毎日のできごとの反省

 毎日、見たこと、聞いたこと、考えたこと、好きなことを書きます。
歴史、政治、プラモ、イラストなどです。

仏のEU残留とスコットランド独立

2017-05-01 16:53:00 | 歴史

 平成29年4月から5月に行われている、フランス大統領選挙は、EUからの離脱がひとつの争点である。フランスが離脱すれば、EUはドイツ一強になるに等しく、崩壊の始まりだろう。離脱がなければ、英国が予定通り離脱しても、EUの崩壊は当面ない。元々英国は通貨統合には参加していないから、限定的なEUメンバーであった。

大陸にあった英国領土を喪失してからは、英国外交の主要課題は、大陸の勢力バランスが崩れ一国が突出するのを防ぐことであった。通貨統合もせずにEUに参加したのは、その政策の延長と言えないこともない。しかし、英国は元来、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの連合帝国で、アイルランドに至っては、北アイルランドを残して独立してしまった。

スコットランドは、住民投票で辛うじて、英国に残留した。しかし、スコットランド住民は大勢はEU残留にメリットを感じている。イングランドと利害が異なるのである。もし、フランスがEUを離脱してEUが崩壊したとなれば、イングラントとスコットラドの対立点は減る。

逆にいえば、EUが崩壊しなければ、EUから離脱する英国にいるメリットは大きく損なわれる。つまりEU離脱後の英国の経済情勢の変化によっては、スコットランドだけがEUに加盟したいと考える可能性がある。これはスコットランドの独立志向を意味する。

そうなれば、北アイルランド情勢に影響を与えないはずはない。そもそもアイルランド島のほんの一部だけを、凄惨な内戦までして英国に残させる、ということに無理がある。北アイルランドは、いずれアイルランドに吸収されるであろう。これは小生の願望であって予想ではない。

太陽の沈むことのない、と言われた大英帝国も、本国自身が島国の中で小さく分裂するのである。トルデシリャス条約で地球をふたつに分け合った、と豪語したスペインとポルトガルは、かつての栄光の影もない。世界中の有色人種を不幸に陥れた、英国も末路を迎えた。その後継たる米国も超長期的にはムスリムや黒人の増加によって、その栄光は消えるでだろう。

 


日本の使命は白人支配の打破である

2017-04-26 15:41:45 | 歴史

日本の使命は白人支配の打破である

 大東亜戦争の結果、ともかくも白人の植民地支配を解放した日本が、今後大東亜戦争の目的を完遂するために、残された世界史的使命は、未だに世界に強固に残る白人支配の打破である。大東亜戦争後、世界には有色人種の多数の独立国が生まれ、白人の世界支配は崩壊したかに見える。しかし、かつての植民地支配を蒸し返して批判しようとした、ミャンマーは軍事政権と批判され、こともあろうに宗主国英国に親を殺されたに等しい、アウンサン・スー・チー女史を擁立して批判を封じられた。

 アウンサン・スー・チー女史は少女の頃から英国に連れていかれ、英国の教育を受け、英国人の結婚し、流暢なイギリス英語を話す。それを英国は、いざという時の隠し玉として周到に用意していたのである。女史の父は独立の闘士として国民に絶大な人気があるからである。

事実上の大統領となって国政を運営する、アウンサン・スー・チー女史の政策は成功するかどうかはおぼつかない。しかし、植民地批判を封ずる役者としての女史の役割は、英国にとって終わった。今後ミャンマーの政治がどうなろうと英国は知ったことではないのである。

支那は相変わらず、世界の白人支配には無関心で、時には欧米を利用し、時には欧米と対立する。自国の覇権だけを求めるための便宜主義に過ぎない外交をしている。それを打破できる資質があるのは、日本人しかないと思われる。

 例えば、日本は多年に渡る歴史から、世界に稀な宗教の平等を実現している。それは日本の国家元首は国際慣例から言えば、天皇陛下に他ならない。天皇陛下が行っておられる、在日外国大使の認証は、国際法上は国家元首の役割である。また皇室は神道の総本山と言えるだろう。ところが、皇室には権威はあるが、実際の政治権力を持たない。現在の政治権力は総理大臣をトップとする政府にある。それ以前は、政治的権威は征夷大将軍の率いる幕府にあった。

 だから総理大臣ら政府の構成員が神道ではなく、仏教徒でも何派かのキリスト教徒でもかまわない。この違いは米国と比較すれば、よくわかる。米国は大統領が権威たる国家元首であり、政治権力のトップである。ところが大統領は就任の際に聖書に手を置いて宣誓する。これをイスラム教徒ができようはずはない。

 米国大統領は、キリスト教徒でなければならないのである。従って日本のような宗教の公平は実現していないというのはこの意味でもある。現在、米国でムスリムの比率が確実に増大していることを考えれば、将来、何百年先か分からないが、米国がムスリムの多数国家に成ることは考えられる。すると民主主義の建前から言えば、ムスリムの大統領が出現ことは起こり得る。このとき聖書での大統領の宣誓は問題になるはずである。

ともかくも現代世界で顕在化しているイスラム教による混乱を解決することができる可能性のある民族は日本人しかいない。さもなければ世界はキリスト教徒とムスリムの長い力の抗争の末、最終的に強きものが弱きものを抑え込むことにしかならない。その結果はかつてのようにムスリム優位の世界かも知れない。

 逆に宗教戦争で永年苦しんだフランスは、厳密な政教分離を実現せざるを得なかった。それが本当なら、政治家は一切宗教行事に参加してはならない、という意味である。それなら、葬儀に参加することも不可能なはずである。なぜなら宗教行事ではない葬儀と言うものは語義矛盾だからである。

 無宗教なら、死者単なる物体に過ぎないから、葬儀を行うこと自体あり得ないことである。死体を物体として適当に処分してしまえばいいだけのことである。葬儀を行うのは、何らかの不可知なものを認めるからである。それは広義の宗教である。日本でも戦死者を神道の靖国神社ではなく、無宗教の施設で慰霊すればよいではないか、という意見も散見するが、慰霊という行事そのものが、宗教的なものなのであって、無宗教での施設での慰霊はあり得ない。もし、無宗教と称して戦死者の慰霊施設を作ったとすれば、それは政府が新しいカルト宗教を創設することに他ならない。

