味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

政治の要諦『言志録』

2011-11-30 16:47:23 | ブログ

タイトル----政治の要諦『言志録』。第1067号 23.11.30(水)

 『言志録』 46 政治の要諦

〈土地人民は天物なり。承けて之れを養い、物をして各(おのおの)其の所を得しむ。是君の職なり。人君或は謬(あやま)りて、土地人民は皆我が物なりと謂(おもう)て之れを暴す。此れを之れ君、天物を偸むと謂う。〉

〔訳文〕 土地も人民も天の賜である。これを受けて、これを養い、一人一人にその適当な地位や仕事を得さしめるのが、人君の仕事である。ところが、人君が誤って、土地、人民は皆、自分のものだと考えて、乱暴に取り扱うならば、この行為は、人君が天物を盗むものというべきだ。

〔付記〕 一斎先生が本文のようなことを述べたのは、国家に対していったのではなく、当時の大名、小名に対して、苛斂誅求を戒めたものと考えられる。

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〔コメント〕 苛斂誅求という言葉は、今日あまり使用されていませんが、年金等の為に蓄えられた金で、全国に箱物を造り続けた社会保険庁の無駄遣いは、訳文にある「人君が天物を偸む」のと似ているような気がします。

 官僚という方々は、国民が一円安い買い物のために東奔西走する姿は全く目にはいらないのでしょうか。国民から、そして野党から指摘されて改善するといことは国民無視も甚だしいといわざるを得ません。

 今の私は、天の声が通じたという中村天風が言う「人の道」を踏襲することが、大切なことだと思うのです。そのためには天が見ているという厳粛な戒めがなくてはならないと思います。それでも国民を愚弄すると、事務次官夫妻が殺害されたと同様なことが十数年後、起こるであろうと思います。

 若い青年たちに、これ以上苦しめられても君たちは黙っているのですか、と聞いてみたら、いや、そういうことはありません。若者が立ち上がる時が来るでしょう、といいました。『南洲翁遺訓』第四章にある「萬民の上に位する者」、これは、政治家ばかりでなく、官僚も真摯になってほしいものだと思うのです。事件が勃発してからでは遅いのです。


寵愛過ぐる者『言志録』

2011-11-29 10:27:30 | ブログ

タイトル-----寵愛過ぐる者『言志録』。第1066号 23.11.29(火)

 『言志録』 45 寵愛過ぐる者

〈寵過ぐる者は、怨みの招なり。昵甚しき者は、疎(うとん)ぜられるの漸(ぜん)なり。

〔訳文〕 上の人や同僚から、余りに可愛がられるとそれがかえって怨みを招くことになる。また、余りになじみ過ぎると、かえって疎遠になる基を造るものだ。

〔付記〕 「親しき中にも礼儀あり」という戒めと同義である。

〔コメント〕 「訳文」は全くそのとおりであるが、何事も経験してはじめてわかってくるということでしょう。若い時は失敗も大いに結構だと思います。要は経験し、そして文献を繙き学び、少しずつ理解して行くものだと思います。

 ところが40才過ぎても分別のない、精神疾患の人間がいるものです。尤もそういう類は世の人々から疎外されては行きますが。

 何回も書きますが真摯に、謙虚に、情熱を秘め、事に処することが大事だと思います。その為には『南洲翁遺訓』を学ぶことです。道場に集う4.5歳の幼児が、『南洲翁遺訓』第1章、21章を暗記して、大声で唱えるのです。

 『南洲翁遺訓』を世に出してくれた荘内の皆様に感謝しています。昨日は健康ランドのジャングルを1時間歩きました。真っ暗闇でした。階段を墜落したら重症になるような処です。その時聞いていたテープで『南洲翁遺訓』の解説がありました。

 曰く、

 『南洲翁遺訓』は西郷隆盛が残した言葉をそのまま文章にしたのだ、というような解説でした。私は聞きながら、それは違うよ、と声を出しました。私以外誰もいない処なのですが。西郷隆盛がそのようなことを話したのを、荘内の菅先生を中心とする頭脳的に精神的に同次元にある英邁な荘内の方々が文章化したのです。

 これは私の詩吟道の師匠であった竹下一雄先生も同様に言っていたものです。そこに行くと西郷隆盛を書き続けた作家・鮫島氏も読みが浅いと思っています。

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 私のこの見解が非の時は、荘内南洲会の先生方ご指導ください。事務長様、如何でしょう。


得意時の注意『言志録』

2011-11-28 11:32:25 | インポート

タイトル---得意時の注意『言志録』。第1065号 23.11.28(月)

『言志録』 44 得意時の注意

〈得意の時候は、最も当に退歩の工夫を著(つ)くべし。一時一事も亦皆亢龍(こうりょう)有り。〉

〔訳文〕 思いがかなった時こそ、一歩さがる工夫をすべきである。時間的にも、事柄的にも、昇りつめた龍、つまり、尊貴を極めたものは、退歩を考えておかないと必ず敗滅の悔があるものである。

〔付記〕 酔古堂剣掃、霊の巻に、

「名を成すは毎(つね)に窮苦の日にあり、事を敗るは多くは、志を得るの時に因る」とある。

 味わうべき言葉だと思う。

 もう一つ。聚楽第が出来上がった時、誰かがその壁に次のような落書きをした。

「おごるものは久しからず」

 これを見た秀吉は、その隣に、

「おごらざる者も久しからず」

 と書かせたという。

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〔コメント〕 原文、訳文とも善い教えだと思います。だが、「思いがかなった時」だけでなく、たえず控えめで謙虚であった方が、精神的にはゆとりがあるのです。私はいつもそのようにしています。どんな子供にも手をついて挨拶するし、丁寧な言葉をつかっています。ただ、躾は厳しいです。

