思っております。

 ところで近江の国(現在の滋賀県)の高島郡小川村にあって、四十年の生涯を終えられた中江藤樹先生は、いまもなお近江聖人と慕われ、日本陽明学の祖として位置づけられております。

 思えば来年は、西暦2008年を迎え、藤樹先生の生誕四百年にあたります。わたくしが、とくに藤樹先生に心ひかれるのは、第一に、武家社会における出生の地位を捨てて、孝の道を選ばれた思想と実践の一体化にあります。言うなれば、「孝」をもって思想体系の中心にすえられただけでなく、自ら実践されたことです。第二に、人間には、天から授けられた明徳という霊宝が、それぞれ与えられております。それが、意・必・固・我という、我慾私意、気まま、わがままによって曇らされておりまして、その天地の霊宝の明徳を明らかにするには、謙の一字の実践にあります。そして謙の実践とは、貌・言・視・聴・思の五事を正すにあり、とされた点です。

  貌とは  表情であり態度

  言とは  ことばの慎み

  視とは  愛のまなざし

  聴とは  恭敬な聴き方

  思とは  気くばり思いやり

  すなわち、人間として大事な徳を身につける日常実践の道を示されたところに、藤樹先生の偉大さを感ずるのです。

 この五事こそは、物質文明の豊かさの中にある現代社会においても、永遠の光を投ずる道ではなかろうかと思います。

 ことばの慎みについ、いま一人、とくに思い出すのは、良寛禅師の「戒護」です。良寛さんほど、ことばの使い方につき細心の注意と心くばりをされた人を知りません。それほど、謙敬謙愛の美徳を体せられたお方だったのでしょう。昔から「口は災いのもと」とか「災いは口から出て口から入る」と言われております。言葉の慎みと、食事の慎みを戒められています。

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 三月三日、荘内南洲会の旅行団の方々が私ども円心会道場を訪問してくださいます。その前日のサンロイヤルホテルでの交流会にも参加してくださるとのことです。そして三日の朝、道場での空手道と『南洲翁遺訓』の発表会にも参加してくださるとのことです。

 全国的に名声を博してられる寺田先生とお会いできる日が近まって参ります。円心会の保護者の皆様、たのしみにしていてください。 


学問についての心構え。

2012-02-28 18:08:36 | ブログ

タイトル---学問についての心構え。第1165号 24.02.28(火)

 荘内南洲会理事長・小野寺時雄先生の著書『南洲翁遺訓に学ぶ』に、「安岡先生の教え」という論考があります。ご紹介します。

 恩師安岡先生に学んだことを申し上げるが、それは学問に対しての心構えについてである。先生は荀子の言葉を引用されて、君子の学は「通の為に非ざるなり。窮して困(くるし)まず憂いて意衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるが為なりと。わがともがら須く深省を発すべきなり」と申されておる。

 「通」の為でないということは、名誉の為とか博士号が欲しいとか、立身出世優先の為でもない、進学とか資格目あての為でもない。ましてや世の人を惑わすの用を足す為のものではない。特に学問の目標として示されたものが、(一)無名にして有力なる人間になれ。(二)人の世話の出来る人間になれ、の二つであった。

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 無名有力という言葉を知ったのは安岡先生の本をよんでからでありました。ここで、これをおよみになりました方に申し上げますと、生活の基盤が優先されることは理の当然であるということです。

 人生、たかだか80年くらいでありますが、こういった学問ほど、人に力と勇気を与えてくれる素晴らしいものはないと思って、私は日々取り組んでいるのです。あなたも、やってみませんか。


「敬天愛人」について

2012-02-24 16:04:55 | ブログ

タイトル---「敬天愛人」について。第1161号 24.02.24(金)

 

 「敬天愛人」について

  南洲翁の信条と言われる基本的な考え方である。敬天愛人が分かれば、西郷先生が分かる。西郷先生が分かれば敬天愛人が分かる。敬天愛人が分かれば東洋思想が分かる。又儒教にも、仏教にも、キリスト教にも相通ずるものである。この道は天地自然の道であると申されておる。即ち人間が作った道ではなく、人間が長い間に天地自然から学びとったもので、まさに天地の道理そのものである。したがって人間の本性に根ざした人の道を意味するものと考えることが出来る。それを行わなければ人間ではなくなるとも言えるものである。これが南洲翁の教えられた敬天愛人の道であるように思われる。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』)

