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書評・古事記及び日本書紀の研究・津田左右吉

2018-08-15 12:54:38 | 歴史

書評・古事記及び日本書紀の研究・津田左右吉

 うかつであった。研究と題している通りの研究書である。従って両書を通読したこともなく、散漫な知識しかない小生が読める代物ではなかったのである。それでも方法論のところには、素人でも理解できる考え方があったので、それだけ紹介する。

 「総論」の一の研究の目的とその方法にこうある。

 「・・・まず何よりも本文をそのことばのまま文字のままに誠実に読み取る必要がある。・・・神がタカマノハラに行ったり来たりせられたとあるならば、その通りに天に上ったり天から下りたりせられたことと思わなければならぬ。・・・草木がものをいうとあらば、それはその通りに草木がものをいうことであり、ヤマタノヲロチやヤタガラスは、どこまでも蛇や烏である。・・・」(P51)というのである。

 「しかるに世間には今日もなお往々、タカマノハラとはわれわれの民族の故郷たる海外のどこかの地方のことであると考え・・・」るのは「本文には少しもそんな意味はあらわれていず、どこにもそんなことは書いていない。それをこと説くのは、一種の成心、一種の独断的臆見をもって、本文をほしいままに改作して読むからである。」

 どうしてそんなことがおきたかと言えば、物語が不合理だから、強引に合理的に解釈した、というのが根本的理由である、というのだがその通りであろう。この類には新井白石らがいる。後代からみれば不合理な記述がある、というのには「・・・鳥や獣や草木がものをいうとせられたり、・・・人が動物の子であるとせられたりするのは、今日の人にとっては極めて非合理であるが、未開人にとっては合理的であったのである。けれどもそれは未開人の心理的事実であって、実際上の事実ではない。上代でも、草や木がものをいい鳥や獣が人類を生む事実はあり得ない。ただ未開人がそう思っていたということが事実である。だからわれわれは、そういう話を聞いてそこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうしていかなる心理によってそう思われていたかを研究すべきである。」

 「また人の思想は、その時代の風習、その時代の種々の社会状態、生活状態によってつくり出される。したがってそういう状態、そういう風習のなくなった後世において、上代の風習、またその風習から作り出された物語を見ると、不思議に思われ、非合理と考えられる。」

 このような津田の考え方は、ある意味素人にも納得できる。だが実際このような立場からの研究がいかなる結論となるのか、素人の小生には本書から読み解くことができない。ただ現代人が合理的事実と考えていることも、津田の論理を演繹すれば、現代人の心理や風習に基づくものであり、千年二千年後には未開人の非合理的なものと言われるようになるかもしれないのである。

 小生は旧約聖書の物語なども、古事記日本書紀の神代に類するものであろうと考えるが、キリスト教徒の立場は津田とは違うようである。書かれていることは現代においても事実と認めよ、というのである。現にキリスト教では奇跡を見た、ということに関しては認定の手続きが決められていて、現代でも聖書で書かれた奇跡は、そのまま起こり得るらしいのである。



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