毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

創氏改名

2019-07-21 16:52:30 | 歴史

 山本七平氏に「洪思翊中将の処刑」という著書がある。朝鮮人の日本陸軍軍人の物語である。この名前を見て不思議に思わないだろうか。当時日本では朝鮮や台湾に創氏改名を強制したと巷間では騒ぐ人士が多い。

 しかしそれならばこの名前は何であろうか。しかも陸軍の将軍が朝鮮名である。洪中将は陸軍大学の同期のトップグループで中将に昇進している。だから彼の同期で大将はいないのである。当時黒人は劣等人種だから将校になることはおろか、武器さえ持たせてもらえず、物資輸送や調理などにもっぱら使われていた米軍とは正反対である。

 それならば洪中将は創氏改名はしていなかったのか。正確にいえば創氏はしていたが改名はしていなかった。誤解されているが、創氏とは日本風な苗字をつけるという意味ではない。朝鮮や中国のファミリーネームは姓である。正確に言えば姓はファミリーネームではないがとりあえずこうたとえる。

 姓は結婚しても変わらない。血族のファミリーネームを引き継ぐのである。例えば蒋介石の妻は宋美麗である。日本では欧米と同じく結婚すると夫婦は同じファミリーネームにする。本当の意味のファミリーネームであろう。嫁は家に入るのである。家族の絆が近代社会の要件であると考えた日本は創氏を朝鮮と台湾で行った。

 現在の洪という名前を氏として登録する。するとその妻も洪という氏を名乗ることにする。ただし戸籍には妻の元の姓は保存記録されている。例えば金氏が金田という日本風な氏を望めば、金田という氏を名乗ることができるが、金という姓は戸籍に残る。

 洪中将の場合は日本風な名前を申請せずに放置したために、自動的に洪という姓を家族の氏(ファミリーネーム)としても、そのまま当局が勝手に登録したのである。つまり洪氏は自動的に創氏されていたのである。改名の方は強制ではなかったから、日本風な名前を欲しいものだけが申請して改名された。

 創氏改名の動機は当時満洲や外国に進出していた朝鮮系の人たちが日本風名前の方が商売など仕事に有利だというので、改名の要望が多かったからである。従って改名した者は当然、氏も日本風なものが欲しかったために、氏名ともに改めてしまったのである。

 従って洪中将のように名前を変えないものは氏も新たに作ることはないから朝鮮名が全て保持されたように思われるが、創氏は行なわれたのである。ちなみに同化や民度の相違ということで朝鮮では改名は申請だけで済んだが、台湾では許可制で必ずしも認められなかった。洪中将の例の様に日本風に名前を改めなくても陸軍は差別しなかった。それどころか優秀だというので陸軍大学の同期で最初に中将にする位公平だったのである。小生の父は、陸軍軍人として出征した。口癖に「軍隊は金持ちも貧乏人もない、公平なところだ」と言った。貧富ばかりではなく、民族差別もなかったのである。

 私事だが平成5年に不思議な体験をした。米国出張の際にシカゴのホテルで、トラベラーズチェックを現金に換える際に30歳過ぎ位の東洋系の女性のキャッシャーがトラベラーズチェックを見ると、あなたのファーストネームは「トミオ」かと聞いてきた。会話はもちろん英語である。トラベラーズチェックには真似されないようにわざと漢字で書いてあったから漢字を読めるのに違いないと思い、日本人かと聞き返した。

 すると彼女の父の名前もトミオと言い、台湾出身だと答えた。会話はそれで終わった。その時は何も気づかなかったが、考え直すと奇妙である。彼女は台湾出身なのに漢字の「富雄」をトミオと日本風に読めたのである。年齢からして彼女の父は戦前生まれである。そして父は娘にトミオという日本読みを教えていたのてはなかろうかと思うのである。そのことにとっさに気付いていればもう少し事情を聞けたのに後の祭りであった。

 ちなみに、台湾系日本人(帰化人)の黄文雄氏は、戦前生まれで、親は、文雄を日本風につけたのだろうと小生は推測している。

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書評・プーチンとロシア革命・百年の蹉跌・遠藤良介

2019-07-09 22:30:38 | 歴史

 この本で感じるのは、民族の性格と言うものは、100年や200年では変わりようがないから、国家の性格は外見が変わろうと実質は変わらない、という当たり前の事を思い知らされた、ということである。このことは共産党独裁の中共にしても大同小異だということである。支那に勃興する王朝は、常にそれまでを清算して一から始めるから、進歩はない。中共は、清朝の領土を引き継いだ上に、それまでになかった、言語や宗教の抹殺を始めたから、それまでの王朝より悪くなった。漢族には近代はなく、古代しかない。

 閑話休題。本書は1905年の第一次ロシア革命からプーチン政権までの変遷の経緯を、今日の目から見て、詳細に論じている、といってよかろう。ところどころにプーチンとの比較もちらつかせている。小生が得た最大の教訓は同時代に生きていたからといって、かえって見えないものがある、ということである。

 小生は、ソ連についてブレジネフ末期から、ゴルバチョフ改革とその失敗までを、同時代に関心を持って過ごした。ところが、ゴルバチョフ改革が本当は何であったか、ということは結局分からなかったし、ゴルバチョフの失脚とエリツィン登場と、プーチンへの政権移行、という過程は、同時代人としては複雑怪奇で分からなかった、と告白する。

 当時はソ連が「大好き」だった朝日ばかりではなく、反対の産経新聞も克明に読んでいたつもりだったからなおさら情けない。ブレジネフの停滞と言う評価は今も変わらない。しかし、ゴルバチョフ改革は嘘で、ソ連を維持しつつ西側から経済協力を得る、という騙しのテクニックだと完全に疑っていたのである。

それは半分正しく、半分間違っていた。本書が指摘するのは、ゴルバチョフの目指すのは部分的な政治経済改革で、ソ連を少しばかりゆるやかな連合にして、イスラム系などの少数民族の不満を和らげて、ソ連自体は維持しようとしたということである。この改革は結局は、完全にソ連体制を維持しようとする勢力のクーデターにより阻止され、ゴルバチョフは軟禁されたが、エリツィンによって解放された。

エリツィンの目指すのは、形式的には欧米流議会制と、直接選挙による大統領制であった。これは改革と呼ぶに相応しい。しかし、エリツィンの意図はどうであろうと、後継をプーチンを首相として指名することによって、ロシアの政治はロシア帝国やソ連の強権独裁政治に先祖返りしつつある、というのだ。

次に第一次ロシア革命から、プーチンの登場までの間に起きた変革ないし、革命は民衆の支持はあったものの、民衆自身が起こしたものではない、ということである。第一次ロシア革命は民衆の請願行進への弾圧によって起こった「血の日曜日事件」がきっかけであったが、あえなく失敗した。

1907年の2月革命は革命のプロによって行われ一応は成功した。しかし穏健なメンシェビキは、過激なボリシェビキによって倒され10月革命が起り、ニコライ二世一家を惨殺して、ソ連に至る革命は成就された。帝政に不満を持つ民衆の暴動は2月革命を支持したし、メンシェビキを倒すボリシェビキの方を支持したのも民衆であった。

ブレジネフの停滞に不満を持つ民衆はゴルバチョフを支持したし、イスラム系民族の暴動も改革の後押しをした。エリツィンによるソ連崩壊のきっかけを作ったのも民衆の支持だった。だからゴルバチョフはエリツィンによって助けられたのである。

しかし、後継に選ばれたプーチンの強権政治を支持したのは、ソ連時代を懐かしむ民衆であった。プーチンの強権政治を批判するジャーナリストたちは一部であって、結局はプーチンによって次々と抹殺されていった。これらの過程で共通するのは、民衆は傍観者であって当事者ではない、ということである。ロシアの民族的性格は、そう長くもないプーチンなきあとの、後継体制がどのようなものになるかによって明瞭になる。

 


