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トッシーです。今日もありがとうございます。
いよいよ11月。あ~、もう10ヶ月も経っているんだぁ~という感じですね。あの日から・・・。
数日前のことです。masaに乗せてもらった車の中で、スマホを操作し始めてすぐに気分が悪くなり、即中止したことがあります。以前にも多少はこんな経験あったのですが、脳出血後はこうなり易いのか、かなり長い時間気分の悪さが続きました。
目的地についても気分がすぐれないまま車から出たものの、トイレで見た顔色もいつもと違って見え、ちょっと不安に襲われました。どうしても、あの時のことが蘇るのです・・・。
結局、横になり、ちょっと休んだら気分スッキリ。ものすごく重く感じていた麻痺のある右足も、随分良くなっているように感じられ、先ずはホッと一安心しました。
脳出血で倒れて以降、こんなことがあると、ものすごく不安に襲われます。特に寒くなって来ると、ちょっとした体の異変にも敏感に反応するようになりました。それがいい方に思うのではなく、どうしても悪い方悪い方へと意識が向けられるんですね。あの日も寒かったので、余計に・・・。
でも、そういった意識がますます気分を暗くし、体を悪くするんですよね。
ハハハァ~と楽しく笑っていたら、きっとそんなふうにならないのに。最近、「病は気から」ということが科学的に証明されたそうですよ。
意識をどこへ向かわせるのか、とにかく、余計な心配をして不安に思わないことですよね~。
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不安をなくそうとするから、ますます不安になる。
(中略)
しかし、不安とはいったい何なんでしょう。
インドから中国に禅宗を伝えた達磨大師と弟子の慧可のあいだの、こんな逸話が伝わっています。
慧可が達磨大師のもとにやってきて、「わがために心を安んぜよ」と言います。心に不安ばかりがきざして、少しも安らかになれないから、自分のために心を安らかにしてください、というわけです。
達磨大師はこう答えるんですね。「心を持ちきたれ、汝がために安んぜん」。だったら、おまえの心を持ってきなさい、そうしたら安らかにしてやろう、ということです。
慧可は答えに窮してしまう。心を持ってこいと言われても、持っていけるわけもない。そこで、こんな答えをするんです。「心を求むるに得べからず」。探したけれど、心はどこにもありません。
すると、達磨大師は慧可にこう告げるわけです。
「汝がために心を安んじ終わりぬ」。
おまえの心を安らかにしてあげたよ、ということですね。いくら探したところで不安はどこにも見つからないことがわかったら、それが安心ということなのだ、というのが達磨大師の言わんとするところです。
不安、不安というが、不安なんてものはどこにもないんです。不安がる心が、勝手につくり出しているだけです。言ってみたら、幽霊みたいなもんですね。怖がらなければ幽霊など見ることはない。怖がるから出てくるんです。
(中略)
みなさんが抱えている不安も、どうってことはないんです。リストラされたら、親の介護をすることになったら・・・と脅える心がつくり出しているにすぎない。そして、勝手にそれを膨れ上がらせているんですね。
よく考えてみてください。リストラが不安だという人は、実際にはリストラされていないわけでしょう。親の介護が不安だという人も、現実には介護をしていないわけです。不安を持ったらリストラを免れる、親の介護の不安が消えてなくなる、というのならまだしも、そんなことは絶対にないんです。
不安を持とうが持つまいが、ものごとはすべて「なるようにしかならない」んですね。だったら、リストラされたときにどう生きるかを考えるしかない、介護が現実のものになったときに、どう向き合っていくかを考えるしかないんです。
ひろ さちや著「『ずぼら』人生論」より
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この項の最後にも書いてありましたが、ドリス・デイが唄う、「ケ・セラ・セラ」という曲がありますね。意味は、「なるようになる」というのだそうです。
いつでも、「なるようになる」と思って、生きていきたいですよね~。
https://www.youtube.com/watch?v=oVGgJXjjhFc
トッシーで~す。今日もありがとうございま~す。
🎵 ケ・セラ・セラ~、なるようになる~・・・。
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