 日本は永い間、権威と権力を分離することで、宗教の公平を実現して来たのに、維新で西洋の一神教文明を取り入れたことに始まって、敗戦による精神の混乱により、伝統的な宗教の公平と言う知恵を忘れつつある。だから日本人の使命たる、白人支配の打破は困難を極める。まず日本人の伝統的な知恵を回復しなければならないのである。


書評・西尾幹二のブログ論壇・総和社

2017-01-22 15:10:09 | 歴史

 最後の方に書いてあるが、西尾氏はパソコンや携帯が苦手な人らしく、ブログも原稿を書き、パソコンでブログにするのは、代行してもらうらしい。それでもインターネットの世界に西尾氏は飛び込んだのである。西尾氏らしい、辛辣かつ、厳格なコメント満載である。

 最初は一時話題になった西尾氏の皇室批判の話題であるが、小生はまともに読んだこともない。西尾氏は皇室に対して諫言をしている。それを読んだことがないので論評はしない。ただ、「・・・皇太子殿下が雅子妃殿下を迎えられたことについて私は近代日本の学歴主義との結合と書きましたが、ここで天皇家は学歴主義を新しい権力と誤解したのではないでしょうか。(P291)」という。この指摘は「天皇は権力に守られる。それにより権力は勢いを増す。」ということと関連している。

戦後は皇室はアメリカという権力によって守られている、ということでもある。確かにその通りである。だが、単にアメリカを、かつてから皇室が守られていたような権力と同列に考えるのは疑問ではないか。また、雅子妃殿下以前に、美智子妃殿下という民間人を受け入れた、というのは昭和天皇ご自身ではなかったか。

それはかつて藤原家などから皇室に入った、ということとは異質な気がする。戦後民間人が皇室に入った、ということは英王室などによる影響ではあるまいか。つまり開かれた皇室というものに影響された結果であるような気がする。つまり西欧を入れたのは昭和天皇ご自身からではないか。それについて、どうこう言うつもりはない。事実関係として言いたいだけである。

 北岡伸一の田母神論文批判である。「日米開戦直前にアメリカが示した交渉案のハル・ノートを受け入れたら、アメリカは次々と要求を突きつけ、日本は白人の植民地になってしまつたことは明らかだと(田母神氏は)いう。・・・ハル・ノートをたたき台に、したたかに外交を進めることは可能だった。その結果が、無条件降伏よりも悪いものになると考える理由は全く分からない。」(P100)

 これに対して西尾氏は「思い込みと野蛮な非合理感情に動かされるアメリカの開戦への驀進は、イラク戦争でも目撃ずみです。・・・今の時代感覚でハル・ノートの時代を判断している楽天的幻想です。ルーズベルトの高まる対日敵意とアメリカの年来の中国大陸への野望、欧州戦線とのかね合い、そしてなによりもあの時点でのアメリカの自己過信がもたらした尊大横暴です。勿論アメリカにも理性的な人はいたでしょう。ですが、そこにだけ目を向けて、日本の『負ける戦争を始めた当時の指導者』の『責任』を言い立てる北岡氏のもの言いは、・・・最初から旧敵国アメリカの側に身を置いて歴史を見ている姿勢です。厳密にいえば客観的な歴史の事実は把握不能です。ことに現代史は実証的な歴史そのものが不可能です。」と断言する。

 北岡氏の言説は、国際関係の厳しさと複雑さを知らない、幼稚なものとしか言えない。西尾氏の批判以前に、保守を自称する人物にも、ハル・ノートは無視するか受け入れたふりをすれば、戦争をしなくて済んだ、という者がいるから救いようがない。

ハル・ノートは日本が受け入れる事ができないで、開戦せざるを得ないようにする目的で出されたのだから、事実誤認も甚だしい。米国は交渉する気はなかったのである。もし、日本が米国民にハル・ノートを公開していたら、米国民は米国政府に怒って、反戦機運が盛り上がり、開戦を回避できた、という説も同様である。ハル・ノートより前から公然と石油禁輸などの経済制裁に近い挑発を行っているのである。それらの公然たる挑発を米国民も知っていたのだから、米国民の反戦感情を利用するなどと言うこともあり得ない。

 「現代史は実証的な歴史そのものが不可能」だというのは、日本では定説とされてきた張作霖爆殺の真相が必ずしも正しいとは断言できない証拠がでてきたことや、カチンの森のポーランド将兵殺害がナチスドイツの仕業ではなく、実はソ連軍の仕業だと逆転したことが、それほど昔ではなく、歴史が現代に近いほど皮肉なことに事実が隠蔽されやすいということでもある。

 鎖国の理解であるが、通例では江戸時代にヨーロッパ文明を警戒していた、とされるが、「もう一つの側面は、中華文明に対する土着文化の長い時間をかけた、静かな拒絶反応の表現であった(P115)」というものである。これは菅原道真が遣唐使の廃止をして、支那文明の導入をやめたことを言うのではない。

 日本は、それ以前から漢字などの支那文明を取り入れながら、同じ姓の者とは結婚しない、イエを守るための形式的養子を認めないなどは、日本の都合でこれらの支那の制度は採り入れないできた。

「何から何まで日本社会とは異なることを少しずつ知ったのは、江戸時代を通じ、儒教以外に学ぶもののなかった学習時代を経て、日本人が自己認識を深め、一つの自立した日本文明が成立していった結果に外なりません。日本は江戸時代にある意味で文明化していたと考えます。ゲーテが見た、神と自然が調和した秩序は、新井白石や本居宣長が見ていた世界に重なります。明治になって『文明開化』したのではありません。」ということである。

西尾氏は歴史家の秦郁彦氏を批判する。小生も以前は、慰安婦問題で吉田の嘘本を実証的に暴露した秦氏の功績を評価していたこともあったのだが、「南京事件」について、秦氏が被害者数の大小に相対化する態度を取っていたことに疑問を持った。