荒れ野の40年は謝罪ではない

2019-07-02 15:28:42 | 歴史

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◎ドイツ民族には罪がなく、悪いのはヒトラーだけ

 左翼の人士が日本は過去の歴史について比較して、日本は謝罪していないが、ドイツは謝罪していると常に引き合いに出すのが、元西独大統領、ヴァイツゼッカーの演説「荒れ野の40年」である。ところが岩波ブックレット版で仔細にチェックした結論は、実は謝罪などはしておらずドイツ民族の弁明である事が分かる。つまりヴァイツゼッカーが意図した「謝罪しているふりをしながら何も謝罪しない」という事に見事に引っかかったのである。いや引っかかった振りをして日本を糾弾する愚かな人たちである。
 第一にこの演説には謝罪するとか申し訳ないとかいうように、明白に謝罪を意味する言葉はただのひとつも使われていないのである。それだけでも謝罪していないと言う明白な証拠である。だからこの演説によって謝罪に伴う新たな賠償が発生する事はなかった
 全部を通じての特徴はドイツ帝国が行った「悪事」を全てヒトラー個人の責任にしている事である。最大の悪事とされるユダヤ人種の抹殺についてすら「この犯罪に手を下したのは少数です。公けの目にはふれないようになっていたのであります。」と断言する。ホロコーストですら、ドイツ国民は何も知らずヒトラーと取り巻きの少数の悪人の犯罪だ、と言ってのけるのである。
 そして「一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。」とさえ言う。地下鉄サリン事件は麻原をボスとするオウムの人たちの犯罪であって、日本民族は関係ない、という論理と同じある。ヒトラーを国内犯罪者の一人として追及しているのに過ぎないのだ。
 「今日の人口の大部分はあの当時子供だったか、まだ生まれていませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。」とも言う。
 ほとんどのドイツ人に罪がないばかりではなく、ドイツ人に罪を認めよなどと言う外国人は人間の情けの欠落した人であるとすら抗議しているのだ。そう自己主張するのは都合が悪いのは充分承知している。だから「罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けなければなりません。全員が過去からの帰結に関りっており、過去に対する責任を負わされているのであります。」と言ってみせる。
 ドイツ人は罪がないが、ヒトラーたちの犯罪に対する責任は引き受けてやるというのだ。罪を犯してもいないものが、その責任をとると言うのは謙虚に聞こえるが、自分たちは罪がないと言っているのだから、責任を取ってあげるほどの善人だという傲慢さが隠れている。なぜなら罪がないなら責任を取る必要はないからだ。責任を取るというのはドイツがナチスの被害者に対して個人補償している事をいっているのであろう。
 ところがこの本の解説では、次のような事を村上という日本人の大学教授によって書かれているのだ。

 たとえばわが国の「教科書問題」その他においても明らかになったように、国や民族の罪責は、威信や面子のために覆い隠されるのがふつうである。・・・ヴァイツゼッカー大統領の、この無防備ともいえる(それだけに一層心にしみる)率直さはどこから来たのか。

と書く。この人の読解力はどうなっているのだろうか。ヴァイツゼッカーははっきりと、一民族に全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません、とドイツ民族の罪を否定しているのに。無防備どころがドイツ民族をホロコーストの罪の責任から防備しようとしているのは明瞭ではないか。ドイツは謝罪していると言う絶対的な先入観念に囚われると、こうも間違ったことを平気で言えるものなのだろうか。

謝るとは言わない、ただ思い浮かべるだけ
・・・ドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人を思い浮かべます。・・・から始まって、戦いに苦しんだ全ての民族、虐殺された人々、銃殺された人質、レジスタンスの犠牲者、などをあげて、これらの人たちに「思い浮かべます」と言っているのに過ぎない。これらの人たちに「謝罪する」とは決して言わない。
 思い浮かべるだけなのだ。それに対して、済まないとか悲惨だとか具体的に、どう思うかは絶対に言わないのだ。それどころか、これらの犠牲者のうちにドイツ人も入っているとさえ言っている。そしてドイツ人だけに対しては、単に思い浮かべるのではない。

 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で、捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。
 ドイツ人としては、市民としての、軍人としての、そして信仰にもとづいてのドイツのレジスタンス、労働者や労働組合のレジスタンス・・・これらのレジスタンスの犠牲者を思い浮かべ、敬意を表します。

 つまり外国人に対しては単に思い浮かべるのに過ぎないのに、ドイツ人には悲しみや敬意という感情を持って思い浮かべるというのだ。何という自国民だけに対する贔屓であろう。何とホロコーストの犠牲者に対しては何の感情も表明しないのにドイツ人には最大限の同情を表明している。なんという事だろう虐殺されたユダヤ人に対して哀悼の意さえ表明しないとはどういうことだ。思い浮かべる、と言うのは最大限の表現だと、かの教授なら言うかもしれない。それならば、同胞に限って、哀しみのうちに思い浮かべる、などと余計な形容詞を付ける必要はないのだ。
 この演説には「ナチスの悪事」に対するコメントは必ず「思い浮かべる」とか「心に刻む」という言葉が使われているのが特徴である。これらは単に記憶している、という事実を言っているのであって、それに対する何の感情も表明してはいない。謝罪どころか遺憾であるとさえ言わないのである。
 ドイツ人は論理的な民族であると言われる。だからヴァイツゼッカーの言葉はこのように論理的に解釈すべきなのだ。聞いた国民もそのように正確に解釈したのに違いないのである。
 唯一罪を認めている箇所がある。

・・・第二次大戦勃発についてのドイツの罪責が濠も軽減されることはありません。

 第二次大戦が起きたのはドイツが悪いと言っているのだ。せいぜいそれだけなのである。戦争による犠牲に対してドイツが悪いとは言わない。その事は、色々な犠牲者を例示する時に必ずドイツ人の犠牲者もあげていることからもわかる。そして開戦の罪があるといいながら、独ソ不可侵条約に言及して、きちんとソ連も一緒にポーランド侵攻を行ったと、ソ連を非難する事を言っている。これは開戦の原因になったポーランド分割について、ソ連にも同等の責任があると、言っている。つまり戦勝国のソ連の責任にも言及している。

◎連合国だって悪い事をしている
 そしてイギリスの一教師の例を挙げる。この教師は英爆撃機に搭乗して、教会と民間住宅を爆撃したとの告白の手紙をこの教会に出して、和睦の証を求めたと言うのだ。つまり戦争ではドイツばかりでなく、連合国も民間人を不法に爆撃するという悪い事をしてるぜ、と言っているのだ。このように相手には容赦なく批判しているのだ。言辞は穏やかだが内容は痛烈である。
 狡猾なのは、他の箇所では言及の対象をドイツ民族とか、ドイツ人とか対象を明瞭にしているのに、唯一罪責と言って罪と責任に言及している箇所では、ここでは国だか民族だかはっきりしない、ドイツとだけ言っている事である。このドイツとは当時のドイツ国家つまりナチスの支配するドイツであるから、結局開戦の罪責もヒトラーにかぶせているのに過ぎない。
 そしてドイツの被害についてもちゃんと言及する。

 何百万ものドイツ人が西への移動を強いられたあと、何百万人のポーランド人が、そして何百万のロシア人が移動してまいりました。いずれも意向を尋ねられることがなく・・・
不正に対しどんな補償をし、それぞれに正当ないい分をかみ合わせたところで、彼らの身の上に加えられたことについての埋合わせをしてあげるわけにいかない人びとなのであります(拍手)。

 これはソ連がポーランド領を奪い、その代わりにポーランドにドイツ領を与えてドイツ人を追放したことを言っている。移動させられたロシア人もポーランド人も被害者だと言うのだろうが、ここでもドイツ人だけが、強いられた、と被害を強調している。この侵略行為をしたソ連の罪は補償できないほど大きいと言っているのだ。そして聴衆からは拍手である。聴衆はソ連の罪をきちんとヴァイツゼッカーがきちんと糾弾したのを理解して、喜びの拍手をしているのである。

◎ヒトラーの悪事の原因は彼を選んだドイツ人ではなく、脆弱な民主主義
 そのヒトラーを民主主義の手続きにより選んだのは、ドイツ国民であった。そして次々と領土を回復しさらに拡大したヒトラーを拍手喝采して迎えたのはドイツ国民であった。しかし演説は、

 脆弱なワイマール期の民主主義にはヒトラーを阻止する力がありませんでした。そしてヨーロッパの西側諸国も無力であり、そのことによってこの宿命的な事態の推移に加担したのですが、チャーチルはこれを「悪意はないが無実とはいいかねる」と評しております。

 という。つまりドイツにあってヒトラーを誕生させ悪事を働かせたのは、ドイツ人ではなく、脆弱な民主主義であると責任転嫁する。反面、チャーチルの言葉を引用して、ヨーロッパ諸国はヒトラーの悪事に間接的に加担したと糾弾するのである。見事な責任転嫁と回避であるではないか。これがどうして自らを悔いるものの言であり得ようか。

