味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

貞観四年、詔して卒を発して洛陽宮の

2019-05-31 09:18:51 | ブログ
第3787号 01.05.31(金)

貞観四年、詔して卒を發して洛陽宮の乾元殿を修め、以て巡狩に備ふ。給事中張玄素、上書して諌めて曰く、微臣竊(ひそか)に思ふに、秦の始皇の君たるや、周室の餘に藉(よ)り、六國の盛に因り、将に之を萬代に貽(のこ)さんとするも、其の子に及びて亡べり。良(まこと)に嗜を逞しくし慾に奔り、天に逆ひ人を害(そこな)ふに由る者なり。是に知る、天下は力を以て勝つ可からず、神祇は親を以て恃む可からず、惟だ當に倹約を弘(おほい)にし、賦斂(ふれん)を薄くすべし。終を慎しむこと始の如くにせば以て永固なる可し。『貞観政要』164

 貞観四年に、詔を出し徒卒を派遣して洛陽宮内の乾元殿を修理し、地方巡幸の際に備えさせた。給事中の張玄素が上書して諌めて申し上げた、「私がひそかに思いまするに、秦の始皇が君主としては、周王室の余威に頼り、六國の盛大に本づき、天下を統一し、帝位を万世に残し伝えようとしましたが、子の代に及んで滅んでしまいました。それはまことに嗜欲を思う存分に逞しくし、天にさからい人民を害したからによるものであります。そこで、こういうことがわかりました、天下は力によって勝つことはできず、天地の神々は親しみお祭りしているからといって頼りにすることはできませず、ただ、倹約を広め、税金を薄くすべきであります。このようにして終始変わらなければ、国家は永久に堅固であることができます。

 【コメント】天下は力によって思うようになるものではなく、良識ある行動をしなければならないと思います。

 今テレビでは川崎市で子供たちを殺傷した状況を報道していますが、岩崎容疑者をボカシテ映していますが、残虐な事件を起こした犯人の顔はさらけ出す必要があると思います。ボカス必要はありません。

 昨晩は第二道場での空手道教室でした。三時に入室して三時間読書に耽りました。カナコ譲、諒哉君、中学の超優秀君ら三人で『南洲翁遺訓』を大きな声で拝読しました。カナコ譲は16章を暗記していました。荘内南洲会の先生方にお聞かせしたい思いです。

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『善の研究』第237回

 実在は実にこれに由って成立するのである。たとえば三角形の凡ての角の和は二直角であるというの理は何処にあるのであるか、我々は理その者を見ることも聞くこともできない、而もここにここに厳然として動かすべからざる理が存在するではないか。また一幅の名画に対するとせよ、我々はその全体において神韻縹渺として霊気人を襲う者あるを見る、而もその中の一物一景についてその然る所以の者を見出さんとしても到底これを求むることはできない。

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比、上書して事を奏する有り。

2019-05-29 15:20:28 | ブログ
第3786号 01.05.30(木)

太宗、司空裴寂に謂ひて曰く、比(このごろ)、上書して事を奏する有り。條數(じょうすう)甚だ多し。朕總て之を屋壁に黏(ねん)し、出入に觀省す。孜孜として倦まざる所以は、臣下の情を盡さんことを欲すればなり。一たび理を致さんことを思ふ毎に、或は三更に至りて方(はじ)めて寝(い)ぬ。亦、公が輩、心を用ふること倦まず、以て朕が懐(かい)に副(そ)はんことを望む、と。『貞観政要』162

 太宗が司空の裴寂に語って言われた、「このごろ上書して事を奏上するものがあるが、その数は非常に多い。我は、これをすべて家の壁に張りつけ、出入のたびによく見ている。このようにして努力して怠らなわけは、臣下の心持を十分に尽くさせようとしたからである。一たび良い政治によって治まった世を作り出そうと思うごとに、夜半になってやっと寝ることもある。そして公等もまた、心を用いることにうみあきることがなく、我の心にかなうようにすることを期待する」と。