「秦 ・・・西尾さんは欧米の『意志』を悪しざまにおっしゃるけれど、この時代、どの国もみな互いに謀略を仕掛けあっているわけですね。ワルはお互いさまで、負けたからといって『騙された』と泣き言をいうのはみっともない。・・・

西尾 秦さんは日本も覇権争いに加わった一国にすぎなかったと、当時の各国を相対化されたが、世界史観において、私は全く立場が異なる。西洋のキリスト教原理主義からくる裁きの思想、・・・善と悪を自分の頭上に掲げ、自らに対する裁判官にもなり、処罰者になる。日本人にも中国人にもこういう発想はありません。この思想は・・・スペインとポルトガルが帝国主義的拡張をつづける過程で全世界に飛び火していく。・・・パリ講和会議の時点で、すでに第二次大戦後のニュルンベルグ裁判とまったく同じような『裁きの意志』が露顕していました。(P127)」

このようなやりとりがあり、秦氏は西尾氏に同感です、と言いながら、結局は相対的な発想は崩さないばかりか、東京裁判を「ほどほどのところに落ち着いた、比較的、寛大な裁判だった」というのだから何をかいわんやである。だから西尾氏に「秦さんはどうも旧敵国、戦勝国のような立場に立って・・・日本を裁いている。」と論難される。

東京裁判の裁判官らですら、後日東京裁判を批判しているから、秦氏はそれ以上に戦勝国的立場に立つのである。西尾氏が秦氏を保坂正康氏と同類扱いするのも分かる。

民主主義教育について、「どんな社会にもエリートは存在するし、必要とされる。問題は、教育への機会均等という美名の下に・・・正しいエリート教育の在り方が一度も真剣に討議されなかったことにある。エリート教育とは、精神の貴族主義を養成することであって、権力への階段を約束することではない。(P228)」と喝破している。官僚でも実業界でもこの点に大いなる誤解があるが、無理からぬことであろう。

受験勉強はなぜするか、と言えば「快適な生活、安全な身分保証、適度の権力欲」という自己逃避であるのに、自己逃避せずに勉学するという受験生の態度は、「明らかに矛盾である。」というのは本当である。

小生のかつての知人で、自らの人生経験をあからさまに語る人がいた。必死に勉強して一流大学に入ったが、その時点でエネルギーを使い果たしてしまったというのだ。だから自分は卒業した大学の割に、不本意な地位にいるのだが、同窓会に出ると皆一流会社の役員や社長ばかりだと言っていた。卑下したり嫉妬するでもなく、あまりに有体に言うので、嫌味も何もない。西尾氏の言説の裏面の真実を聞かされていた気がする。

大江健三郎は不自然な人物である。大江が新制中学時代に憲法を習った頃の思い出を語っている。(P232)その文章を西尾は「符牒や暗号を一度叩きこまれたら、もう二度と疑うことのできない人間改造の見本のようなものである。これはまた子供はどのようにでも教育できるし、大衆の意識はどのようにでも改造できる・・・大江氏が別のエッセーで『天皇は、小学生のぼくらにもおそれ多い、圧倒的な存在だったのだ』と戦時中の自分の姿勢を書いていることである。

昨日まで戦争をしていた若い先生に、修身の代わりに平和憲法を教えられたことを後年まず矛盾と考えるとのが正常な感覚だと私は思う・・・大江健三郎氏には〈主権在民〉や〈戦争放棄〉はモラルではなく鰯の頭、疑ってはならない護符、呪文、要するに天皇と同じように『おそれ多い圧倒的な存在』であったということでしかあるまい。

大江さん、嘘を書くことだけはおよしなさい。私は貴方とまったく同世代だからよく分かるのだが、貴方はこんなことを本気で信じていたわけではあるまい。ただそう書いておく方が都合がよいと大人になってからずるい手を覚えただけだろう。」と辛らつだが本当である。

大江の天皇陛下に対する敬意と、その後の言動の矛盾から分かるのは、大江は単にそのとき受けのいい言動を繰り返しているのに過ぎない。国粋主義的風潮が世に蔓延すれば、簡単に「主権在民」などいう「呪文」は捨て去るであろう。

そして「民主主義は政治上の、相対的な理想であって、決して教育理念にすべきではない。・・・民主主義の名において民主主義のために戦いたがる青年たちが、民主主義を事実上許さない政治体制につねに従順であるのは、戦後民主主義の七不思議の一つである。民主主義が再び抑圧されはしないかとたえず警戒し、いきまいている青年たちは、間接的に自分たちの抑圧されやすいことを告白しているようなものである。(P234)」

青年たちばかりではない。大江のような年寄りまでもそうなのである。中共や北朝鮮のように民主主義どころか民衆が限りなく抑圧されている国家に従順なくせに、日本政府に対してだけ、民主主義の危機だなどといきまくのである。


書評・ナポレオンと東條英機・武田邦彦・ベスト新書

2016-12-27 17:22:48 | 歴史

 小生としては初めて、米国は対独戦参戦のためばかりではなく、日本を潰すための戦争を企画していた、という小生の考え方と一致した論考を発見したのは幸甚である。しかも、小生の考えは、単に日本本土爆撃計画、その他の米国政府や民間の動向から、この主張を導き出したのに過ぎない。

 本書が貴重なのは、米国の動機を論証したことである。欧米人は日本が支那と同様に、白人、すなわちアーリア人種のルールと秩序に従って行動すれば、日本を受け入れて戦争になることはなかった。しかし、日本は白人と有色人種は平等である、という抜きがたい思想を持っていて、満洲国建国など、白人の既成の植民地秩序を破壊する意志と能力を有する、唯一の有色人種の国であった、ということである。

 それ故、ルーズベルトを始めとする欧米人は、アーリア人種が造り上げた秩序を守るためには、結局日本を叩き潰すしかない、という結論になったというのである。大航海時代以降、世界で欧米に支配されなかったのは、日本以外には、エチオピア、タイ、支那だけであった。(P76)