◎ドイツ人がユダヤ人を嫌うのは当たり前
 ヴァイツゼッカー演説の最後は実に奇異である。若い人にお願いしたい。他のひとびとに対する敵意や憎悪に駆り立てられることにないようにしていただきたい。と前置きしてひと語りする。敵意や憎悪の対象とはだれだろうか。ロシア人、アメリカ人、ユダヤ人、トルコ人、黒人、白人だと言っているのである。
 つまり今のドイツ人はこれらの人々に悪感情を抱いているというのである。でなければ憎悪するなとドイツ国民に説得する事はありえない。なんとこのなかにはホロコーストの被害者のユダヤ人も含まれている。奇異だと言ったのはその事である。ドイツ民族はユダヤ人を憎悪する理由があると言っている。ヴァイツゼッカーはこれらの人たちに謝罪していると言われるのだが、なぜわざわざ憎悪するなと言うのだろうか。
多くのドイツ人はこれらの人たちを憎悪する理由があると考えているからだ。ヴァイツゼッカーはドイツ人がこれらの人々に憎悪を抱くのは理由のある当然の事だが我慢せよ、と説いているのである。謝罪ならどうして最後に、わざわざこんな事を言わなければならないのだろうか。そしてしめくくりの言葉は「今日五月八日にさいし、能うかぎり真実を直視しようではありませんか。」と言うのだ。
真実を直視することが謝罪する者ばかりにではなく、常に正しい事を行っている者にも言える真実である。つまりヴァイツゼッカーは謝罪しているのではなく、高見に立って教訓をたれているのだ。
 
◎不見識な日本の政治家に比べ、政治家として立派なヴァイツゼッカー
 私はヴァイツゼッカーを非難しているのではない。むしろ政治家として賞賛している。戦後ドイツは侵略とホロコーストのひどい民族として非難にさらされてきた。それに対して、謝罪しているかのような体裁をとりながら、実はドイツ民族の弁明をしているのである。日本の政治家のように一方的に日本の過去を弾劾して得意になっている愚かな者たちと違い、ドイツ民族を狡猾な言辞を持って保護しようとしているのだ。
 ヴァイツゼッカーの深謀遠慮が成功した事は、その後の経過から分かる。村山元首相の謝罪談話はその後も日本を非難する材料として、国内外から蒸し返されるが、ヴァイツゼッカー演説はそのような利用はされていない。しかも愚かな日本人と違い、賢いドイツ国民は、この演説をドイツ非難の言葉として利用する事は皆無である。
 このような狡猾さは、正に危機にある民族の政治家に求められる資質である。愚かな日本の政治家はできるだけ誠実に謝罪しさえすればよいと、小学校の級長さんより愚かな事を考えている。だが現実には謝罪すればするほど日本の立場が悪くなっているのは現実ではないか。この状態が続く限り、日本民族は滅びの道を歩んでいる。ドイツ民族は絶望からの脱出の道を歩んでいる。まさにこの点こそ日本はドイツに見習うべきなのである。

 ドイツは日本と違って謝罪していると主張する人に言う。岩波ブツクレットのヴァイツゼッカーの演説「荒れ野の40年」を子細に読むがよい。


東條英機論考

2019-06-21 22:58:52 | 歴史

◎雑誌「丸」の連載「数学者の新戦争論」(渡部由輝氏筆)の平成30年10月号に「東条英機論」がある。東條英機に対する批判論の典型なので、まずこれについて論じる。揚げ足取りから始める。タイトルの東条からして変である。故意に東条と書かれている。それに筆者の偏見が現れているとしか考えにくい。小生の苗字も旧字が含まれているが、普段は略字で済ますが、役所への書類ばかりではなく、真面目に書くときには略字には絶対にしない。だから筆者は故意に侮蔑感を込めて略字にしているとしか思えないのである。そうでなくても不快である。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、敢えて正字の龍を使わないのは、ノンフィクションではなく、フィクションの小説だからである、と言う説があるがその通りであろう。人物の漢字表記とは、かくも重いものと考える次第である。

 

 タイトルの横に要約が書いてある。曰く。 

 点取り虫で戦闘経験も人望も大局観もなかったと酷評される東条英機首相だが、逆に私利・私欲なかった!

 

 戦闘経験がなかった、と言う点はいいがかりも過ぎる。本人が戦闘に参加することを拒絶したというのならともかく、単に戦場に行く機会がなかったのに過ぎない。東條は主として軍事官僚と政治家としての道を歩んできた。その見識について戦闘経験がなければならない、と言う道理はないのである。

山本五十六は日露戦争で、指を失うという戦闘を経験している。しかし、その結果山本が軍事に対する大局観があったとは言い難い。永年つちかってきた海軍のドクトリンを突如変更して真珠湾攻撃を強行した。装備、編成、訓練、作戦計画は、そのドクトリンに基づいたものだった。変更するなら、それらの装備、編成、訓練、作戦計画を有効活用するものでなければならない。現に米軍は、長い年月練ったオレンジ計画を対日戦の基本としたのである。真珠湾攻撃への批判は最近とみに強まっている。山本は緒戦の大戦果に浮かれた挙句、ドゥリットルの本土爆撃に狼狽して、ミッドウェー作戦を強行して失敗したにも拘わらず、責任をとらないどころか、敗北の秘密を知る兵卒を苛酷な戦場に送り込んで糊塗した。戦場経験がどこに生きているのであろうか。それならば、今の防衛省制服組の幹部は皆無能であるというのか。

本文の批判に入る。努力して勉強して成績が良くなったというのだが、「その努力とはひたすら教科書の内容を暗記することであったらしいから・・」点取り虫であったという。維新前の教養とは、ほとんど四書五経などを丸暗記することから始まる。しかし、吉田松陰らの見識はそれにとどまるものではなかったことはよく知られている。過去の知識は絶対ではない。しかし、先人の経験を吸収することは絶対的に必要である。問題はそこにとどまるか否かである。東條が単なる軍事官僚の域を超える人物であったことは、後で例証する。

渡部氏自身が「戦時における名宰相も教育や修業では作れない。自然に生まれるのを待つしかない。」と書いているではないか。がり勉であろうとなかろうと、名宰相は自然に生まれると言っているのと同然ではないか。かといって、教育や修業はいらない、と言うのではあるまい。渡部氏は桂太郎の軍歴とそれに陶冶された人徳を称賛している。それは是とする。しかし、戦場経験のない人格の陶冶も、戦時における名宰相を生まないとも言えないのである。「自然に生まれるのを待つしかない。」というのはそのことを言っているはずである。

渡部氏は保阪正康氏の「東条さんのためなら・・・」という部下や同僚は全くといっていいほどなかった、という酷評を取り上げている。大東亜戦争の意義を全く認めない、保阪正康氏なら言うであろう。それなら言う。東條の人物を知るためには赤松貞雄氏の「東條秘書官機密日誌」が最適である。赤松氏は、東條さんとの十五年間(P30)という項のはじめに、こう書く。読者に対する注意書きである。

 

「東條さんはすでに歴史上の人物としてクローズアップされ、多くの人によって論ぜられ、今後ともさまざまに発表されるであろう。その発表された内容が果たして真実であるかどうか、私の述べている内容と食い違いがあった場合、果たして私の述べていることに確実性があるや否や、果たしてどちらを信用してよいか、という問題が起るかも知れない。このような場合に、正しく対処したいからである。」

 

として、氏の東條との関係が、昭和三年の氏の青年将校時代から、首相秘書官を経て、東條刑死まで続き、家族以外では東條を最も知る人物であると述べる。ここまで熟考した文章なのである。渡部氏のように、軽薄な人物評価が出ることなどは、予想の上で、信用してくれ、と語りかけるのである。赤松によれば東條は、尊皇・忠誠の人であり、責任感が旺盛で、行政手腕抜群、人情に厚かったと言うのである。何よりも赤松が東條の人物を慕っているのである。保阪正康氏の「東条さんのためなら・・・」という部下や同僚は全くといっていいほどなかった、という酷評は嘘であることは、これで明白である。

この一文の中には、ゴミ箱を見て廻ったことをはじめとする、東條を批判する多くの逸話が語られており、これらが誤解であることを東條の真意を持って逐一説明している。これらのことは同書が、東條がいかなる人物であったかを知る最適なものであることを説明している。小生は同書を東條の事績を例証するためには引用しない。あくまでも人物評である。赤松氏は近くにいただけで、必ずしも東條の見識を示す事績の全てを知っている訳ではないのである。渡部氏はこの書を読んだのであろうか。もし読んだのなら如何なる根拠を持って赤松氏による人物評を覆すと言うのだろうか。読んでいないのなら勉強不足としかいいようがない。軽薄と言う所以である。

なお、同書の題名と本文の見出しには「東條」と正字が使われているのに、本文の文章にはことごとく「東条」とされている。これは、常用漢字を使用しました、と出版社による断りが入っている。発刊当時、既に物故していた赤松氏の本意ではないのである。なお同書の、「はじめに」と「解説に代えて」が半藤一利氏であるのは意外な気がする。しかし、半藤氏の赤松評価は極めて高い。その赤松氏の東條評がかくなるものなのである。残念ながら赤松氏の本は、国会図書館やインターネットを調べる限り、昭和60年の初版以降再版もされなければ、文庫化もされていないようである。小生の蔵書が見つからないので、急いで図書館で借りて再読したが、何と今ではあり得ない図書カード付の古本だった。

