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江戸文明の残滓

2019-01-02 23:40:32 | 歴史

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江戸文明の残滓

 「逝きし世の面影」(渡辺京二・文庫版)を読んでいる。著者は、江戸期に完成した日本文明は、既に日本から消えてなく、歌舞伎等の伝統芸能のようなものに受け継がれているように言われるが、それは残滓ではなく形骸に過ぎず、残っているとさえ言われないようなものだという。筆者の渡辺氏は1930年即ち、昭和5年の京都生まれである。だが大連育ちであったというから、成長期には外国に住んでいたのである。

 だから、氏は知らないだろうが当時の田舎ではまだ、残滓といえるものが多く残っていたであろう。それは私自身の経験の一部でもある。私は、渡辺よりよほど後の戦後生まれであるが、この本の記述で思い出す私の朧げな体験を書いてみたい。都会の通りには、「それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。・・・彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。(P214)」という。

 それこそ、筆、墨、硯など個々の商品だけ単独で、しかし、山のように多種なものを専門的に売っていたというのだ。ということは、その程度のことだけで生計が立てられたということだ、と結論する。そこで私の生家の話をしたい。昭和30年台半ばまでの話が、主である。

 生家は四世代が同居する大家族の専業農家であった。しかも、農業機械などはなく、馬で田圃を耕していたし、それ以外は全て鍬などの農機具による人力作業であった。山羊を飼い、山羊の乳を牛乳のように飲み、山羊の皮を処理して座布団にしていた。山羊の肉も食べたろうが記憶にない。味噌も自前で作っていた。これらは主として祖父がしていたように思う。祖父は無骨だが案外器用で、山羊の皮の処理は父にはできず、祖父がしていた。

 曾祖母は冬になると一日中干し柿造りをしたり、サツマイモを天日に干していも菓子のようなものを作ったりしていた。特産が水菜の漬物で、長く漬けるものだから、暗褐色化して塩辛い代ものだった。母は元気な時は水菜の漬物を作って、結婚した私に送ってくれた。ところがある年から、同じ水菜の漬物でも全く違うものとなった。自分で漬けられなくなり、町で買って送ってきたのである。だから、馴染んだ味ではなく、正直がっかりした。

 曾祖母の仕事は女向きの仕事であったろう。祖母は29歳で病死したから、その仕事の引き継ぎができず、曾祖母が年を取ると女仕事は無くなってしまった。母は曾祖母から家事や家のしきたりなどを教えられたと言うが、結局曾祖母がしていた、干し柿造りなどは引き継がれなくなった。このようにして断絶は起きていった。さらに兄の奥さんは専業主婦ではなく、独身の頃からの仕事を続けていたから、母は女仕事を伝えることができなくなって、断絶は決定的になった。

 その他各種の野菜はほとんどが、糠味噌漬けであったと思う。米主体の農家だったが麦や蕎麦も作り、日本で普通に取れる野菜、胡瓜、白菜、キャベツ、ナス、人参、大根など大抵は自家用であり、市場に出すようになったのは後のことだった。蛋白源は豆類以外は、週一回漁村から来る、40代の女性が自転車に乗せて行商する魚を買っていたのである。

 その女性は、蒸気機関車が急勾配のためスィッチバックをしながら一時間かかるほどの距離の、漁港から通って商売をしていたので、そのルートを自転車に山ほど魚を積んで登っていたのだから今から考えれば驚異的である。その頃は、全くの専業農家であり農繁期以外はごろごろしていたし、雨が降ると農作業は休みである。することがないのである。

 椿の木がたくさんあったので、椿の実をむしろの上に並べて干して皮を向き、種を椿油用として売ったのである。曾祖母は、残った時間は古着を縫っていくらでも雑巾を作って、学校などに寄付して感謝されていた。農閑期も働きたかったのである。

 こんなことを長々と書いたのは、渡辺氏が専門の商品を売るだけで生計が立てられ、しかも商品は自作だ、ということと関係があるように思われるからである。曽祖母の作った干し柿や漬物、祖父の山羊皮のなめしなどは、比較しようがないが年季の入った職人芸だったと思う。祖父と曽祖母は黙々と根気よく、これらの作業をしていたのである。しかも、これらの農業などだけで、生活ができたのである。戦前のことだが、父とその弟は中学まで行った。