しかし、エチオピアは風土病がひどく、ヨーロッパ人は入りたがらなかったため、タイは外交上手だったのと、英仏の対立の緩衝地帯として残され、支那は唯一「白人に寝返って」(つまり蒋介石はアメリカの、毛沢東はソ連の傀儡であった、など)、完全な植民地化を避けられた、というのである。その他のベトナムなどは果敢に戦って敗れ、植民地化され、唯一日本だけが軍事力、すなわち実力で独立を保持したのである。

 次に本書の主題である、東條英機がナポレオンに比べ貶められているが、初めての有色人種の国際会議である、「大東亜会議」を主宰するなどして、多くの植民地の独立を促し、白人優位の秩序を壊した、立派な指導者だった、という論考にも大いに共感する。大東亜会議については、深田祐介氏が好著(黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち)を出しているので読まれたい。

 小生は昭和史、あるいは日本近代史の人物では、トップが昭和天皇で、次いで東條英機を推しているので、東條の再評価は喜ばしい。

 ここで、間違いを指摘しておく。「フランスはアメリカが独立するのを嫌って」独立戦争に介入した(P51)というのだが、これは逆ではないか。「対大英同盟を率いたフランスが勝利し、アメリカの植民地は独立します。(嘘だらけの日英近現代史P128)」というのが事実ではないか。

 米西戦争の原因となった米国船を「メリー号」と書いているが実際はUSS Maine なので、普通日本語では「メイン号」と表記される。繰り返し書かれているので、表記ミスではなく、記憶違いであろう。プリンス・オブ・ウェールズとレパルスが「・・・日本軍が敷設した魚雷を避けつつ・・・」とあるが、機雷の間違いである。

 以上、本書の本質と関係ない、些末な間違いを指摘したが、単純なものなので版を改める時、訂正したらどうかと思う次第である。


米国の滅亡

2016-07-26 15:05:54 | 歴史

 ソ連崩壊よりかなり以前、ソ連が滅亡する原因として、イスラム社会のソ連内での急速な活動を指摘する本があった。しかし、ソ連は解体されたが、結局は旧ロシアに戻ったのに近い。ただ、帝政と言う統治形態を廃しただけである。帝政ロシアの時代は、ヨーロッパの一国に過ぎず、権謀術策でヨーロッパの国々と、色々な同盟を繰り返していた。

ところが、ソ連は東欧を支配下に置くことにより全西欧と対峙することができる「大帝国」となった。ロシア帝国は単に皇帝がいるから帝国を名乗っていたが、ソ連は自国の他にヨーロッパの半分を支配することにより、米国プラス西欧と対峙することのできる、実力としての帝国であった。歴史的にはそれが異常だった。結局ほぼスラブ民族の一部によるロシアに戻ることにより、帝国は解体されたが滅亡は免れた。

アメリカはどうだろう。アメリカは何時かは、滅びる。滅びた結果の、現在の合衆国領土はどういう統治形態になっているか、予測はつかない。しかし、滅びる原因は民族問題である。現在の支配民族はWASPと呼ばれる白人である。ところがヒスパニック系や黒人の増加が著しく、いつかはWASPは少数民族となる。それが米国滅亡の始まりである。

米国は、黒人が公民権を得て、建前の人種間の平等が成立してから何十年もたつのに、人種差別はなくなるどころか、潜在的にはひどくなっているとさえいえる。それに、イスラム系のテロやメキシコなどからの不法入国である。

中共にしても、漢民族ですら複数の異民族から構成されている。だがアメリカと決定的に異なるのは、福建人でも広東人でも、歴史的に民族と土地が結びついている。だから漢民族国家が分裂する可能性はある。しかし、ウィグルのような異民族は別として、漢民族にはなぜか統一志向があり、統一と混乱を繰り返している。しかし、多くの識者が言う通り、各王朝間には連続性はない。滅亡と勃興を繰り返しているだけである。

これに対してアメリカは、一つの州をとっても色々な民族、人種が住んでいる。白人と黒人とヒスパニックを例にとれば、州内で相対的にどれかの民族が多いと言う地域はあるにしても、民族や人種と土地との歴史的結びつきは希薄である。大雑把に言えば、アメリカは各州に色々な人種がばらまかれているのである。

だから、、アメリカが民族ごとに分裂する地理的に起因する必然性は少ない。ところが黒人とヒスパニックは、人数に於いて白人を圧倒する時期が来るのであろう。そうなったときWASPのアメリカ、という本音のアイデンティティーは崩壊する。その時が米国の滅亡の始まりである。

支那でモンゴル帝国が滅んだとき、再統一は漢民族と呼ばれる、いくつかの民族が定住する地域で統一された明朝が成立した。WASPを漢民族になぞらえることは困難である。米国にはWASPだけが住む歴史的地域はないのだから。

その一方でカナダには白人がいて、中南米には米国のヒスパニックに人種的に似た人々が住んでいるから、WASPの衰退は南北アメリカを巻き込んだ混乱を惹起する可能性がある。また、現在でも厳然として黒人やインディアンに対する差別は存在するのだから、それらの人種が占有する居住地域を作って独立する可能性はある。だから米国の滅亡の始まりから、アメリカ大陸の国家の再編までには、永い混乱期が続くのだろう。それどころか、終わりの始まりですら、今生きている人間は見ることができない先の話である。


沖縄の基地問題考

2016-04-24 15:00:34 | 歴史

 保守陣営は沖縄基地問題を日米同盟の必要性の観点から語る。それも間違いではないのだが、本質はそこにはないと思うのである。大東亜戦争とその後の経過から米国は支那本土への足がかりを失った。その代わり在韓米軍と沖縄を得た。返還前の沖縄での米国の施策をみれば、米国は沖縄を信託統治領のようにして、永久に保有するつもりだったと考えられる。

 何万人もの犠牲で得た沖縄を返すつもりはなかったのである。「太平洋戦争」は米国の正義の戦争であり、領土を増やす目的ではない、という米国の建前を逆手に取ったであろう佐藤政権が、沖縄返還に成功したのは、世界史上の奇跡であったとしか考えられない。

