toshiです。いつもありがとうございます。
数日後に母の3回忌法要を行わせていただくため、ここんとこ時間を見つけてはちょこちょこと準備をしています。
お墓や家の周り、畑など、きれいにしたい所はいっぱいあるのですが、まっ、実際に何とかできるのは、家の中で、来ていただく皆さんが通られる場所ぐらいに終わりそうです。(笑)
外回りは、窓ガラス、元気になりだした雑草引き・・・。
これぐらいできればよい方でしょうね。
「じゃ、何でもっと早くやらないの?」 でしょ?
それが出来れば、何もこんなこと、ブログで書かないですよね~。(笑)
ちょっと前のブログで、「ぎりぎりに追い込まれて・・・」とかいう言葉に共感しました、ということを書かせていただきましたね。
実はこの頃、いろんな行事が重なっていて、準備する時間がなかなか取れなくて、それで追い込まれていたんですね。
今年は4月からいろんな役が回ってきており、この3月は引き継ぎなども含めると、本当に多いんです。
勿論笑いヨガは通常通り組み込んであるため、心理的にもちょっと追い込まれていたようです。
でも、こういう時こそ、心落ち着けて行動することが必要なんでしょうね。
どうせ、出来るようにしかできないのですからねぇ~!(笑)
「心配するな、楽しめ!」 で行きましょう!
仏壇を掃除していた時、引き出しの中で見つけた小冊子に書かれていた記事が目に留まりました。
それが、今日のタイトルにある言葉でした。
今日はこれをご紹介させていただきます。
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「凡小」 という言葉が仏教にあります。人間は弱くて小さい存在であるという意味です。弱くてすぐくじけて孤独を感じ涙する私たちの姿そのままを言い当ててくださる言葉です。私たちは小さい存在なのに、大きく振舞おうとします。欲望から生まれる虚飾の姿。この虚飾の姿を自分だと思い込み、虚飾の自分を演じるのです。
本当はコンプレックスいっぱいの私です。そのい私が背伸びをして歯を食いしばっているのです。頑張れば頑張るほど苦しくてたまらない。「私だけが弱い」 と思い込んで、目に映るすべてのものは自分より立派で強いように思います。「なんとかせねばならない」 と自分にムチを打ちます。そして心に厚いバリケードを作って自分を守ろうとしますが、気がつくと独りぼっちの自分がいるばかりです。
そんな私たちに仏さまは、コンプレックスいっぱいの自分、涙や悲しみで萎えてしまう自分を、それがまちがいなくあなたですよと、「凡小」 という言葉で教えてくださっているのです。なぜ悲しみ、他を傷つけずにはおれないのか。一生懸命に生きようとすると、必ず萎えてしまう心が生まれてきます。しかし、この萎えてしまう心こそ 「凡小」 であることの証であるし、宝物だと仏さまは教えてくださるのです。互いに萎える心で生きている 「凡小」 であると知るゆえに、他の人の心を受け取り支え合うことができる。そしてそれが仏さまから賜る絆であり優しさであると思うのです。
ですから、「凡小」 という言葉は仏さまの愛(慈悲)の言葉です。「虚飾」 を演じなくてもいいのだよ。ありのままの自分に還りなさい。肩に力を入れる必要もないのだよ。心のバリケードもいらない。涙するあなたこそ自然のあなたではないか。苦しいのに悲しいのに強そうに振る舞うことの方が不自然。ありのままの自分を正直に生きてください」 と。(以下省略)
「真宗の生活」(東本願寺)より
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今日の午後、自治会の役の実質的な引き継ぎを行いました。
つい先日も別の役で大きな荷物が我が家にやってまいりましたが、またまた大きな荷物が増えちゃいましたね。(笑)
急に仲間入りしたこれらの荷物を収納するスペースを確保しながら、4月1日の法要に向けて部屋の掃除を進めることになりました。
準備、ちゃんとできるかなぁ~?
大丈夫、できるよ!
そうだよね。できるよね。
いつも言ってるでしょ。
「できると思えばできる!」って・・・。(笑)
「心配するな、楽しめ!」 ですよね~!
これで行かなきゃあねぇ~!
いつもお読みいただき、ありがとうございま~す!(toshi)