タイトル----偉人の紹介「瀬山陽」。第637号 22.10.30(土)
勤王倒幕の導火線となった『日本外史』の著者。広島の人、安政九年生。外史は二十三歳の頃起稿し、四十九歳の時完成。天保三年死去。明治二十四年特に正四位を贈らる。
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男児学ばざれば、則(すなわ)ち已(や)む。学ばば当(まさ)に群を超ゆべし。安(いづく) んぞ奮発して志を立て、以て国恩に答へ、以て父母を顕(あらわ)さざるべけんや。
瀬山陽は通称を久太郎と云った。寛政三年の四月、久太郎は五経の一つである易経を読み終った。時に年十二歳であった。そうして、これから文章を作る事にも力を注ごうと決心した。
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『私も学問をするからには並々の学者で終わりたくない。昔の聖人賢人にしろ英雄豪傑にしろ、私と同じ人間であったのだ。私も、もう十二歳だし、学問を始めてから六年になる。発奮して努力勉励しなければ、唯の平凡な学者として一生を終わる事になってしまうであろう。愚図愚図してはいられない。大いに勉強して、一世を導くような人物となり、国恩に答え父母の名を顕し、忠孝の道を成遂げなければならない。そうだ、私は今はじめて文章を作ろうとしているのだ。これを書こう。此の私の決心を書こう』
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久太郎は、この決意を以て筆を執った。そうして書き上げたのが立志論であって、冒頭に掲げたのは、その一節である。久太郎は生まれつき聡明鋭敏であったには違いないが、然し、非常な勉強家であった。
『汝(なんじ)、草木と同じく朽ちんと欲するか』
久太郎は、こういう文句を紙片に書いて書籍の間に挟んでおいた。読書に厭(あ)きると此の紙片を取りだし、之を叩いて更に勉強を続けた。こういう猛烈な勉強は、何の為であったか。云うまでもなく、立志論がその明白な答えである。
然し、瀬山陽の刻苦勉励は少年時代だけの事ではなかった。五十三年の生涯を通じて非常に努力したのである。だからこそ、日本外史や日本政記などを著して、勤王の精神を鼓吹 (こすい)し以て国恩に答え、その名を天下後世に留めて父母を顕すことができたのである。
『余を才子であるという者は未だ余を知れる者ではない。余を目して刻苦勉励の後、一人前の男となったのだと云う者があるならば、その人は真に余を知れる者である』
之は、瀬山陽が天下に名をなすに至った後、常に人に向かって云った言葉である。
浅見絅齊という学者は、志すという字に解釈して、
『雁は腐りて蛆(うじ)となるも蛆はなお北に飛ぶ』と云った。志を立てるというのは、唯こうしようと思うだけの事ではない。しようと思うと同時に実行することである。
瀬山陽は十二歳にして自ら自分の運命を決定したのであった。立志論は、その宣言であった。稽古に作った文章では無かったのである。
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日本空手道少林流円心会では、永年、『南洲翁遺訓』はじめ漢籍の言葉等々を、子供たちに教えてきました。先週から、稽古の日、道場に来た順番に短い漢籍の言葉を入れた文章を書かせるようにしました。
幼児期にこんな難しい言葉を、と言われる保護者もおられるでしょう。保護者が知らなくても実際に書いた子供は頭にインプットしているのです。それが十年後、二十年後、彷彿と顕現してくるのです。
その一寸した言葉が、頭の栄養となり、やがて強固な精神を培養する媒体となるのです。物事を冷静に判断し、ここだ、と思う時は果敢に挑戦する、そういう気概が健康保持と長生きに繋がるのです。これらは今時云うサプリメント以上の効果があると存じます。