 敵対する支那大陸政権に対するバッファとして、在韓米軍は必要である。これを支えるために、本土の基地より自由に使える沖縄の基地重要である。だから返還以前と同じ条件で基地を使える、という妥協点で返還に応じたのであろう。繰り返すが沖縄の基地は米国の立場からすれば多くの犠牲の上に得た、「領土」である。マクロにみれば日本本土にしても似たようなものである。

 安保条約と在日米軍は日本の軍事的自立を防ぐ「ビンの蓋」だと言うのは、米国の本音であろう。だが同時に日本を失えば、米国はアジアにおける最大の橋頭保を失う。また、日本の軍事的外交的自立なしに、米国が日本から撤退すれば、東アジアは大混乱に陥る。

だから日本がいやおうなしに、米国との同盟を続けざるを得ないようにするためにも、護憲勢力の存在は米国にとって必要不可欠である。護憲勢力とは、実際的にはかつてはソ連に利用され、現在は中共に利用され続けている。

しかし日本の軍事的自立を防ぐために、米国にも利用されている。軍事的自立は外交の自立を意味する。しかし護憲勢力は、戦争はこりごりだ、という以外は無思想である。小生は沖縄や本土の米軍基地の存在の現実を述べているのであって、善悪について述べているのではない。


書評・沖縄の不都合な真実 大久保潤・篠原章 新潮新書

2016-03-29 16:06:22 | 歴史

 あとがきで書いているように、既得権益を守る公務員を中心とした「沖縄の支配階級批判」だそうである。沖縄の支配階級とは、保守革新を問わず政治家、マスコミ、大手建設業者などの大企業、公務員及び公務員の労働組合、などと言ったところである。この顔ぶれを見てみると、一見不可解である。

 確かに沖縄の政治家は皆同じ、というのは辺野古移設に反対して、自民党政府と対立している、翁長知事が自民党県連の重鎮だ、という珍現象を説明できる。ところが労働組合も支配階級に入る、という認識は本土ではあり得ない。そして沖縄基地撤去一色の沖縄マスコミも、沖縄自民党も含めた政治家全部と組んでいる、というのだ。

本書を手にしたときに、基地反対を訴えて実は撤去よりも、政府からの振興資金や借地料を増やす魂胆の矛盾を単純に言うのかと思った。もちろん、その側面もある。だが一方で、「閉鎖的な支配階級が県内権力と一体化しているため、沖縄には県内権力を批判するマスコミや労組、学識者などの左翼勢力が育ちませんでした。(P90)」と書いてあるのには驚いた。

筆者は左翼が健全な思想の持ち主だ、というのである。この点に違和感を感じる以外には、筆者の姿勢は客観的であろうとしていることが、良く分かる。何せ、現実の沖縄の労組は支配者側だと言うのであるから。ただ一点、日本の安全保障の観点がほとんどないが、筆者のえぐり出したい、沖縄の実相と言うテーマから離れるからであろう。

沖縄の最大の問題は、基地があることによって、沖縄が一体となって反対運動をし、それにより振興資金が投入され、減税が行われるが、潤うのは支配階級だけだから、格差が広がるだけである、ということである。実は日本一危険なのは普天間ではなく、厚木基地である(P72)。その上、普天間で危険な、普天間第二小学校は、基地が出来て24年後に、危険を承知でわざわざ建てた(P75)というのだから、たちが悪いとしかいいようがない。

筆者らが他の「左翼」と一線を画している点がいくつかある。そのひとつは「いつのまにか、沖縄人は大江健三郎と筑紫哲也が言う被害者沖縄のイメージ通りにふる舞うクセがついてしまった」「沖縄が自立できないのは筑紫哲也のせいだ」(P142)という、沖縄県民の言説を紹介していることだ。

常識では左翼は、大江や筑紫をこのように批判するどころか、二人の言辞を持ち上げるのが普通である。また沖縄在住の作家、上原稔氏が、連載物に慶良間諸島の集団自決について「軍命」はなかったことを実証した文章を載せようとすると、掲載を拒否されたことを批判している。(P176)

同様に、渡嘉敷、座間味における集団自決について、大江が「軍命による集団自決」と書いているのは嘘だ、という訴訟が起こされ、原告は曾野綾子氏の文章を根拠として、実は、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用申請(年金受給)のために、「軍命による強制」という虚偽が必要だった、と主張した裁判の件を紹介している。(P179)

本土であれば大江や筑紫の応援団になるのは左翼であり、沖縄の集団自決は軍命によった、と主張するのは、左翼である。典型的な左翼を日本共産党や社民党とするならば、両党は、沖縄の集団自決は軍命によると、主張している。ところが、筆者たちによれば、沖縄ではこれらの主張をするのは、沖縄の支配層であり、エリートたちである、というのだ。

本土に住んでいる人々は、これらの主張は沖縄において、左翼的言論界が主張しているものだと考えている。ところが、筆者の言うように、そうでないとするならば、沖縄の状況が外部から分からないのも当然であり、沖縄自民党の幹部であるはずの、翁長知事が、辺野古移設に強硬に反対するのも分かる。

沖縄の知念氏が中学生たちとの対談で、結果的に沖縄独立を示唆しながら、独立について明言しないことを批判している。(P209)だが、筆者自身は沖縄独立論は、単に自発的なものばかりではなく、中共による工作の影もある、ということには言及しない。これは片手落ちだと思う。沖縄の事態は相当に複雑なのである。


ベトナム戦争参戦とアジア、支那の保全

2016-02-27 16:16:09 | 歴史

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 日本に憲法九条がなかったらベトナム戦争に参戦しなければならなかった、という論者がいる。だが、日本はベトナム戦争に直接に参戦するべきであったか、ということを考えるのが先決である。その前に一言する。日本はベトナム戦争に参加する航空機や兵士などに基地を提供している。これは倉山満氏ら何人かの識者が言う通り、国際法上は参戦していたのである。だから、ここで言うのは、戦闘員を送ると言う、直接的な参戦のことを言う。