 【コメント】物事を円満に成就させようと思うならば、組織する人びとが、お互い信頼し協力しあうことが、大切だと思います。そして目的に違うことのなきようしたいものです。

 人間、ややもすると自分の志向が優先しがちですが、組織する人々の思いも斟酌してあげたいものです。何もかも独り占めすることのなきよう、意見容貌も入れてあげれば、組織としての和はゆらぐことはないでありましょう。

 昨日児童らを殺害した川崎市の50歳の岩崎老人はどういう人生をたどり、生きてきたのでしょうか。安倍総理も閣議を開き、その予防に取組むべく指示したとのことですが、これは防げないと思います。犯人は、何時、どこからやってくるかわからないからです。

 そのためには、国民に御願いする政治家が信頼に値する人格美を提供しなければならないのです。安倍さんの政治方針は是としますが、夫人の国会喚問をせず、新宿の夜の女同様の昭江おばさんをしたい放題させているやり方には容認したくありません。これは国民を愚弄している何者でもありません。『悪だくみ』をお読みください。

 そこに行くと私が尊敬する『南洲翁遺訓』刊行の地・荘内の先生方の生き方はまことに美しいのです。知的に優れ、品性・品格が伴わないと『南洲翁遺訓』は刊行出来ない筈なのです。

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『善の研究』第236回

 神は如何なる形において存在するか、一方より見れば神はニコラウス・クザヌスなどのいったように凡ての否定である、これといって肯定すべき者即ち捕捉すべき者は神でない、もしこれといって捕捉すべき者ならば已に有限であって、宇宙を統一する無限の作用をなすことはできないのである。この点より見て神は全く無である。然らば神は単に無であるかというに決してそうではない。実在成立の根底には歴々として動かすべからざる統一の作用が働いている。

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安岡正篤著『儒教と老荘』第5回

 ----六、君子と偽君子

 要するに君子は真面目である。真面目であるとは、つまり生活の本道を歩んでおるからである。現代人のごとく生活の屑を拾って芸術を云々しない。彼は常に真理の拝殿に額ずく敬虔の情に溢れておる。そしてまっしぐらに大道を進もうという---真理のためには水火をも踏もうという道徳的勇気、力の感に漲っておる。ゆえに彼は、人に対して烈々たる人格的威力を感ぜしめるものである。ケーベル博士は東京帝大に赴任して、他ならぬ根本通明翁に言うべからざる畏敬の情を覚えたと書いておる。フランスの志士ポール・リシャルのごときも、いわゆる社会改造家を軽蔑して、黙々として行者のような頭山立雲翁を懐しんだと大川周明氏は語っておる。私一個の経験から言っても、そうあろうと信ぜられる。
 もし社会改造を志す人々が、その人格を涵養して君子人に与する暁は、真に民衆が彼らに跪拝するであろう。もし日本の外交家に、強い君子的人格が養成されるならば、確かに日本の外交も面目を一新するであろう。 

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人の才器は、各々同じからざるなり

2019-05-29 09:04:46 | ブログ
第3785号 01.05.29(水)

人の才器は、各々同じからざる有り。懦弱(だじゃく)の人は、忠直を懐(いだ)けども言ふこと能はず。疎遠の人は、進ぜられざらんことを恐れて言ふことを得ず。祿を懐(おも)ふ人は、身に便ならざらんことを慮りて敢て言はず。相輿に緘黙(かんもく)し、俛仰(ふぎょう)して日を過す所以なり、と。『貞観政要』154

 人の才能というものは、各人が同じではありません。いくじがない人は、忠直の心を持ちながらも言うことができません。親密で無い人は、信用されないであろうことを心配して言うことができません。官職地位を大事に思っている人は、うっかりしたことを言えばわが身のためにならないであろうことを考えて、言おうとはいたしません。どれもこれも皆、口を閉じてだまっていて、上役や多数の人たちにさからわずに同調して、その日その日を過ごしている理由であります、と。