 躾の厳しさについて、空手道指導の際、4、5才の幼児たちは正座はせず、足を投げ出して座っています。そこで、本人を睨み付け、大きな声で「正座ッ」というのです。そうしたら、びっくりして正座をするのです。躾は幼児であっても妥協してはならないのです。

 ある母親様に次のようにメールしました。やがてお宅の子供さんに「あの人大した指導者ではなかったたな」と思われないように気を引き締めているのです、と。

 そして聚楽第の落書きの件ですが、知恵の限りを尽くし、天下を取ったとはいえ、そこは学問のない天下人の浅慮、そのまま負けずに君臨していたら、世界中から怨まれていただろうと思います。それに比べ徳川が残した学問新興の文化は見事であったと言えましょう。

 京都大学名誉教授であった会田雄次氏は徳川を毛嫌いしていましたが。


昨非と今過『言志録』

2011-11-27 11:17:29 | ブログ

タイトル---昨非と今過『言志録』。第1063号 23.11.28(日)

 『言志録』 43 昨非と今過

〈昨の非を悔ゆる者は之れ有り、今の過ちを改むる者は鮮なし。〉

〔訳文〕 過去の非を後悔する人はあるが、現在していることの非を改める人は少ない。

〔付記〕 現在の非を改めることが大切であって、過去は悪かった、悪かったと、これを繰り返しても改まるものではない。現在の非を改めてこそ、意味があるということだ。

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〔コメント〕 仰せのとおりだと思います。その場合、「非である」とされたものをどう認識し、分析し、改善していけばいいのか、これが大事ではないかと思います。

 それには世の流れ、状況を認識することも大切な要件の一つではないでしょうか。そして多くの文献を読むことも大切でしょう。お薦めは漢籍を繙き歴史的先達に学ぶこともより大切だと思います。

 私の思考の骨格にあるのは『南洲翁遺訓』であります。『南洲翁遺訓』こそは人間学の基本なのです。これを参考に工夫検討すればよりよい結果が出てくると思います。

 今、読売反乱事件で世論は喧しいですが、トップの方もここで引き、人々の声にも耳を傾け潔さを表明すれば、名誉が永遠に保存されるのにと思う次第です。『菜根譚』には、「事を謝するは、当に正盛の時に謝すべし。」と教えていますが、そういうことよりか、今が大事なのでしょうか。さて、歴史の審判は如何なるでしょう。


知分と知足『言志録』

2011-11-26 11:04:09 | ブログ

タイトル----知分と知足『言志録』。第1062号 23.11.26(土)

 『言志録』 42 知分と知足

〈分を知り、然る後に足るを知る〉

〔訳文〕 自分の身分を知れば、そう望外のことは望めず、また自分の天分を自覚すれば、現状で満足することを知る。

〔付記〕 仏典にも、「足るを知るものが、本当に富んでいるものだ」と教えている。そして「吾は唯、足るを知る」を図のように判じ物としている。

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〔コメント〕 川上正光氏の上の「訳文」と「付記」には大いなる疑問があります。これは断じて違う、と。

 今時、身分なんてものはないのです。人間皆裸で生まれ、それぞれの環境で成長して行きます。総理大臣だって、放たれ小僧だったのです。それが学問をし、人と交わり、社会経験を積んで、それぞれの地位に就くことになったのです。

 かく申す私は、大学教育も受けていない、能力のない底辺の人間です。でも、天下の住友生命名誉会長・新井正明先生とも文通による交流をしたし、その他著名人と言われる方とも文通をしてきました。その方々は、私の手紙を見て、この人間はどういう人間か、瞬時に判断した筈なのです。こちらが不真面目であったり、付き合うに値しない人間だったら返事もよこさないと思います。

 『正法眼蔵随聞記』にも、手に負えなかった人間が、修行の結果偉い地位についたと紹介しているではありませんか。

 「付記」にある「足るを知る」ということは、望外の要求をするな、贅沢をするな、ということなのです。今の労働組合に警告を与えているようなことなのです。

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 昨晩は木曜日の空手道稽古の疲れもありましたが、背中15キロ、片足2キロを装着し、健康ランドの階段の真っ暗闇を一時間歩き、汗びっしょりなりました。寒いのにこういう馬鹿げたと思われるようなことをするのは私一人だけです。円心会の若手・木場昌吾師範、啓介師範などに負けてなるものか、72歳の老人と30歳という年齢差はあるが、来るなら来い、という心境なのです。これが髪の毛はないけど、元気の秘訣なのです。

 今日、年金、医療保険等々で議論がかまびすしいです。高齢者は、私みたいに動き、学び、ピンコロ踊りがいう人生でありたいと思います。何らの努力もしないで、金を寄越せとただをこねたら、若い青年たちを苦しめることになるのです。自らの潔さの欠如です。

 天風師の本に出てくる大人が、地震が怖いといっていろいろ質問をしたというくだりがあります。その方たちへ何の職業なのですか、と問うた処、教育長とかそういう偉い人たちだったと記してあります。甘い汁を吸ったうえ、自分たちだけは生き延びたい、なんというずるい人間たちなのでしょう、と思った次第です。こういう人種がゴマンといるのです。

 長崎の師範よ、たまにはメールをしなさい。本も送ったのに。メールがないということは、消極的な人生を歩いているということなのですよ。長生きしないよ。天風が笑っているよ。