 後年父母が農閑期に建設業や缶詰工場に行ったり、野菜造りを増やし積極的に市場に売り出すようになったのを、子供の頃は不可解に思った。それまでは専業農家で暮らせたから、渡辺氏がいうような昔の自給自足の生活だったのである。昭和30代後半から急速に洋化して洋服も買うし、農業機械も導入したから現金が必要になったのである。その証拠は私が学校に行くのに自転車を買ったが、現金は半分で残りは私がリヤカーに野菜を積んで代金にしたのである。工業製品を買うには、現金が不足するから物々交換したのである。

 つまり、洋服、自転車、農機具や洗濯機といったものがなく、手作りのおもちゃで遊んでいた時代なら、現金は農業などで賄える程度しかいらなかった。私は自前でそこまで考えた。しかし、渡辺氏が西洋化や工業化によって日本文明が滅びた、といっているのを読んで得心したのである。私のかつて経験した農業は日本文明崩壊以前の残滓で、昔からの技術の農業や小規模の手工業的なものを家族総出ですれば生活できたのである。

 その他に思い出すのは祭祀である。農地を除いた昔からの家の敷地とおぼしき範囲は、100m×200m位あったはずである。井戸の脇に1か所、臨家の境界に1か所、県道から家の敷地まで150mほどの私道があり、私道から家の敷地に入るところに1か所(馬頭観音)、敷地の東南端に1か所の合計4か所に神様が祀られていた。

 特に東南のものは、鳥居があり無人であるが小屋のある小規模な神社の形をとっていた。鳥居から神社までは数メートルではあるが、参道さえあった。鳥居の脇には、その地方には珍しい大きな銀杏の木が一本あった。馬頭観音には、年一回松明をつけて祈る習慣があった。そこでは松明の下で何らかの祈りがされていたが、記憶がぼやけて単なる松明の明かりの点灯ではないこともしていたとしか、覚えていない。それは祖父が年老いてくると止めた。馬頭観音以外は、水神、土神ともうひとつは風神か火神であったろうが覚えていない。これらの神々には、お供えをする以外に、かつては何らかの祭祀が行われていたと思うが、小生の記憶する時代には絶えていたのだと思う。そのことは、馬頭観音の松明をともして祀る習慣が残っていたことから私が勝手に推察したのである。

 ただ、井戸の脇の祠の石戸をいたずら心に開けると、赤い口を開けた白い狐の像があって、ぞっとしたことがある。私道は早くに市道に召し上げられた。藁葺の家が古くなり建て替えるのに、父が100mも家を移したのは、農地の真ん中に国道建設の計画があったからだと思うが、それらの事情から、神々の祠は居場所が無くなってしまった。

それは既に父が早逝した後で、母だけ残った時代になってからである。父は隣家の親戚に土地を奪われて取り返す算段のストレスで早逝したと噂された。田舎の土地争いは醜い。母は独力で、神々の御神体を、新しい母屋の裏に1か所にまとめてしまった。本来ならば、風水でみたてて、新しい屋敷の敷地に、神々の各々の居場所を定めて祀るべきであったろうが、母にはその知識も気力も無かったし、家を継いだ兄は広い農地を貸すなどして守る事に汲々として祭祀には関心がなかった。というより嫌っていたから当然の結果である。御神体が残っただけましである。家を出て生家に関心もなかった私には、もとよりそれを咎める資格はない。

「逝きし世の面影」にも、「信仰と祭」という章が設けられているが、前記した生家の祭祀は古来どのようなものであったか、ということに対応することは述べられてはいない。西洋人が見た日本の記録から記述されているので、そのような類には観察がいきようもなかったのだろう。だからこの類の文明は、残された祠という形骸だけで、本来の姿はあらゆる記録から消え去っていったのに違いない。もしかすると既に曾祖母の世代の記憶にすら残っていなかったのかも知れない。

