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書評「戦後」を克服すべし・長谷川三千子。國民會叢書八十九

2015-10-18 12:56:23 | GHQ

 何とも意外だったのは、厚さ五ミリになるかならないかの薄い冊子だったことである。昭和二十一年の「年頭詔書」、いわゆる人間宣言、についての講演録である。長谷川氏にしては珍しく現代仮名遣いである。なるほど日本国憲法は、GHQが草案を作り、日本側が翻訳しても、気に入らなければ直させる、という到底一国の憲法とは言えないものである(P3)。

 ところが、詔書の方は微妙で、GHQは天皇への絶対的な信頼を崩すために、天皇ご自身から神格を否定する詔書を出させたい、という意向を政府に伝える。(P9)すると、命令の書類もないにも拘わらず、教育勅語の廃止と同様に日本側は抵抗するどころか、GHQの意向を忖度して、内閣が作業をしてしまう、という情けない顛末なのである。

 天皇陛下ご自身のご見解を「民間人の言い方で言い直すなら『神格の問題についてはあの詔書は全くダメでした。だから私なりの修正として五箇条の御誓文の追加を指示しました』ということになる。(P19)」。つまり、間違っていると否定することは、天皇のお立場としては、してはならぬので、文の追加の指示によって実質的に間違いを直そうとしたのである。

 西洋流の民主主義は上と下が争うものだが、日本型民主主義では上と下とが心を一つにして政治と経済の活動に励む、というのだが、その国体を表現したものが、五箇条の御誓文であるということである。(P25)

 ところが、「天皇ヲ以テ現人神トシ・・・」と続く神格の否定の部分がまずい、というのである。現人神とは一神教の絶対神ではない。かといって単なる人ではない。かの吉本隆明が想い出話を語って「私はとにかく家族のため、祖国のために死ぬというのは、これは中途半端だと思った。しかし生き神様のためなら命を捧げられると思って戦争中を過ごしていた」と語った(P27)のだが、生き神様こそが伝統的な言葉で「現人神」というのである。

 天皇が現人神である、というのが詔書のように「架空の観念」だとしてしまえば、吉本少年の生き方は架空の観念によるものに過ぎない、ということになってしまう。結局、神という言葉を、日本にないGodと言う言葉と混同したことによるものである。著者は、この間違いは、幣原喜重郎の英文草稿のdevineと言う言葉に発していると言う。

devineとは「神的な・神の」とは訳すが、西洋人の感覚では人間と一神教の神とは別なものである。だから明確にGodと書いて「天皇を以て絶対神とし・・・」と訳せばよかったのである。たしかにそうすれば、国民が天皇を生き神様でないと言われてしまった、と誤解することもなく、GHQにしても唯一絶対神以外に神はいないのだから、納得したであろう。

長谷川氏は、結論を導くのに旧約聖書の話を持ち出しているのだが、長いので引用せず、結論だけ要約する。西洋の神様は人間に命を差し出すよう要求する。しかし日本の神々はそんなことはしない。しかし、「大君の辺にこそ死なめ」と自分で犠牲になる。戦争で多くの人が死に、終戦の時、国民が死の決意を固めていた。それを受け取るのを天皇陛下は拒否したのではなく、気持ちは確かに受け取った。

だから「いくさとめにけり身はいかにならむとも」とご自身の命を投げ出すこともいとわなかった。「それが『終戦』の意味なのです」(P39)と言う。三島由紀夫の書いたように、人間宣言を聞いて英霊が「などてすめらぎは人間となりたまいし」と質問したら、答えは「人間であるからこそ、朕は命を投げ出すということが可能になった」とお答えになるのだろうというのである。

絶対神は自分の命を投げ出すことができない。ところが日本の神はできる。確かに記紀でも神々は死んでいる。だから前述のように、この詔書はとんでもない間違いがある、と同時に敗戦後の日本の大逆転の可能性をも秘めている、というのが著者の結論である。ということでこの本のタイトルにつながるのである。相変わらず長谷川氏は、深読みの得意な人である。だからこの書評も充分に著者の意を現してはいない。

ひとつ付言する。東大法学部の出身で、論理的に見るトレーニングをしてきたはずの、三島由紀夫ともあろうものが何故「などてすめらぎは人間となりたまいし」と誤解して怒ったのだろう、というのである。長谷川氏は三島が究極的には、人間宣言に怒っているのではなく、本当の意味は分かっているのだ、という。

だが、東大法学部の出身で、論理的に見るトレーニングをしてきた人間が、物事を正確に把握できるはず、ということ自体がおかしいのである。東大法学部の出身であるから、ということはどうでもよい。論理的に見るトレーニングを十二分にしてきたはずの、多くの左翼人士は、見事にGHQの洗脳にひっかかって、憲法九条を絶対視するなど、多くのとんでもない間違いをしている人たちは珍しくはない。

そもそも論理と言うものは、絶対的真理を必要としない。例えば公理系というのは、仮説の一種であるいくつかの命題を提示するが、これを公理という。それを論理的に展開して作られた世界が公理系である。論理が整合していれば、公理系が成立して定理が導かれる。前提となる「公理」が絶対的に正しいか否かは問題とはならない。だから二乗したら負の数になる、とう虚数の数学の世界も成立するのである。ところが、実世界にはあり得ない虚数の世界を使えば、流体力学その他各種の現象の解析に有効で、航空機の設計をはじめとする色々な、実世界方面に利用できるのである。

人が誤判断するのは、必ずしも論理的に考える能力が劣るからではない。論理構成する前提となる事実に誤りがあることに気づかなければ、誤判断する結果となる。ある書物に書いてある間違ったことを正しい、と信じてしまえば、いくらその後の論理展開が正しくても、間違った結論が導かれるのである。



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