 戦場経験もなく、人望もないという説を2ページ近くも費やしておきながら、あげくに渡部氏は「・・・実戦経験など、戦時宰相たる者のそれほどの必要条件ではないかも知れない。人望も絶対の条件ではなかったりするのかも知れない。ときには国民一般や周囲のことごとくが反対しても『千万人といえども我行かん』の気概で押し切るような我の強さも必要だったのかもしれない。」というから呆れる。ただし、それには大局観の裏付けが必要である、というのだ。

東條には大局観がなかったといって例証するのは、「太平洋戦争」では①長期戦は避ける、②英米側につくか、枢軸側につくかの選択である、という。

 

①は石油を米国に八割も頼っている日本が、アメリカと戦争しようとすることが誤っている、というのだ。これほどの誤認はあるまい。しかし、これがすんなり受け入れられるほど、現代日本の常識は狂っている。東條の陸軍は対米戦ではなく、対ソ戦に備えていた。これは現実の問題として必要であり、現にソ連は中国赤化のために、中国自身ばかりではなく米国や日本の中枢にも謀略を仕掛けていた。対ソ戦略は必要なものであり、武備あっての対ソ戦略である。そのために満洲国は、現地住民の支持もあって成立したのである。

 反対に対米戦に備えていたのは海軍の方である。海軍は陸軍のように戦略によってではなく、壊滅したロシア海軍に代わる仮想敵として、建艦予算獲得のために対米艦隊決戦を想定していたのである。だから実は、海軍中枢は対米戦をしたくないと考えていた。実際問題として政府、陸海軍ともに対米戦は絶対に避けたいと考えていたのである。にもかかわらず、日本の国内事情だけが原因で対米戦が発生したごとく言うのは、東京裁判史観の偏狭な観念の典型である。最大限譲歩しても、米国は裏口から対独戦参戦のために、対日戦を欲していたのが定説である。既に米国がソ連の陰謀も含めて、対日戦を望んでいたことは常識となりつつある。日本と戦争をしたかったのはアメリカであって日本ではない

 

②は①で述べたように、英米につくという選択肢はなかった。英米ともに公然と中国に武器支援していて、実質的に日本と敵対し挑発し続けていたのは明白だった。どちらかを選択しろと言うなら独伊しかなかったのである。海軍が一時三国同盟に反対していたのは、英米への親近感や外交戦略によるものではない。三国同盟は、日独防共協定の延長で、ソ連と敵対するはずのものであった。すると対ソ戦に備える陸軍が、予算獲得上有利となる。それで反対したのである。

 だから、独ソ不可侵条約が突如結ばれると、三国同盟にソ連参加の可能性が出る。つまり、対ソ戦はなくなり対米戦向きになる。だから海軍も三国同盟に賛成に転じたのである。海軍の動きは全て「予算獲得」という典型的官僚発想のポジショントークである。それに石油を絶対的に必要としていたのは海軍であった。石油を米国に頼っているのに、東條が石油のために対米戦を行うのは大局観がない、と批判すること自体が見当違いなのである。

 東條が陸軍大臣として対米開戦を主張したのは、日本がアメリカに散々追い詰められ、このままでは日本が戦うことなく滅びる、と判断したからである。だから東條は、自分が首相に任命されたのは、天皇陛下の対米開戦回避の意向によるものであったことを知ると、開戦回避に全力を尽くした。しかし、対日開戦を望む米国の苛酷な挑発に政府は全力を尽くしたが甲斐なく、御前会議で対米開戦を決定すると、天皇陛下の意にそむくことに追い込まれたことを悔いて、東條は自宅で嗚咽した。このような官僚がどこにいようか。

 一方の山本五十六は真珠湾攻撃の成功に舞い上がり、ドゥリットルの本土空襲に慌てふためいて、ミッドウェー作戦を強行したことは前述した。ミッドウェーで空母の被弾が次々と報じられると、またやられたか、とうそぶいていたと言う。指揮義務放棄である。このような説は、敗北にも泰然自若としていたと言う神話作りとしか考えられない。この言説は山本批判の人士ばかりによるものではないからである。このような指揮官がいるものか。本当とするならば東條の誠意とは対極にある。

 渡部氏は東條の大局観のなさとして、「東条はガダルカナルの惨状を知らされておらず、そのためビルマ作戦を承認し、戦況をさらに悪化させたと戦後になって述懐しているがお粗末すぎる。参謀本部の『雰囲気』でそのことを洞察しなければならない」と述べるのだが、あまりに東條に万能を求めている。東京裁判史観の持ち主が、日本人や日本軍にだけ、世界史上あり得ない完全無欠を求めて止まないことに類する。

そもそも無理筋のガダルカナルに固執したのは海軍であり、山本五十六は航空戦史上初めての、無理な遠距離飛行による作戦で、大量の艦上機と搭乗員を無駄に損耗し、後の敗戦に繋がった。後の米軍ですら、日本本土空襲の援護戦闘機も、相当な無理をしていたのである。海軍が当初の大本営決定の作戦範囲を逸脱して無限に戦線を拡大したのが、最大の敗因である。海軍は米軍に対する補給阻止も、輸送船の船団護衛も適切に行わず、ガダルカナルを餓島とした張本人である。ガ島で陸軍兵士が餓えている最中に、それと知りながら、フルコースの食事を満喫していたのは山本五十六その人であった。もっともそれは、英海軍の真似をした海軍の伝統に従っただけなのである、と弁じておこう。

自殺の失敗問題である。東條は連合軍による拘束が迫ると、自殺を図ったが失敗した。「みっともないことこの上ない。」「わが国においては古来、武人たる者の最低限有すべき『覚悟』であった」とし終戦時自決した、政府・軍関係者は10名以上であり、東條だけが失敗した、と酷評する。

いちゃもんから始めよう。終戦時自決した、政府・軍関係者は10名以上どころではない。桁を間違えている。氏は、著名人だけを数えたのであろう。終戦時自決した人々は民間人もいるし、一兵卒もいる。世紀の自決(*)という本には、終戦時自決した、軍人軍属五百六十八柱の自決者のうち、百四十四柱の方々の遺書が記録されている。大将から、二等兵、軍の嘱託、従軍看護婦まで様々な人々の記録である。この中には純粋な民間人は含まれていないから、自決者総数は相当な数に上る。この数学者はどこを見ているのであろう。

靖国神社に東條英機の魂が祀られている。遊就館に行って遺影を見るが良い。東條英機の隣には一兵卒の遺影が飾られている。英霊の魂には大将も一兵卒にも区別はないのである。

そもそも東條は、連合軍がしかるべき手続きを踏んでくるならば、自決するつもりはなかった。戦陣訓は政治家であった東條には適用されない。東條は、正規の手続きを踏んで米国が要請するなら出頭する覚悟であった。反対に無法にも連合軍が押しかけてくるなら自決するつもりだったのである。筋はしっかり通っている。自決とそうでない両方の心境を保持するには強靭な意志がいる。どうせなら自決した方が楽だったのである。失敗したのは、東條を晒し者にするために米軍が瀕死の東條に大量の輸血をして助けたからである。拳銃は切腹より確実な自決の方法である。大西瀧次郎は切腹して介錯を拒否したから、十数時間生きて果てた。助ける者がいれば生き残ったのである。大西の最後は立派であった。

結果から言えば東條は、恥をさらして生き残ることによって、昭和天皇を守り日本民族を救った。我々は感謝すべきである。東京裁判なるもので弁舌を尽し、日本を擁護した後、処刑された。殺害された、というべきであろう。東條自身は、戦争犯罪人であることは拒否し、開戦時の政治責任者として国民に対する責任をとるべく死んだのは遺書に語られている。その従容とした死は、決して一時の修練でできるものではない。生涯に渡る陶冶のなせるわざである。みっともない、とはよく言えたものである。もっとも東條は後年国民からこのような悪罵をあびせられることは覚悟の上であった。

 渡部氏の「東條には私利私欲がなかった」という点に関しては些末なので省略する。小生は数学者の東條英機論だというから、意外な論点を期待したのだが、実際には巷間に溢れている東條批判論を敷衍したのに過ぎないのには、正直がっかりした。

 

◎それでは、小生の見る東條の大局観について例示する。これらは、単なるがり勉の官僚発想からは絶対に生まれ得ないものである。海軍の中枢で一人としてこのようなものがいたか。陸軍の石原莞爾は大戦略を持って、満洲事変を実行した。しかし、本人の意に反して軍律違反の責任は取り得なかった。それで後に後輩の華北政権の樹立を制止すると、満洲事変を起こした人が、と言われてぐうの音も出なかった。小生は石原の思想や戦略を評価する。しかし石原にはその思想と戦略を実行する力には、最終的には欠けていた、と言わざるを得ない。戦時中の会見で東條を石原が面罵したのは有名である。しかし、石原には面罵した所以を実行する力は既に持たなかったのである。理屈で勝っただけである。