 曾祖母は伝えられた習慣や祭祀を守る事には熱心だったからである。しかし、後年の西洋化した私達には、煩わしいものでしかなかった。渡辺氏のいう古い日本文明が滅びた、というのは結局、人々の精神のあり方も西洋化によって変わったことを意味する。

 「逝きし世の面影」の「信仰と祭」という章には、唯一小生の記憶と一致する記録があった。それは「フォーチュンは野仏に捧げられた素朴な信心の姿を伝えている。『神奈川宿の近傍の野面にはたいてい、小さな祠があって、住民はそれに線香をたき、石に刻まれた小さな神に塩や銅貨などのお供えをする。・・・』(P538)」という記述である。そしてオールコックが描いた「道端の祠」という挿絵(P539)は、まさに小生の生家の無人の神社と同じ姿をしているのは小生には感動的であった。

 

 また、本書では、日本の田園風景が庭園のようで、しかも自然そのままではなく、人が念入りに手を入れた美しいものである、と書く。小生の子供のころ住んだ生家の庭には築山があった。メインは金木犀としだれ桜で、築山の中には細い通路があって子供の遊び場になっていた。築山は季節毎に咲く草花でおおわれていた。隣家との境には長い距離にわたって椿があった。

畑の真ん中には柿が何本も植えられたスペースがあったし、柿の木は他にも畑の角々に植えられていた。20m四方の竹を主とした雑木林があった。これらの植物は全て自然のものではなく、人工に造成したものであるのは間違いない。渡辺氏の記述した風景が昭和30年代まであったのである。ただし、それが西洋人が見て美的に感じるものであったかだけが確信がない。

前掲書の記述と小生の記憶と一致するものと一致しないものをいくつか追加する。祖父は滅多に怒らない人だったが、軽い気持ちで「畜生」といったとき「そんなことは言うもんじゃない」という意味のことを言って激しく怒ったのを不可解に思ったが「馬鹿と畜生という言葉が、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限だ。(P167)」ということと一致する。私にはない語感を祖父は持っていたのである。「このころは『女でもいばっている人』は、自分のことを『おれ』というのは珍しくなかったと断っている。江戸の庶民に、男言葉と女言葉の差がほとんどなかった(P371)」という。曾祖母は間違いなく、「おれ」と言っていたし、男言葉との区別がなかったように思う。母も自分のことを「あたし」などと女言葉を使ったことは考えられない。小生の生家は、東京から遠くない横浜言葉に似た訛りのある田舎町だったが、江戸言葉の影響は他にもみられる。

農耕馬として、馬を飼っていたが、乗馬の習慣はなくいことは、前掲書の記述と一致する。西部劇を見た私は乗馬風景を見たかったのである。日本の「猫は鼠を取るのはごく下手だが、ごく怠け者のくせに人に甘えるだけは達者である(P483)」というのだが、生家で飼っていた猫は代々、鼠を取るためということだったが、実際に鼠捕りに役立っていたかは怪しい。しかも耕運機を買って馬を売った日、最後の飼葉をあげていたから、動物に愛情が深かったのも本当である。

全般的に、当時の日本人は陽気でよく笑い、外国人にも平気で話しかける、と書かれているが、この点は私の常識とも一般的日本人観とも大きく異なる。ただ、母の実家の親族たちは陽気で人見知りしないたちだった。小生の兄弟は母方の従兄に、おまえんちは、外で遊ばない、と冷やかされた記憶がある。私が唯一持っている古い家族写真では、祖父は鍬を持って上半身裸の祖父が写っているから、労働する日本人は裸で平気であった、というのもその通りであった。以上のように、前掲書に書かれたかつての日本人の姿は、私の幼い記憶にとって全く意外、というわけではない。

渡辺氏は「・・・意図するのは、古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕ではない。(P65)」と断言する。それは、単に意図がそうではない、と否定するばかりではない。そもそも、古きよき日本が戦後にも残っていたのにせよ、なかったにせよ、そのような時代の記憶が渡辺氏になければ、愛惜や追慕は生じようもないのである。大陸に育った渡辺氏とは異なり、私は、前述のように確かに過去の日本の残影を見たのである。それは「良き日本」であったとは思えない。しかし、愛惜と追慕の念は微かにある、と言っておきたい。


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