 【コメント】人の才能は人それぞれ異なりますが、発言をする時は、自分だけを見せようと驕り高ぶってはいけないし、冷静にして謙虚さが求められます。

 何時も申していることですが、どんな子供であっても、一人の人間として対応したいものです。

 昨日は大変な事件が発生しました、51歳の男が大人一人と子供一人を死亡させるという暴挙を起し、人々を恐怖のどん底に陥れました。その後男は死亡したとのことですが、他人を巻き込むことは許されることではありません。

 そしてまた、包丁を持った男が道路に横たわっていたのを、現認した人が警察に通報し警察官が来たとき、包丁を振り回したとのこと、こういう暴挙をする人間は厳しく罰して欲しいものです。

 こういう事態を引き起こす人間は、事後、必ず天の制裁を受けることになるのです。中村天風師の『成功の実現』等々を読んでください。

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『善の研究』第235回

 神を外界の事実の上に求めたならば、神は到底仮定の神たるを免れない。また宇宙の外に立てる宇宙の創造者とか指導者とかいう神は真に絶対無限なる神とはいわれない。上古における印度の宗教および欧州の十五、六世紀の時代に盛であった神秘学派は神を内心における直覚に求めている、これが最も深き神の知識であると考える。

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尋常の事を奏するすら、情猶

2019-05-27 15:54:22 | ブログ
第3784号 10.05.28(火)

尋常の事を奏するすら、情猶ほ此の如し。況んや諫諍せんと欲するは、必ず當に逆鱗を犯すを畏るるなるべし。所以に諫者有る毎に、縦ひ朕の心に合わざるも、朕亦、以て忤ふと為さず。若し即ち瞋(いか)り責めば、深く人の戦懼を懐かんことを恐る。豈に敢て更に言はん、や。『貞観政要』153

 普通の奏上でさえ、実情はこのようである。まして、強く諌めようとするには、必ず天子の怒りを犯すことを恐れるに違いない。それゆえ、諌める者があるごとに、たとい我の心に合わないものでも、我はそれをさからうものとはしなかった。もし怒って責めたならば、深く人がおののき恐れる心をいだくことを恐れる。かくては更に諫言しようとするものが無くなるであろう」と。

 【コメント】人間は人それぞれ感情が異なります。そうであっても、人間は仕合わせに生きたいのです。ですから、相手に名誉を与えて喜ばせてあげましょう。ただ、通常言うゴマスリであってはなりません。

 名誉を与える内容が真摯的であれば、双方の人間関係に齟齬を来すことはないでありましょう。とにかく最近はやりの非違行為に似たことは真面な人ならそういうことはしないのです。

 只今、28日、午前10時20分です。今朝は岳父・小川末芳の祥月命日であり、お寺さんへ行ってお詣りしてきました。

 先程、40歳過ぎの男が包丁を持って小学生の子供たちに切りつけたとのことです。大人1名、子供1名が心肺停止の状態とのことです。切りつけた犯人も自分の首を刺しこれも心肺停止とのことです。

 何故、か弱い子供たちを狙って斬りつけたりするのでしょか。犯人は自分の首を刺したとのことですが、関係のない人々を何故巻き込むのでしょうか。

 二度とない人生をこういう事件で汚してしまっては、折角の人生も無意味なものになると思います。

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 『善の研究』第234回

 然らば我々の直接経験の事実上において如何に神の存在を求むることができるか。時間空間の間に束縛せられたる小さき我々の胸の中にも無限の力が潜んでいる。即ち無限なる実在の統一力が潜んでいる。我々はこの力を有するが故に学問において宇宙の真理を探ることができ、芸術において実在の真意を現わすことができる、我々は自己の心底において宇宙を構成する実在の根本を知ることができる、即ち神の面目を捕捉することができる。人心の無限に自在なる活動は真に神その者わ証明するのである。ヤコブ・ベーメのいったように翻れさたる眼を以て神を見るのである。123