 

まずは大東亜会議の開催である。詳細は深田祐介氏の「黎明の世紀」を読まれたい。東アジアの国と多くの欧米植民地の代表を集め、東亜の自立を宣言したのである。英米の大西洋憲章が、これらの地域の独立を認めないインチキなものであるのに比べ、大東亜会議は実のあるものであり、戦後のアジア諸国の独立に直結している。

 提案したのは、重光葵であるが、それに賛同し実現に奔走したのは、東條英機その人である。東條がいなかったら実現しなかったと言っても過言ではない。だから東京裁判史観の持ち主は故意に大東亜会議を過小評するし、渡部氏は触れさえしない。知らないとしたら東條を論ずる資格はない。

 

 次はユダヤ人問題である。ナチスのユダヤ人迫害に対する日本人の救出は、外務省の杉原千畝が有名であるが、陸軍の樋口季一郎は、安江大佐とともに亡命ユダヤ人救出に奔走した。当時の東條関東軍参謀長は外務省の方針に従って、ユダヤ人脱出ルートを閉鎖しようとした。しかし、樋口が説得すると方針を一変し、全責任を取るとして脱出支援を承認したのである。当時日独防共協定を結んでいた、ドイツ外務省の抗議に対して東條は「当然による人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。満洲ルートによる亡命ユダヤ人は3,500余人に及んでいる。これは東條の決断なしには実現しなかったものである。

 

東京裁判における東條自筆の宣誓供述書である。東條の大東亜戦争に至る歴史的見識がなみなみならぬものであることは、この宣誓供述書を読めば分かる。ほとんど資料もなく、筆記具もままならない中で、宣誓供述書を書いたのである。小生は、昔本文だけ出版されたものを買って、要約のメモを作ったことがある。最近では、解説付きも出版されているから便利である。よく読んでいただきたい。

 

インパール作戦は大東亜戦争でも無謀な作戦の典型とされている。しかし、英軍の指揮官によれば、日本にも勝機があったのである。しかし、空挺作戦と言う奇策がこれを打ち砕いた。チャンドラボースは、作戦中止しようとする日本軍に最後まで抵抗した。英霊に礼を言いたい。インパール作戦の犠牲は無駄ではなかったと。対英戦に参加したインド国民軍(INA)の将校たちを、戦後裁判にかけようとするとインド全土で暴動が発生し、手に負えなくなった英国は独立を承認した。インパール作戦は歴史を変えたのである。それを見ることなく航空事故死したチャンドラボースの遺志は貫徹されたのである。

そのことは現在に至るまで、日印友好関係として、日本の外交戦略を助けている。もっと早くインパール作戦を発動しようとしたのに、補給の困難を理由に反対したのは、他ならぬ牟田口廉也である。東條はチャンドラボースの熱意にほだされて、ついにインパール作戦を決断した。がり勉の官僚的発想ではない。現在の外交にまでつながる大局観があったのである。偶然ではない。そのことは次の例でも示す。

 

関岡英之氏の「帝国陸軍知られざる地政学戦略」には次のようなことが書かれている。すなわち「・・・一九四三年、西川は張家口領事館の調査員という肩書で、東條英機首相の『西北シナに潜入し、シナ辺境民族の友となり、永住せよ』という密命を受け」たというのである。西川はそれを実行したが、日本敗北の報を受けても日本には帰らずモンゴル人として、チベット、インドなどを放浪し、一九四九年にようやくインド官憲に逮捕、日本に送還の上、GHQに移された。命令した東條もすごいが、究極の任務遂行を続けた西川もすごい。

東條の命令は、当時陸軍が構想していた、地政学的ユーラシア戦略に基づくものである。それは、モンゴル、東トルキスタン(ウイグル)の独立を支援して、東アジアの共産化を防ぐというものである。この構想を関岡氏が取り上げたのは、現在にもつながる雄大な構想だからであろう。現在の日本の政治家でこのような構想を発想する者はいない。今後の日本や東アジアにとっても参考になる構想である。その一環を担おうとしていた東條には、大局観があったと言うより他ない。

 

東條がメモ魔であり、細かいことに気付く人であることは、遺族自身が認めている。欠点として指摘されることが多いが、決して偏狭な軍人・官僚ではない。次男の輝雄氏には軍人になるよりは、技術者となることを薦めている。同じ航空技術者として三菱重工で輝雄氏の上司として働いた堀越二郎氏が、組織人として不適格で、零戦の名声にもかかわらず、三菱での評価に恵まれず退職したことに比較すると、輝雄氏は三菱自動車の社長、会長までのぼりつめた。輝雄氏は「A級戦犯の息子」として出世競争に重大なハンディキャップがあったのにもかかわらず、である。小生は父東條英機の薫陶による人徳の故と信ずる。

 

巷間の東條英機批判論には、先の赤松氏がはやくも予測したように、ためにする悪罵に満ち溢れている。高評価するのは、故岡崎冬彦氏位しか寡聞にして知らない。この洗脳の厚い皮を剥ぎ取るためには、理性による克服が必要である。昭和天皇の英明は言うまでもない。従って小生は、第一次大戦以降の日本の歴史上の人物で、東條英機を昭和天皇に次ぐ人物と評価する所以である。

*世紀の自決・額田坦編・芙蓉書房刊

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漢族と西欧人の相似性

2019-06-15 19:54:35 | 歴史

 漢民族とは何かは、曖昧模糊としている。漢民族と言っても、北京語、広東語、上海語など全く違う言語を使う。その反面、これらのグループは、チベット人、ウィグル人、モンゴル人などとは全く異なるようにも思えるのである。そのことを説明する。

 小生は、アナロジーで説明するしかないと考えた。ずばり言えば、「現代の漢民族」とは西欧人と同レベルの概念なのである。西欧人は、ヨーロッパ大陸に住むものとし、米国を除くものとする。米国人はあまりに多人種の国家であり、各々の人種が固有の居住地域を持たずに混淆して住んでいるからである。唯一の例外はインディアンとも呼ばれるネイティブアメリカンである。米国文化に融合している多くのインディアンを除けば、固有の文化を保持しているインディアンは強制的に「インディアン居留区」に住まわされているからである。

 また、ロシア人をはじめとする、スラブ系の民族も除く。言語も文字も完全に異系統だからである。また、DNAや習俗もモンゴルの影響を強く受けていて、見かけも独特である。ただ宗教がキリスト教系統なので、截然と分離しにくいのであるが、取り敢えず分けて置く。漢民族とは西欧人同じレベルの概念である、と言った。西欧人にはスペイン人やフランス人のようなラテン系の民族、ドイツ人のようなゲルマン系の民族、イギリス人のようなアングロ・サクソン系の民族やその他の民族がいる。

 ただし、基本がキリスト教徒であり、アルファベットを使う。英語が古ドイツ語からフランス語の影響を受けて分化して異言語になったように、これらの言語の類似性もある。例えば、イギリス人のジョージは、ドイツ人ではゲオルグ、フランス人ではジョルジュである、といったように共通性がある。DNAにおいても、各民族は混血しているから共通性はあるものの、西欧人自身には外見の区別はつくらしい。分かれているようでも共通性はある。婚姻等の人間関係を律するものも西欧人共通するものがある。しかも、国境を接する、周辺のトルコやイランなどの中東の地域とは文字、言語、宗教、婚姻関係等について著しい差異がある。このような周辺民族とは截然と区別できる、西欧人と言う共通概念が、存在する。

 西欧人と言う概念と同レベルの概念が、現代の漢民族、というわけである。中共政府はチベット民族などのいわゆる「少数民族」などいうものと区別するために、漢民族ではなく「漢族」というそうであるが、これは好都合である。秦、漢、といった漢字文明を発明した本来の漢民族は、ほとんど滅びて、客家などとして辛うじて生きているのであろう。それならば、漢民族と区別するために、現代の北京語、広東語、上海語などの「漢語」を話す人たちを、漢族と総称すればよいのである。

 漢族は小室直樹氏のいう、血縁社会であると同時に、特殊な共同体を形成する。文字は漢字がベースである。外見上の共通点も多い。ただし、言語は北京語、広東語などを話し、これらの言語と特定の地域との結びつきがある。このような民族特性の共通点と相違点が西欧人と同様に存在する。そして、漢族は、チベット、モンゴル、ウィグルなどといった周辺に居住する民族とは相違点の方がはるかに大きい。

 つまり西欧人に対比できる概念は、漢族なのである。西欧人に対応するスラブ系や中東の民族のように、漢族に対応する概念が、チベット、ウィグル、モンゴルなどの諸民族である。こういえば分かり易かろう。中共は明らかに漢族の支配する国家であって、スラブ、チベット、ウィグル、モンゴルなどは支配層には入れない民族、すなわち植民地民族なのである。従って、中共は国民国家ではなく、帝国である。