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 西郷隆盛の教えと言われる『南洲翁遺訓』も天地の道理を説いています。これは人間に必要な道徳的学問・人格学を説いているのです。だから人間学というのです。この『南洲翁遺訓』の生成の過程では、大変な労苦があったのです。西郷隆盛と胸襟を開いて語り合った菅実秀先生がいたからこそ、『南洲翁遺訓』刊行の運びとなったのです。

 こういった厳粛な事実を食い物にして、功名を得ようとして『南洲翁遺訓』を改竄するようなことがあってはならないのです。こういう輩は歴史を都合のいいように私物化しているのです。遠からず天のいかりを受けることでしょう。


身を脩するに克己を以て終始せよ。

2012-02-23 12:53:00 | ブログ

タイトル---身を脩するに克己を以て終始せよ。第1160号 24.0223(木)

〈道は天地自然の道なるゆえ、講学の道は敬天愛人を目的とし、身を脩するに克己を以て終始せよ。〉(『南洲翁遺訓』第21章)

〔訳文〕 人間の進む道というものは、天地自然より発したものである。それ故に学道講究の道は敬天愛人を目指すことである。即ち敬天愛人こそは人間の道である。これを完全に遂行することを目標にするのが学道の本筋である。そして自らを修めるには克己を以て終始しなければならない。(小野寺時雄著『南洲翁遺訓』第21章)

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〔コメント〕 大人でさえ難解な『南洲翁遺訓』であります。でも諦めずに続けていけば、意図するところが自然と理解できるようになって参ります。

 30数年前、南洲神社で開催されていた南洲会の末席を戴き、通い続けました。お蔭で私の人生は大きく展開しました。

 今日、この難解な文言を4.5歳の子供から小学生の子供たちが楽しみながら拝誦するのです。あと一週間すれば、第27次 西郷先生の遺徳を訪ねる旅、荘内南洲会旅行団ご一行様が鹿児島にも参ります。そして私の道場にも来てくださいます。

 西郷先生が取り持つご縁でございます。南洲翁遺訓は西郷先生と菅先生の合作なのです。西郷南洲翁の精神を理解できたからこそ、荘内藩として命に代えて刊行したのです。これは何人と言えども、一言一句手をいれることは出来ないのです。

 少しばかり西郷隆盛を研究したからと言って、人の道に反することはしてはならないのです。天に唾する行為は賢明な人はしないのです。


真理瞑想行について---4.

2012-02-19 11:38:57 | ブログ

タイトル----真理瞑想行について。第1157号 24.02.19(日)

 第1156号(アメーバ)に続きます。

〈ところが、安定打坐という特殊な方法を行うと、雑念妄念がたちどころに消え去っていく。たちまち、とまではいかなくとも次第に心の中から雑念がなくなっていく。そうすれば、しいてたいした努力や、いわゆる難行苦行などをしなくても、心が真理と取り組んでいこうとする傾向に自然になるので、真理瞑想の内容が、心の中に正しい悟りとなって現われてくる。悟りが開けてくればその結果、心が自然に即応して、疑いも迷いもなくなり、磨きたての鏡のようにきれいなものになる。

 同じように修行しても悟りの非常に早い人と時間のかかる人があるのは、この安定打坐を真剣にやるか否かによって区別されるのであるから、真剣な安定打坐で行うことが大切である。

 私の体験によれば。小・中学生の方がすなおにそれを自分のものにして、人生苦楽の歴史をくりかえしているが、いわば酸いも甘いも噛みわけているはずの年配者の方が悟りが遅いという傾向がある。それは結局、子どもは批判するにしても、その範囲がせまく内容にも複雑さがないが、中年以上の人たちは余計なこだわりが多くあるため、無邪気に純真に受け取ろうとする気持ちがおろそかになってくるからである。

 形だけは安定打坐で、心が安定打坐になっていないと、せっかく真理瞑想をじゅんじゅんと自分の魂の中に注ぎこまれても、涙の出るような感激を感じることが少ないかもしれない。であるから、疑う気持ちや批判を乗り越え、ただ無念無想の状態で、内容をわかろうとするのでなく、ただ受け入れていくという気持ちで行うことが何より大切である。そうすれば、無条件で悟りの花を開かせいくれることになるのである。〉

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 ここまで書いて私自身、そんなに真面目ではないが、天風師が提供している数々の言葉が大変参考になっている次第です。こういう文言を記憶するということはボケ防止にも役立つと思います。

 あなたもおやりになりませんか。真面目にしてもお金を請求されるということはないのです。心の安らぎを覚え、日々の生活が楽しくなるだ゜けでもいいと思います。

 天風師の教えは、その場で、無料で、ごく短時間で出来るのです。今時の新興宗教は気をつけなければならないと思います。