 ベトナム戦争とは何か。それは戦後再植民地化のために戦ったフランスを、アメリカが引き継いだのではない。ドミノ理論によりベトナムの共産化が、東南アジアの共産化につながることを防止するためである。日本が支那事変を戦ったのも一面は反共の戦いである。ドイツと手を組んだのも反共のためである。日本は一面では、アジアの防共のために戦ったのである。それを理解できなかった米国は、結果として共産支那を成立させてしまった。

 それがなければアジアの防共はありえたのである。アメリカは日本を倒した結果として、共産主義の威力と本質を知り、ベトナムに飛び火した共産主義を阻止しなければならない羽目に陥った。つまり米国は日本のかつての役割を肩代わりしなければならなくなったのである。米国がアジアにおける日本の役割の貫徹を阻止したために、ベトナムで戦う羽目になった。日本が支那におけるゲリラ戦に苦しんだのと同様に、米国もベトナムで苦しんで勝てず、厭戦になったという相似性がある。

 それ以上に、両国の戦いにおける政治的意味は類似していた。ある意味で日本の代わりに米国はベトナムで戦ったと言えるのだが、日本の邪魔をしなければベトナム戦争はなかったのだから、既に支那で大量の犠牲を払った日本が直接参戦する義理はない。つまり、アメリカは過去の間違いのつけをベトナムで払わされたのである。

 だが日米戦争なかりせば、アジアの独立はなかったのだから日本としては、アメリカのベトナム共産主義との戦いに、消極的協力をするのもおかしな話しではない。その意味で沖縄基地を利用させるなど、後方支援をしたのは正当である。すなわち日本のベトナム戦争に対する態度は、結果論ではあるが正しかったのである。

 共産主義を標榜しているとは言えども、現在では中共もベトナムも単なる独裁国家であって、正確には共産主義国家ではなくなっている。両国とも既に市場主義を取り入れた資本主義経済を導入している。中共の覇権主義的行動は、統一された支那政権の伝統的行動であって、共産主義とは関係がない。その意味で日本に代わってアジアでのプレゼンスを得た米国が、日本に変わって中共と対峙するのは当然である。

 米国がアジアにおけるプレゼンスを維持する実力と意志を、日本が阻止あるいは引き受ける覚悟がない以上、日本は米国を支援して中共と対峙して、中共の侵略からアジアの保全を全うしなければならない立場にある。現在では日本が独力でアジアの保全をすることができないというのは、精神衛生上有難くない話であるが、大東亜戦争で証明されてしまった日本の国力や地理的な縦深性のなさから、米国の協力者となってアジアの保全を図るというのは、日本の縦深性の不足を米国に補完してもらえるという意味では有利であるともいえる。

結果論ではあるが、戦前の日本のように、アジアで孤独に悩むということはなくなった。その意味で支那事変と大東亜戦争を戦ったということは、現在の日本にとって有意義であった。その結果を現在の日本が有効に活用できず、中共に翻弄されているというのは、大東亜戦争の負の遺産である。だが両者を総合すれば、日本は戦前に比べ有利になったと言える。それを利用するのが今後の日本の役割である。

いつの日にかロシアは覇権国家として再生する。そのときにロシアと支那とは現在とは異なり両立しえないことは、歴史の教えるところである。そのときに支那は分裂しているかもしれない。分裂した支那をそのまま保全することが、支那大陸を構成する各民族の幸福である。その幸福のために、やはり米国と日本は協力してロシアと対峙すべきである。

日本は米国と異なり地理的にアジアに存在し、アジア唯一の近代的国民国家であるという、戦前からの立場が不変である以上、米国は日本の協力が不可欠である。大東亜戦争を戦った米国には、その事実を教訓として知っていなければならない。知らずば日本は教えなければならない。ロシアが復活する日まで日本と米国は協力して、支那と対峙してアジアを保全しなければならないのも両国の義務である。

支那と日米の対峙の目標はアジアの保全ばかりではない。支那大陸における健全な国民国家の成立である。支那大陸において未だかつて、近代的な国民国家が成立したことはない。だが支那系住民が居る台湾において、かなりその目標を達成しつつあることは、大陸にも健全な国民国家が成立しえることを証明している。

健全な国民国家の成立を阻んでいるのは、国家規模の問題と民族の錯綜と大陸における覇権志向の原因ともいえる統一願望である。統一願望は統一が成ったとしても、チベット侵略のように、更なる「統一」を求めて侵略する。これが覇権志向である。現代の中共は世界制覇の野望さえ抱いているように見える。支那においては日本と異なり、古来支配者と被支配者は厳然と区別されている。

支配者は自らの幸福のために統一と拡大を望む。そして大部分の被支配者は抑圧と収奪の犠牲となる。この不幸の連鎖を断ち切るのは、各民族が分立して独立する、支那の分裂しかない。分裂は適正規模の国民国家の成立と、類似民族の国内共存による安定と民度の向上をもたらす。

支那は漢民族と呼ばれる多数派民族が支配しているとされる。しかし漢民族というのはフィクションである。それが証拠に漢民族といえども北京語、広東語、福建語など全く異なる言語を話していることはよく知られている。漢字表記のない、漢語すら存在する。そもそも現代「漢民族」は漢文を読めない。だから漢字を共通項とする漢民族などはフィクションだと言うのである。

 互いに通じない異言語を話すものが、同一民族であろうはずがない。異言語とはいえ英語のルーツは古ドイツ語である。そのような意味における近親性すら、支那における各言語には少ないと考えられる。支那は古来、外来民族による支配を繰り返してきた。その外来民族が自らの王朝が滅んだ後にも支那大陸の各地にまとまって定住した。

そのグループが上記の北京、広東、福建などの異なる言語を話すのである。すなわち古来から続く、侵入してきた外来民族の象徴が、相違する各言語である。すなわち北京語と広東語を話すものは民族のルーツが異なる。ホームページの「支那論」で説明したが、北京語を母語として話すのは、実は満州族であるというように。

支那人が血族しか信用しないというのは、この雑多な異民族性による。血族すなわち同一民族しか信用しないのである。それは大陸が常に外来民族の侵略支配と定住を繰り返した、モザイクのような地域であったためである。血族すなわち同一民族、つまり同一言語のグループだけで国家を構成するようになれば、この不幸は解消する。