 それでは満洲人はどこに行ったのだろう。楊海英氏は「逆転の中国史」で、新疆に住むシボ族は、マンジュ語を話し、マンジュ文字を読めるから、故宮博物館にあるマンジュ文字の文献を翻訳させられている、という。これは、本論考で言う満洲文字で書かれた満洲語訳の漢文の四書五経などの翻訳をしている、ということである。要するに純粋な満洲人はシボ族として生きている、ということである。これはインディアン居留区に住むインディアンの運命に似ている。

 ところが、北京語は元々満洲語なのだから、大多数の満洲人ならびに、満洲化した漢民族は、北京語を母語とする漢族として生きているのである。その勢力は大きなものである。同様に、広東語、上海語などを話す民族は、かつて異民族として支那本土に侵入支配した、随、唐などの支配民族の末裔である。彼等も現代では、あたかも漢族として生きているのである。

 唯一の例外はモンゴル人である。モンゴル人はモンゴル帝国が崩壊すると、モンゴルの故地に戻って国家を維持し、言語や文字も保持し続けて現代に到っている。ただし、内モンゴル自治区として中共に支配されているモンゴル人もいるのであるが。要するに、ほとんどの支那大陸の支配民族は、漢族として残った。それは漢化、すなわち漢民族に同化したのではない。今でも言語や風俗は固有のものを保持し続けているのである。

 これに比較すると、西欧人は永い歴史的経緯を経て、各言語民族が各々国民国家を形成している。厳密にいえば、ドイツ語やフランス語を話す民族が、西欧内でもドイツやフランスだけにとどまらないように、その分布は複雑ではあるが、中共に比べ国民国家を形成しやすい状況にあり、国民の幸せを追求しやすい。もちろんバスク地方や北アイルランドなどの独立運動も多数存在するから、現在の国家構成も国境も確定的ではないのはもちろんである。しかし、中共より遥かに安定的であり、収束の方向に向かっていると言える。結論を繰り返す。漢族と対比すべきは概念は西欧人である、と。決して漢族をドイツ人やフランス人といった概念と同一レベル視してはならない。


江戸文明の残滓

2019-01-02 23:40:32 | 歴史

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江戸文明の残滓

 「逝きし世の面影」(渡辺京二・文庫版)を読んでいる。著者は、江戸期に完成した日本文明は、既に日本から消えてなく、歌舞伎等の伝統芸能のようなものに受け継がれているように言われるが、それは残滓ではなく形骸に過ぎず、残っているとさえ言われないようなものだという。筆者の渡辺氏は1930年即ち、昭和5年の京都生まれである。だが大連育ちであったというから、成長期には外国に住んでいたのである。

 だから、氏は知らないだろうが当時の田舎ではまだ、残滓といえるものが多く残っていたであろう。それは私自身の経験の一部でもある。私は、渡辺よりよほど後の戦後生まれであるが、この本の記述で思い出す私の朧げな体験を書いてみたい。都会の通りには、「それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。・・・彼らの多くは同時に熟達した職人でもあった。すなわち桶屋は自分が作った桶を売ったのである。(P214)」という。

 それこそ、筆、墨、硯など個々の商品だけ単独で、しかし、山のように多種なものを専門的に売っていたというのだ。ということは、その程度のことだけで生計が立てられたということだ、と結論する。そこで私の生家の話をしたい。昭和30年台半ばまでの話が、主である。

 生家は四世代が同居する大家族の専業農家であった。しかも、農業機械などはなく、馬で田圃を耕していたし、それ以外は全て鍬などの農機具による人力作業であった。山羊を飼い、山羊の乳を牛乳のように飲み、山羊の皮を処理して座布団にしていた。山羊の肉も食べたろうが記憶にない。味噌も自前で作っていた。これらは主として祖父がしていたように思う。祖父は無骨だが案外器用で、山羊の皮の処理は父にはできず、祖父がしていた。

 曾祖母は冬になると一日中干し柿造りをしたり、サツマイモを天日に干していも菓子のようなものを作ったりしていた。特産が水菜の漬物で、長く漬けるものだから、暗褐色化して塩辛い代ものだった。母は元気な時は水菜の漬物を作って、結婚した私に送ってくれた。ところがある年から、同じ水菜の漬物でも全く違うものとなった。自分で漬けられなくなり、町で買って送ってきたのである。だから、馴染んだ味ではなく、正直がっかりした。

 曾祖母の仕事は女向きの仕事であったろう。祖母は29歳で病死したから、その仕事の引き継ぎができず、曾祖母が年を取ると女仕事は無くなってしまった。母は曾祖母から家事や家のしきたりなどを教えられたと言うが、結局曾祖母がしていた、干し柿造りなどは引き継がれなくなった。このようにして断絶は起きていった。さらに兄の奥さんは専業主婦ではなく、独身の頃からの仕事を続けていたから、母は女仕事を伝えることができなくなって、断絶は決定的になった。

 その他各種の野菜はほとんどが、糠味噌漬けであったと思う。米主体の農家だったが麦や蕎麦も作り、日本で普通に取れる野菜、胡瓜、白菜、キャベツ、ナス、人参、大根など大抵は自家用であり、市場に出すようになったのは後のことだった。蛋白源は豆類以外は、週一回漁村から来る、40代の女性が自転車に乗せて行商する魚を買っていたのである。

 その女性は、蒸気機関車が急勾配のためスィッチバックをしながら一時間かかるほどの距離の、漁港から通って商売をしていたので、そのルートを自転車に山ほど魚を積んで登っていたのだから今から考えれば驚異的である。その頃は、全くの専業農家であり農繁期以外はごろごろしていたし、雨が降ると農作業は休みである。することがないのである。

 椿の木がたくさんあったので、椿の実をむしろの上に並べて干して皮を向き、種を椿油用として売ったのである。曾祖母は、残った時間は古着を縫っていくらでも雑巾を作って、学校などに寄付して感謝されていた。農閑期も働きたかったのである。

 こんなことを長々と書いたのは、渡辺氏が専門の商品を売るだけで生計が立てられ、しかも商品は自作だ、ということと関係があるように思われるからである。曽祖母の作った干し柿や漬物、祖父の山羊皮のなめしなどは、比較しようがないが年季の入った職人芸だったと思う。祖父と曽祖母は黙々と根気よく、これらの作業をしていたのである。しかも、これらの農業などだけで、生活ができたのである。戦前のことだが、父とその弟は中学まで行った。

 後年父母が農閑期に建設業や缶詰工場に行ったり、野菜造りを増やし積極的に市場に売り出すようになったのを、子供の頃は不可解に思った。それまでは専業農家で暮らせたから、渡辺氏がいうような昔の自給自足の生活だったのである。昭和30代後半から急速に洋化して洋服も買うし、農業機械も導入したから現金が必要になったのである。その証拠は私が学校に行くのに自転車を買ったが、現金は半分で残りは私がリヤカーに野菜を積んで代金にしたのである。工業製品を買うには、現金が不足するから物々交換したのである。

 つまり、洋服、自転車、農機具や洗濯機といったものがなく、手作りのおもちゃで遊んでいた時代なら、現金は農業などで賄える程度しかいらなかった。私は自前でそこまで考えた。しかし、渡辺氏が西洋化や工業化によって日本文明が滅びた、といっているのを読んで得心したのである。私のかつて経験した農業は日本文明崩壊以前の残滓で、昔からの技術の農業や小規模の手工業的なものを家族総出ですれば生活できたのである。

 その他に思い出すのは祭祀である。農地を除いた昔からの家の敷地とおぼしき範囲は、100m×200m位あったはずである。井戸の脇に1か所、臨家の境界に1か所、県道から家の敷地まで150mほどの私道があり、私道から家の敷地に入るところに1か所(馬頭観音)、敷地の東南端に1か所の合計4か所に神様が祀られていた。

 特に東南のものは、鳥居があり無人であるが小屋のある小規模な神社の形をとっていた。鳥居から神社までは数メートルではあるが、参道さえあった。鳥居の脇には、その地方には珍しい大きな銀杏の木が一本あった。馬頭観音には、年一回松明をつけて祈る習慣があった。そこでは松明の下で何らかの祈りがされていたが、記憶がぼやけて単なる松明の明かりの点灯ではないこともしていたとしか、覚えていない。それは祖父が年老いてくると止めた。馬頭観音以外は、水神、土神ともうひとつは風神か火神であったろうが覚えていない。これらの神々には、お供えをする以外に、かつては何らかの祭祀が行われていたと思うが、小生の記憶する時代には絶えていたのだと思う。そのことは、馬頭観音の松明をともして祀る習慣が残っていたことから私が勝手に推察したのである。

