第3227号 29.10.31(火)
夫れ天地の常なるは、其の心の萬物に普くして心無きを以てなり。聖人の常なるは、其の情の萬事に順ひて情無きを以てなり。故に君子の學は、廣然として大公、物来りて順応するに若くは莫し。『近思録』66
そもそも天地の道が不変なのは、その心が万物にあまねく行きわたり、私心がないためですし、聖人の道が不変なのは、聖人の情が万事に逆らわず、私情を立てないからです。故に君子の学問としては、心がひろびろとして公平であり、物が来たときそれに逆らわずに応じるといったことが第一です。66
【コメント】大変良い教えだと思います。でも我々末端の者には迚も聖人の真似は出来ませんが、只管真面目に、欲を出すことなく日々堅実にありたいものです。
只今31日午前9時35分、先程テレビでSNSでの金儲けできるというサギのことが紹介されました。いろいろな手口で騙すのでしょうが、そういうことをしたら長い人生では、天の制裁を受けることになるのです。ですから、人様を騙すなどということをしてはならないし、なおまた余計なものには手を出さないことです。
私のこのブログは5年前娘が投稿できるようにしてくれたのでした。何もすることかがないと老人の父が呆けるか早死にしはしないかと慮って解説してくれたのでした。
今回で3227号になりますが、漢籍等を中心としてブログ発信して至らない自分を正してくれるので有難いと思っています。
安岡先生も申しているように、漢籍は一回読んだだけでは理解できません。何回も何回も、あれを読みこれを読みしていくうちに理解できるようになってきます。
そして古の聖人と言われる人々の訓戒を真面目に聴くことによって、自分の人生に寄与できると信じています。とにかく邪心を抱かないことです。そんなに儲けなくていいじゃありませんか。
美しい心で、健康で有り続けることが出来れば、それが最高の幸せだと思います。その為には『南洲翁遺訓』と漢籍を繙くことだと信じています。
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「西郷南洲の政治思想について」----第12回
是の如き虚妄な生活に漂うて居る者より、内面的にはまだしも暴を以て暴に報いる様な侠客者流の方が真剣である。彼等は外面的に又功利的には随分害も有ろうが、彼等にはまだしも溌剌たる活力が存しておる。敵と戦はうという烈しい意志がある。この生気こそ化育の根本であって、この生気を失ってしまえば最早精神生活も何もあったものではない。けれども暴力的応報思想は確かにまだ幼稚と言はねばならぬ。眞の生活は暴に陥れずして、もっと有道ならしむるところにある。
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『不動心』(第94回)
ものごとの内部を見抜く眼力
ものごとの内部を見ること。その本質や本来の価値を見逃してはならない。
人間を支配する理性は、自分自身がいかなる条件のもとで、どのような目的のために、何を材料に使って仕事をするかについて完全に理解しているのである。
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『臥牛先生遺教抄』(第52回)
道にすなおならではならぬものなりと教えられ、譬えを引いて仰せらるるには、岡田某が本因坊に囲碁の教授を頼みたるに、傍らにある十五六歳と覚しき家の娘を顧みて、この者と打ち給えと言う。心の中にはかようなる小女かと不満に思いしが、やがて局に対して討ち始めたるに、奇手妙手とても更になく、極めて柔順なる手筋なれば愈々弱手ならんと思いしが、結局に至り却って幾目かの負けになりぬ。流石に名手の教えに学びしものと感服せりと語りき。少女元来技能あるにあらず、教えらるる法を型の如く守りたるのみ、これ即ち教えに柔順なる証なりと。
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夫れ天地の常なるは、其の心の萬物に普くして心無きを以てなり。聖人の常なるは、其の情の萬事に順ひて情無きを以てなり。故に君子の學は、廣然として大公、物来りて順応するに若くは莫し。『近思録』66
そもそも天地の道が不変なのは、その心が万物にあまねく行きわたり、私心がないためですし、聖人の道が不変なのは、聖人の情が万事に逆らわず、私情を立てないからです。故に君子の学問としては、心がひろびろとして公平であり、物が来たときそれに逆らわずに応じるといったことが第一です。66
【コメント】大変良い教えだと思います。でも我々末端の者には迚も聖人の真似は出来ませんが、只管真面目に、欲を出すことなく日々堅実にありたいものです。
只今31日午前9時35分、先程テレビでSNSでの金儲けできるというサギのことが紹介されました。いろいろな手口で騙すのでしょうが、そういうことをしたら長い人生では、天の制裁を受けることになるのです。ですから、人様を騙すなどということをしてはならないし、なおまた余計なものには手を出さないことです。
私のこのブログは5年前娘が投稿できるようにしてくれたのでした。何もすることかがないと老人の父が呆けるか早死にしはしないかと慮って解説してくれたのでした。
今回で3227号になりますが、漢籍等を中心としてブログ発信して至らない自分を正してくれるので有難いと思っています。
安岡先生も申しているように、漢籍は一回読んだだけでは理解できません。何回も何回も、あれを読みこれを読みしていくうちに理解できるようになってきます。
そして古の聖人と言われる人々の訓戒を真面目に聴くことによって、自分の人生に寄与できると信じています。とにかく邪心を抱かないことです。そんなに儲けなくていいじゃありませんか。
美しい心で、健康で有り続けることが出来れば、それが最高の幸せだと思います。その為には『南洲翁遺訓』と漢籍を繙くことだと信じています。
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「西郷南洲の政治思想について」----第12回
是の如き虚妄な生活に漂うて居る者より、内面的にはまだしも暴を以て暴に報いる様な侠客者流の方が真剣である。彼等は外面的に又功利的には随分害も有ろうが、彼等にはまだしも溌剌たる活力が存しておる。敵と戦はうという烈しい意志がある。この生気こそ化育の根本であって、この生気を失ってしまえば最早精神生活も何もあったものではない。けれども暴力的応報思想は確かにまだ幼稚と言はねばならぬ。眞の生活は暴に陥れずして、もっと有道ならしむるところにある。
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『不動心』(第94回)
ものごとの内部を見抜く眼力
ものごとの内部を見ること。その本質や本来の価値を見逃してはならない。
人間を支配する理性は、自分自身がいかなる条件のもとで、どのような目的のために、何を材料に使って仕事をするかについて完全に理解しているのである。
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『臥牛先生遺教抄』(第52回)
道にすなおならではならぬものなりと教えられ、譬えを引いて仰せらるるには、岡田某が本因坊に囲碁の教授を頼みたるに、傍らにある十五六歳と覚しき家の娘を顧みて、この者と打ち給えと言う。心の中にはかようなる小女かと不満に思いしが、やがて局に対して討ち始めたるに、奇手妙手とても更になく、極めて柔順なる手筋なれば愈々弱手ならんと思いしが、結局に至り却って幾目かの負けになりぬ。流石に名手の教えに学びしものと感服せりと語りき。少女元来技能あるにあらず、教えらるる法を型の如く守りたるのみ、これ即ち教えに柔順なる証なりと。
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