この分裂が始まったとき、日米は協力して分裂を支援しなければならない。そのためには米国人に支那大陸の本質はヨーロッパのように、異民族が各地に固まって定住しているモザイクのような地域であり、統一は住民に不幸しかもたらさない、ということを理解させることである。そして統一志向が覇権志向の原因であり、アジアの不安定化の原因であるということを理解させなければならない。少なくとも支那人以外は知っておかなければならない。

この際に潜在的な危険がある。それは米国がハワイ併合以来、支那に野心を持ってきたことである。現在の中共は軍事力のみならず、地理と人口の縦深性により侵攻しがたいために、米国は経済的権益の追求だけに止めているが、分裂した国民国家となった支那に対しては、米国は本来の領土的野心をもたげることなしとしない、と考えなければならないであろう。

そのときかつてのロシア帝国がそうであったように、復活したロシアも支那を狙うであろう。このとき支那大陸の保全のために、ひいてはアジアの保全のために、何らかの形で戦うのが日本の役割である。アジアの安定なくしては日本の平和はない

もう一つは米国の抜きがたい有色人種への蔑視である。そのことに日本はペリー来航以来悩まされてきた。排日移民法、戦時中の日系人強制収容、東京大空襲や原爆投下など市民への無差別大量殺害などである。すなわち日本人に対する欧米人、従って米国人にも表面上、現在はなりを潜めているが、絶対的な人種偏見がある。そのことを日本人は決して忘れてはならない。米国は日本が対等な同盟関係を求めた場合、その偏見が絶対に妨害するであろう。

米国が日本になした仕打ちは前述のようであって、米軍が人道的な軍隊などではなく、南方戦線や沖縄、本土において民間人の殺戮と暴行を行ったというのが本当である。しかしその故に同盟が出来ない、という結論を下すのは感情論である。

欧米人も究極において日本人と異なり暴力的である。だがロシア人や支那人と異なり表面上はルールを確立して秩序を保っている。文明を装っているのである。さらにウェストファリア体制を守ろうとするヨーロッパと、蹂躙する米国とは、これまた異なる。だが彼らがギリシアローマ文明の後継ではなく、ゲルマン、ノルマンの蛮族の出身で、倦むことなく争いを繰り返したのは遠い昔の話ではない。二千年の歴史の経過で暫時文明化した日本列島と異なる。

楠正成が糞尿をかけて敵軍を撃退した、などというおおらかな話しが讃えられる世界と、十字軍とイスラムの攻防のように、巨大兵器を開発して戦闘を繰り返す文明とは、世界観が異なる。近代においても同一民族でありながら米英は独立戦争を戦った。米国内でも南北戦争という殺戮を繰り返した。

ともかくも彼らは和解し、米英は断ち難い同盟国であり、米国民は南北ともに対外戦争に協力できている。しかし日本にした米国の仕打ちを忘れてはならない。だがそれ故に同盟が出来ないとしたら米英ですら同盟もできず、米国の南北統一もない。

これらの同盟と異なるのは前述のように、日米には人種偏見という抜きがたい溝がある。しかし多民族国家である米国にとって人種偏見は、自らにも向けられた刃であることを自覚しているはずである。それゆえ日本は人種偏見がなきがごとく、米国に対応することができるのである。

 日米戦争を戦ったのは必ずしも米国にも反感だけを残したのではない。米海軍には日本海海戦に大勝した東郷平八郎に対する伝統的憧憬がある。日本海海戦は最初の近代的大海戦であった。米海軍の将帥はアドミラル・トーゴーの海軍と戦うと奮い立った者が多いという。大東亜戦争で敗れはしたものの、彼らはカミカゼ攻撃の恐ろしさを知っている。いざとなったときの、日本に対する畏怖はある。

 英米人には伝統的に良く戦った相手に対する尊敬というものがある。その点は日本人と共通するところはある。それは個人から組織にまで及ぶことがある。相手が人種偏見の対象となる人種であっても、よく戦った相手には例外的に敬意を払う

例えば黒人であっても人種偏見にめげず勉学して弁護士や政治家となり、白人と対等以上の仕事をしている者に対しては名誉白人として、白人と同一の居住区に住めるし、対等に喧嘩をしながら仕事が出来る可能性はある。白豪主義の典型のオーストラリアですら、シドニー湾を襲撃して戦没した、特殊潜航艇の日本人乗員に敬意を払うために、反対を押し切って海軍葬をした

 日本人が米国人の人種偏見を打破して対等の同盟ができるとしたら、その資産は明治以来の日本が、苛烈な戦争を戦い抜いたことである。その極限が特攻隊である。西洋人は日本人と異なり、数百年の戦いを続けてきた戦争巧者であり、戦争の勝利に向けてハード、ソフト共に天才的な努力をそそぎ、才能を発揮することは日本人の及ぶところではない

だが日本人が故里のために生命を惜しまない精神を潜在させていることを知る限り、対等の関係が成り立ちうる。だが日本にも朝日新聞のような一部のマスコミのように、生命どころかカネの欲しさと脅しに屈して、故里を打っても恥じない者たちが増えている。彼らはパトロンである中共からも侮蔑される存在なのだが、現実には大きな日本の脅威である。

一方で米国は、ある意味支那には憧れのようなものを持っていると推察される。それが戦前、支那を支援した原因のひとつである。それは支那が文明発祥の地とされるのに対して、わずか二百年余の歴史しかないというコンプレックスであろう。ところが現実の支那はみじめな後進国であるということが、ますます支援を動機付ける。日本に対する蔑視と支那に対する憧れが近年に至っても、時々日米関係を阻害している。

 日本には古来支那大陸との葛藤があった。これに幕末以来、ロシアと米国が参加して日本を悩ませた。隣国朝鮮は常にその間にあって日和見をする自主性のない存在であった。このパターンは現在でも生きている。それが二千年の歴史が教えるものである。