 ただ、井戸の脇の祠の石戸をいたずら心に開けると、赤い口を開けた白い狐の像があって、ぞっとしたことがある。私道は早くに市道に召し上げられた。藁葺の家が古くなり建て替えるのに、父が100mも家を移したのは、農地の真ん中に国道建設の計画があったからだと思うが、それらの事情から、神々の祠は居場所が無くなってしまった。

それは既に父が早逝した後で、母だけ残った時代になってからである。父は隣家の親戚に土地を奪われて取り返す算段のストレスで早逝したと噂された。田舎の土地争いは醜い。母は独力で、神々の御神体を、新しい母屋の裏に1か所にまとめてしまった。本来ならば、風水でみたてて、新しい屋敷の敷地に、神々の各々の居場所を定めて祀るべきであったろうが、母にはその知識も気力も無かったし、家を継いだ兄は広い農地を貸すなどして守る事に汲々として祭祀には関心がなかった。というより嫌っていたから当然の結果である。御神体が残っただけましである。家を出て生家に関心もなかった私には、もとよりそれを咎める資格はない。

「逝きし世の面影」にも、「信仰と祭」という章が設けられているが、前記した生家の祭祀は古来どのようなものであったか、ということに対応することは述べられてはいない。西洋人が見た日本の記録から記述されているので、そのような類には観察がいきようもなかったのだろう。だからこの類の文明は、残された祠という形骸だけで、本来の姿はあらゆる記録から消え去っていったのに違いない。もしかすると既に曾祖母の世代の記憶にすら残っていなかったのかも知れない。

 曾祖母は伝えられた習慣や祭祀を守る事には熱心だったからである。しかし、後年の西洋化した私達には、煩わしいものでしかなかった。渡辺氏のいう古い日本文明が滅びた、というのは結局、人々の精神のあり方も西洋化によって変わったことを意味する。

 「逝きし世の面影」の「信仰と祭」という章には、唯一小生の記憶と一致する記録があった。それは「フォーチュンは野仏に捧げられた素朴な信心の姿を伝えている。『神奈川宿の近傍の野面にはたいてい、小さな祠があって、住民はそれに線香をたき、石に刻まれた小さな神に塩や銅貨などのお供えをする。・・・』(P538)」という記述である。そしてオールコックが描いた「道端の祠」という挿絵(P539)は、まさに小生の生家の無人の神社と同じ姿をしているのは小生には感動的であった。

 

 また、本書では、日本の田園風景が庭園のようで、しかも自然そのままではなく、人が念入りに手を入れた美しいものである、と書く。小生の子供のころ住んだ生家の庭には築山があった。メインは金木犀としだれ桜で、築山の中には細い通路があって子供の遊び場になっていた。築山は季節毎に咲く草花でおおわれていた。隣家との境には長い距離にわたって椿があった。

畑の真ん中には柿が何本も植えられたスペースがあったし、柿の木は他にも畑の角々に植えられていた。20m四方の竹を主とした雑木林があった。これらの植物は全て自然のものではなく、人工に造成したものであるのは間違いない。渡辺氏の記述した風景が昭和30年代まであったのである。ただし、それが西洋人が見て美的に感じるものであったかだけが確信がない。

前掲書の記述と小生の記憶と一致するものと一致しないものをいくつか追加する。祖父は滅多に怒らない人だったが、軽い気持ちで「畜生」といったとき「そんなことは言うもんじゃない」という意味のことを言って激しく怒ったのを不可解に思ったが「馬鹿と畜生という言葉が、日本人が相手に浴びせかける侮辱の極限だ。(P167)」ということと一致する。私にはない語感を祖父は持っていたのである。「このころは『女でもいばっている人』は、自分のことを『おれ』というのは珍しくなかったと断っている。江戸の庶民に、男言葉と女言葉の差がほとんどなかった(P371)」という。曾祖母は間違いなく、「おれ」と言っていたし、男言葉との区別がなかったように思う。母も自分のことを「あたし」などと女言葉を使ったことは考えられない。小生の生家は、東京から遠くない横浜言葉に似た訛りのある田舎町だったが、江戸言葉の影響は他にもみられる。

農耕馬として、馬を飼っていたが、乗馬の習慣はなくいことは、前掲書の記述と一致する。西部劇を見た私は乗馬風景を見たかったのである。日本の「猫は鼠を取るのはごく下手だが、ごく怠け者のくせに人に甘えるだけは達者である(P483)」というのだが、生家で飼っていた猫は代々、鼠を取るためということだったが、実際に鼠捕りに役立っていたかは怪しい。しかも耕運機を買って馬を売った日、最後の飼葉をあげていたから、動物に愛情が深かったのも本当である。

全般的に、当時の日本人は陽気でよく笑い、外国人にも平気で話しかける、と書かれているが、この点は私の常識とも一般的日本人観とも大きく異なる。ただ、母の実家の親族たちは陽気で人見知りしないたちだった。小生の兄弟は母方の従兄に、おまえんちは、外で遊ばない、と冷やかされた記憶がある。私が唯一持っている古い家族写真では、祖父は鍬を持って上半身裸の祖父が写っているから、労働する日本人は裸で平気であった、というのもその通りであった。以上のように、前掲書に書かれたかつての日本人の姿は、私の幼い記憶にとって全く意外、というわけではない。

渡辺氏は「・・・意図するのは、古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕ではない。(P65)」と断言する。それは、単に意図がそうではない、と否定するばかりではない。そもそも、古きよき日本が戦後にも残っていたのにせよ、なかったにせよ、そのような時代の記憶が渡辺氏になければ、愛惜や追慕は生じようもないのである。大陸に育った渡辺氏とは異なり、私は、前述のように確かに過去の日本の残影を見たのである。それは「良き日本」であったとは思えない。しかし、愛惜と追慕の念は微かにある、と言っておきたい。


書評・古事記及び日本書紀の研究・津田左右吉

2018-08-15 12:54:38 | 歴史

書評・古事記及び日本書紀の研究・津田左右吉

 うかつであった。研究と題している通りの研究書である。従って両書を通読したこともなく、散漫な知識しかない小生が読める代物ではなかったのである。それでも方法論のところには、素人でも理解できる考え方があったので、それだけ紹介する。

 「総論」の一の研究の目的とその方法にこうある。

 「・・・まず何よりも本文をそのことばのまま文字のままに誠実に読み取る必要がある。・・・神がタカマノハラに行ったり来たりせられたとあるならば、その通りに天に上ったり天から下りたりせられたことと思わなければならぬ。・・・草木がものをいうとあらば、それはその通りに草木がものをいうことであり、ヤマタノヲロチやヤタガラスは、どこまでも蛇や烏である。・・・」(P51)というのである。

 「しかるに世間には今日もなお往々、タカマノハラとはわれわれの民族の故郷たる海外のどこかの地方のことであると考え・・・」るのは「本文には少しもそんな意味はあらわれていず、どこにもそんなことは書いていない。それをこと説くのは、一種の成心、一種の独断的臆見をもって、本文をほしいままに改作して読むからである。」

 どうしてそんなことがおきたかと言えば、物語が不合理だから、強引に合理的に解釈した、というのが根本的理由である、というのだがその通りであろう。この類には新井白石らがいる。後代からみれば不合理な記述がある、というのには「・・・鳥や獣や草木がものをいうとせられたり、・・・人が動物の子であるとせられたりするのは、今日の人にとっては極めて非合理であるが、未開人にとっては合理的であったのである。けれどもそれは未開人の心理的事実であって、実際上の事実ではない。上代でも、草や木がものをいい鳥や獣が人類を生む事実はあり得ない。ただ未開人がそう思っていたということが事実である。だからわれわれは、そういう話を聞いてそこに実際上の事実を求めずして、心理上の事実を看取すべきである。そうしていかなる心理によってそう思われていたかを研究すべきである。」

 「また人の思想は、その時代の風習、その時代の種々の社会状態、生活状態によってつくり出される。したがってそういう状態、そういう風習のなくなった後世において、上代の風習、またその風習から作り出された物語を見ると、不思議に思われ、非合理と考えられる。」

 このような津田の考え方は、ある意味素人にも納得できる。だが実際このような立場からの研究がいかなる結論となるのか、素人の小生には本書から読み解くことができない。ただ現代人が合理的事実と考えていることも、津田の論理を演繹すれば、現代人の心理や風習に基づくものであり、千年二千年後には未開人の非合理的なものと言われるようになるかもしれないのである。

 小生は旧約聖書の物語なども、古事記日本書紀の神代に類するものであろうと考えるが、キリスト教徒の立場は津田とは違うようである。書かれていることは現代においても事実と認めよ、というのである。現にキリスト教では奇跡を見た、ということに関しては認定の手続きが決められていて、現代でも聖書で書かれた奇跡は、そのまま起こり得るらしいのである。