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安岡正篤著『儒教と老荘』

  ---四、君子的人格の非壮味

 しかしながら最も強く最も厳かに生きる君子人が、その外界の故に、宛も寒厳のごとく枯木のごとく朔冬に兀立(ごつりつ)するものと解するは、余りにまた人間を知らざるのはなはだしき者である。君子の胸には戦いがある。勝利に映ゆる額には、なお過去を憶い未來を思う感慨がある。悲痛がある。

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貞観八年、上、侍臣に謂ひて曰く、

2019-05-26 16:13:43 | ブログ
第3783号 01.05.27(月)

貞観八年、上(しょう)、侍臣に謂ひて曰く、朕、閑居静坐する毎に、則ち自ら内に省み、恆に、上(かみ)、天心に稱(かな)はず、下(しも)、百姓の怨む所と為らんことを恐れ、但だ人の匤諫せんことを思ひ、耳目をして外通し、下の冤滞無からしめんことを欲す。又、比(このごろ)、人の来りて事を奏する者を見るに、多く怖慴(ふしょう)する有りて、言語、次第を失ふを致す。『貞観政要』152

 貞観八年に、太宗が左右の侍臣たちに語って言われた、「我は、用事がなくひまで静かに座っているたびごとに、心の内に反省し、いつも、上にしては天の意志にかなわず、下は人民に恨まれることになるのを恐れ、ただ人が正し諌めてくれるようにと思い、「人の意見を聞くことによって外界の事情に通達し、下の人民たちに無実の罪を晴らすことができずして苦しむ者が無いようにと願っている。また、このごろ、人が来て事務について奏上者を見るに、多くはひどく恐れるためにどぎまぎして言葉を言い違うようになっている。

 【コメント】人の上に君臨する太宗が自らを律して、人々のために尽くそうてする姿が髣髴としてきます。二度とない人生を、より平和的に且つ有意義にするためには、人々との協調関係が良好であるべく進めたいものです。

 先般、戦争発言をした政治家が問題視されていますが、軽々に世を攪乱するような発言は慎むべきなのです。当該本人は体調不良を理由に二か月間病院に入院するとのことですが、国民を敵に回すようなことは慎み、謝罪をした方がいいと思います。

 かく申す私は子供たちに空手道を教えていますが、行動と発言には注意しているつもりです。
 
 国内では若い人々が非違行為に手を染めている実態が報道されていますが、これらは慎しんだ方がいいのではないでしょうか。

 現在、アルリカトランプ大統領が国賓として来日していますが、東京では厳戒態勢の警備をしていますが、トランプ大統領来日反対を叫んでいた青年が連行される騒ぎになりました。

 人それぞれ感情の差はあるでしょうが、突飛な行動はすべきではないでしょう。

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『善の研究』第233回

 道徳的要求より神の存在を証明せんとするのは、尚更に薄弱である。全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるに相違ないが、我々の実効上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者がなければならぬという証明にはならぬ。此の如き考は単に方便と見ることもできる。これらの説はすべて神を間接に外より証明せんとするので、神その者を自己の直接経験において直にこれを証明したのではない。

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安岡正篤著『儒教と老荘』第4回

 由来儒生という言葉が門外の人に一種の軽侮を感ぜしめたものであるが、そは畢竟生命の躍進を尊ぶ実人生の活舞台において、彼らは概してあまりに人形であり機械であるからであった。道徳の危機はここに存する。まことの道徳は人性の必然的要求でなければならない。直接生命の油に点ぜられ炳乎たる光こそ道徳の特色でなければならない。しかるに道徳の光は不断の内省を失う時、たちまちその生命の油は枯渇して後は汚い「もえかす」となってしまう。そしていわゆる腐儒はかかる「もえかす」を挑(かか)げてこの光を仰げというのである。
 すなわち、彼らによって正当なる自己の主張も傲慢と排斥された。しばらく世間の迷妄から脱して自己の内観に耽ることも独善の徒と罵られた。あるいは、正しき恋愛と不正なる合法的結婚との価値も顛倒された。そして人間に最も肝要な、真に人道の根本問題ともいうべき自由と服従との意味もわからなくなってしまった。

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