毎日のできごとの反省

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日本統治論

2015-10-19 12:46:49 | 歴史

 天皇は日本人の精神を体現したもの御方である。だから権威の賦与者である。初期は天皇ご自身が部族の長であって、政治と軍事を司っていた時代があり、現在天皇の諡号がある御方にもそのような人物がいたのである。だが、生前のにおいて天皇と呼ばれるようになってからは、既に親政は行われず、前述のような権威の賦与者となっていたのであろう。例外のひとりは後醍醐天皇である。

 従って、天皇は国策の決定者ではない。大統領ではないのである。現実に日露戦争も大東亜戦争も、開戦は天皇の御意思に反していたと考えられている。ところで「明治維新という過ち」という本で、孝明天皇その人が討幕どころか、「尊王佐幕派」であったので、この人がいる限り武力討幕はできなくなる、として、薩長による天皇暗殺の可能性を示唆している。孝明天皇弑逆説は案外根強いのである。

 なるほど、孝明天皇が佐幕の意思を明確にしていて、それを実行しようとしていた、とするならば、天皇が邪魔である、という考えをするものがいても不思議ではない。だが、天皇ご自身が国策を実行する一種の親政は、後醍醐天皇のように例外であり、当時すでに天皇のあり方としてはおかしいのである。過去にも、平氏は安徳天皇を奉じていたが、源氏は後白河上皇に平家討伐の許可を得て、平家を滅ぼし、安徳天皇は入水して崩御された。

 この時本格的に武家政権が登場して、徳川幕府もその系譜に属する。孝明天皇のご意思に反する薩長の討幕が正統性を欠く、というなら、それ以前に武家政権は出発の鎌倉幕府で既に正統性を欠いていることになる。やはり天皇は政策に関与しない、というのが明治以前でも日本の憲政(明文化はされていないが)の常道となっていたというべきである。

 開戦の決定は国策だから、天皇が御決定になることではなかった。しかし、終戦時点においては、日本民族が滅びるか否かの状況に追い込まれていた。日本民族は滅びてはならないという、日本人の精神を体現した天皇が、敗戦を受け入れる決定をした、ということは究極的には、国策の決定ではないと言っていい。二二六事件の討伐の指示については、昭和天皇ご自身が政治に関与したことを悔いておられる。それと反乱軍討伐の判断が正しかった、ということとは別なのである。

 二二六事件の首謀者は君側の奸排除などと、天皇親政のごときことをも言ってはいるが、結局は親政の具体的アイデアがあったわけではなく、政党や財閥の腐敗を正し、農民など庶民の貧窮を助けることができる内閣を求めていただけであろうと思う。

 天皇や皇室というのは誠に微妙なシステムであり、時の政権に権威を賦与する、と言ってもその方法や決定には難しいものがある。実際の政治は幕府に任せたはずなのに、開国の勅許がない、といって井伊直弼は非難されたし、源氏は天皇を擁する平氏を攻めたのである。結局天皇は政権奪取というような政治には関与せず、成立した政権に正統性を与えるだけであった。天皇陛下の御希望は、国家国民の安寧というより他ない。そのようなことができる政権を正統と認めるのである。政治は結果論である。

 前出の「明治維新という過ち」では、幕府の改革によって、スイスやスェーデンのような良い国家になる可能性があり、薩長閥に支配された明治政府とその後継者は、吉田松陰の語る侵略戦争に邁進する、という間違いを犯した、というのであるが、このことについては、それ以上書かれていないので具体的に評価できない。

 一般論として言えるのは、明治から昭和まで戦争に明け暮れた日本は、侵略戦争をしたのではない。それは大東亜戦争肯定論や、西尾幹二氏の説のとおりである。また、アジア諸地域を欧米の植民地として残して、日本だけが安泰な国家として生きながらえられるとも思えないし、その道を目指すのが正しいとも思えないのである。これについては別に論ずる。