ルーズベルト大統領は独裁者か

2018-03-09 15:28:42 | 歴史

 日米開戦時のF.D.ルーズベルトは、国民は厭戦気分から圧倒的に欧州戦争の対独戦に反対であったのに、日本に最初の一発を打たせることによって、日本の同盟国のドイツとの戦争に引き込むことを画策した、というのが定説である。主な根拠は、対独戦が始まって以降、日米開戦前の世論調査で対独戦参戦反対の声が圧倒的に強かったことと、ルーズベルトの三選の際に、対独参戦をしない、という公約をして当選したという二点にある。ふたつの根拠は現在でも確認できる事実である。

 ルーズベルトと対独参戦を画策していた大統領の周囲の関係者は、一人や二人ではあるまい。そのグループが集団で嘘をつき、過半の支持者を騙して当選することが、アメリカ大統領選挙では可能である、ということである。小生にはとても信じられない。素直に考えて、アメリカ合衆国は、少数のグループが国民が望まない、参戦を強行できるほどの独裁国家なのであろうとは思われないのである。

 現にヒラリー・クリントン候補とトランプ候補の大統領選挙で、トランプが勝つ、という予測した米国大手マスコミには、ひとつもなかったといわれているほど、クリントン候補が優勢であったと思われていた。にもかかわらず、当選したのはトランプ氏だったのは周知の事実である。

 選挙後、隠れトランプ支持者がいた、と識者は弁解している。それならば、クリントン優位を報じたマスコミによる調査は、信頼がおけない、ということに他ならない。別項に書いたように、第二次大戦参戦以前に、中立法改正と言う名の国際法の中立違反の立法や、対英武器援助、対独対策としてのグリーンランド等の保障占領、ドイツ潜水艦攻撃などの、対独敵対行為を執拗に行っている。

 ルーズベルトの政策に公然と反対したのは、かのチャールズ・リンドバーグらの少数派だけであった。大統領選挙で選挙民が候補者に、戦争か否かと言う重大案件で騙されるほど、アメリカの民主主義は脆弱なものであるとは小生には考えられない。もっとも当時のアメリカ民主主義とは、白人のためのものでしかないのだが。


池上彰氏の歴史観

2017-05-31 16:27:46 | 歴史

博識で有名な池上彰氏の歴史観を象徴する、テレビ番組を偶然見たので、紹介する。

その1:バルト三国は、元ソ連だった

 平成28年11月26日のテレビ朝日の番組での、池上氏の発言である。トランプ大統領の当選に関連して「バルト三国はかつてはロシアと同じくソ連だった」という主旨のことを言った。その上、バルト三国のうちの一国がトランプの当選に伴い、ロシアが攻めてきたら、という想定の演習をしている、とこともなげにいうのである。

 この奇妙さは池上氏が、南北朝鮮はかつて日本と同じく大日本帝国だった、とこともなげにいうはずはない、ということを想像すればわかる。独立国だったバルト三国は軍事力による脅迫によって「ソビエト連邦に参加したい」と「自発的に要請して」ソ連邦の一部にさせられたのである。ソ連時代の苛酷な支配、粛清やシベリアへの強制移住などの怖ろしい体験をしているからこそ、バルト三国はトランプが選挙中に表明していた孤立主義によって、ロシアから再侵略を受けないかと恐怖して、演習をしていたのである。

 これらの歴史的経緯をすっ飛ばして、ロシアがバルト三国にいかに怖れられているかをも説明しないで、単に対露軍事演習などをしている、と平然と言うのである。売り物にしている池上氏の博識とは、GHQによって洗脳された史観に基づくものでしかない。GHQ史観のデパートに過ぎない。

その2:象徴天皇とは

 平成29年4月2日の週のテレビ番組であったと思う。池上彰氏の解説で皇室のうんちくを紹介する番組があった。冒頭のあるタレントへの氏の質問で、象徴天皇の「象徴」とはどんな意味か、と聞いた。聞かれたタレントが的確に答えられなかったのは仕方ない。驚いたのは、氏の解説が憲法改正直後に政府が出した、憲法の解説書を引用しただけだったことである。

 事実はGHQが日本政府に提示した英語の憲法草案にsymbolとあったのを象徴と直訳したことが発端となったのは、常識であり明快な答えである。池上氏はこのことを絶対に言わない。理由は単純である。日本国憲法はGHQに強要された、とは間違えても言いたくなかったのである。そのことは日本国憲法擁護論者でも、今では認めていることなのに、である。

 池上氏はテレビなどで、教養ある解説者としてひっぱりだこである。氏の解説は明快で公平であるように思われるからである。ところが池上氏は上記のふたつの例のように、自身の主張に都合の悪いことは、知っていて言わない、という悪癖があることは覚えて置いたほうがいい。

 


書評・日本人のための世界史(宮脇淳子著)と韓民族こそ民族の加害者である(石平著)

2017-05-14 16:55:59 | 歴史

 「韓民族こそ民族の加害者である」、の主意は、「韓民族の歴史は、中国や日本などの外国の侵略軍を招き入れて、外国製勢力を半島内の勢力争いや内輪もめに巻き込んで利用した」というものであろう。この結果利用された外国勢力は、内紛に巻き込まれるたびに、かえって多大な被害を受けている。韓民族の争いに巻き込まれて滅亡した、支那王朝さえあった。外国勢力とは朝鮮戦争における米中も含まれる。

 本書は全編、その例証にあてられているといってよいだろう。事実関係から言えば、それは正しい。支那の夷を以て夷を制するどころではない、凄惨な韓半島内部での争いが外国勢力を利用して行われたのである。しかも外国侵略を招いた張本人は、不利になれば住民や部下を放置して逃げ出してしまうのである。

 だが、「日本人のための世界史」を読むと、別な見方もできる。本書ではモンゴル帝国と大日本帝国、という今では世界史では(故意に)忘れさられた帝国が、世界史に果たした重大な役割を説明するのが主意である。

 終章に面白いことが書かれている。日本人による新しい世界史をつくるときには「日本列島だけが日本で、外地は日本ではなかったのだから、大日本帝国を日本史として扱わない、という思想は「日本書紀」に起源があり(P269)」この枠にとらわれるべきではない、というのである。

 日本は維新後、欧米人に劣らない能力があることを示すためもあって、海外の植民地経営をし、現地に投資し居住してきた歴史がある。ところが、敗戦によって自己保全のため、日本の歴史を再び日本列島に限定し、外国に進出したことは悪いことだった、と否定するようになった、というのである。この結果、国民国家日本が存在する以前からの日本の歴史を、日本列島だけがあたかもずっと国民国家のように存在し続けた、という前提で限定的な歴史にしてきた、というのである。

 このことは、石平氏の著述にも適用できるのではないか。すなわち、北朝鮮と韓国と言う韓民族が居住する現在の地域が、元々歴史的普遍的に存在する、というのが石平氏の著書の前提にあるからである。

 そういう枠を外してしまえば、事は日本の戦国時代で、戦闘ばかりではなく、姻戚関係や成功報酬と言った調略をも使って争っていたことともなぞらえることもできるだろうし、日本が半島に出兵したのを、日本列島という本来の日本固有の逸脱した、外征ととらえることの、狭量さも浮かび上がってくる。

 ただし、石平氏の言うのは、韓民族と言う内輪の争いに、異民族を引き込んだのであって、韓半島と言う領域から外に出ずに、韓民族での内輪争いに留まっていた、ということである。そして異民族を使っての韓民族同士の卑劣な争い、というのは他の民族に見られない凄惨なものであった、ということも事実である。

 この二人の著書にモンゴル人の楊氏の書いた、「逆転の大中国史」、岡田英弘氏の「世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統」などを併せ読めば、世界史の見方が一気に広がるだろう。我々日本人の歴史観は、東洋は四千年の中華王朝史、西洋はギリシア、ローマの流れをくむ、欧米諸国、といった、中共や欧米のそれぞれに都合のいい狭量な歴史観に囚われている。

 また、日本を日本列島に限定して、昔からずっと存在してきたかのごとき歴史観は、英米仏独といったヨーロッパ諸国は歴史的経過から、結果的に成立したのに過ぎず、今後も続くものかさえ怪しいのに、あたかも普遍的存在として、過去から未来まで存在している、といった日本人の狭量な歴史観を形成している。

 ユーラシア大陸東部は中華王朝がずっと支配していたものではなく、現在中東と呼ばれている地域や、ヨーロッパ大陸の歴史とも錯綜して、単純ではない。もちろん、宮脇氏の言うように、モンゴル帝国や大日本帝国がかつて世界史に果たした重大な役割はすっかり忘れ去られ(故意に無視)されている。