 日本人は中国四千年の歴史というフィクションを忘れなければならない。支那は支那大陸という地域の歴史であって、連続した民族の歴史ではない。繰り返すが、漢民族というものはない。支那は飢餓と戦乱により民族の血統が何回も断絶した地域である。長江文明の支那人は黄河文明の支那人ではない。黄河文明の支那人は秦漢の支那人ではない。

 秦漢の支那人は隋唐の支那人ではない。隋唐の支那人は宋の支那人ではない。宋の支那人は元の支那人ではない。元の支那人は明の支那人ではない。明の支那人は清の支那人ではない。清の支那人は中共の支那人ではない。これらの間には風俗、文明、言語、血統のうちのいくつかが、必ず断絶して不連続である。異民族が漢化されたのではない。前にいた支那の住民が、次に来た異民族に滅亡あるいは同化されたのでもない。支那大陸には次々に異民族が侵入して、先住の民族を押のけて定住し、共存した結果が現在の支那大陸である。

 だから漢民族の四千年の歴史はない。日本人は戦前の日本人が持っていたような、文明の先達としての中国に対する憧憬を捨てるべきである。支那に憧れて殺された松井石根を見習うべきではない。冷徹に支那大陸の覇権争いとして捉えて対処するべきである。それが大陸の住民個人個人の幸福を達成するゆえんであるというのである。


維新以後の日本の世界貢献

2016-02-20 14:18:42 | 歴史

 欧米にしても支那にしても、海外への進出とは他民族を犠牲にして、自己の最大限の利益を求めることである。すなわち侵略である。世界史的にはそれが当たり前である。もちろん支那やロシアが現に行っているように、現在でもそのことは不変である。それも自己とは必ずしも自国全体ではない。海外へ行った個人個人と考えるべきである。そもそも欧米人にも支那人にも、国のためになどという精神はないのである。

その中で、維新から敗戦までの日本だけが例外であった。確かに日本も朝鮮や満洲に進出した。しかしそれは地政学観点から日本を守る、防衛的なものから始まったし、経済的利益を得ようとするようになってからも、防衛的な考え方が基本であった。確かに日本人とて色々な手合いがいるから、大陸でろくでもないことをした人間もいる。

しかし、それは例外である。例外を極大に見せれば、例外には見えない。プロパガンダによって、例外を日本人の全体像であるかのように見せられているような状況に、現代日本は陥っている悲惨な状況にある。いずれにしても、日本は自国の為に防衛的なことをしながらも、他民族を思いやり、結果としてもアジア、ひいては全世界の植民地を解放した。世界史的に稀有なことである。モンゴルがヨーロッパまで進出して、初めて世界がつながったことに匹敵する事績である。モンゴルによって世界史が始まった、と言ったのは岡田英弘氏である。

支那のスプラトリー侵略を言うが、それが世界の常態であり、日本は例外なのである。最近ドイツの第四帝国化をいう論者が現れた。当然であろう。英国が失ったのは植民地であり、本土ではない。他の連合国側の西欧諸国も同様で、第二次大戦で旧来の本土を失った訳ではない。それどころか、東ティモール問題やミャンマーでは、隠れてかつての宗主国としての権利を行使している。

それに比べ敗戦によってドイツが失ったものは大きい。領土や人間の損失ばかりでなく、西欧が行ってきたユダヤ人迫害、という罪を最大限にしたうえで、あたかもドイツだけの罪とされて、名誉まで失った。ドイツは名誉回復を画策しているのだろう。日本と違ってドイツは敗戦には慣れているのである。

日下公人氏と宮脇淳子氏が「日本がつくる世界史」という本で現代世界に流布している世界史は嘘と不公平ばかりであるが、公平で本当の世界史が書けるのは日本人だけだ、と述べている。その根底には、小生が述べたように、日本が維新以後、世界へ多大な貢献をしている、という認識があるはずである。


日本の歴史戦の苦境の原因とは

2016-01-31 13:45:49 | 歴史

 現代日本において、慰安婦や南京事件の問題で、特に中韓から非難されているのを保守系の人たちは「歴史戦」と呼称することがあるが、日本の未来の安寧にとって正に戦争に等しい、という意味では正しい。だが歴史戦は苦境である。そしてなぜ日本だけが歴史戦を戦っているのか。

 かつてはドイツも、ユダヤ人の大虐殺、という歴史戦を戦っていたが、完全にそれが終えた訳ではない。元西ドイツのヴイツゼッカー大統領は「荒れ野の40年」という演説をして一応の決着をみたと考えられている。これは噴飯もので、実はドイツが行っていたとされる残虐行為には一言も謝罪していないのは、きちんと読めば分かる。例えば「ことにドイツの強制収容所で命を奪われた六百万のユダヤ人を思い浮かべます。」(岩波ブックレットP11)と書かれている。

最大の残虐行為とされる、ユダヤ人虐殺に対して「謝罪する」とは言わず「思い浮かべる」だけなのである。思い浮かべるのだけなら、被害者のユダヤ人だって「思い浮かべる」であろう。なのに多くの日本人は、ドイツは謝罪した、と騙されている。騙されているのではない、日本を批判する口実にしているだけである。

 いずれにしても、ドイツは全ての批判をナチスに押しつけて、ドイツ民族の罪ではない、と逃げることに一応成功した。だが、事態が沈静化しただけで、よく考えればドイツ民族全体にも罪がある、ということを完全に否定することに成功した訳ではない。ドイツの歴史に突き刺さった棘は、完全には取り除かれてはいない。

 なるほどナチスドイツは無辜の何百万人と言うユダヤ人を殺害したのであろう。しかし、共産ロシアの殺害した人々、毛沢東が殺害した人々の人数は遥かに大きい。アメリカにしても、黒人の奴隷を大量に輸入し獣扱いした。アメリカインディアンを正義の名のもとに、事実上の民族絶滅をさせた。米国が、フィリピン独立運動や第二次大戦中にフィリピンや日本で殺害した民間人は百万人どころではない。欧米諸国やロシアのユダヤ人虐待は常態化していた。ナチスドイツの迫害を知りながら、亡命しようとするユダヤ人の受け入れを拒否したのは、他ならぬ米国であるが、そのことに口を閉じている。

 なのに日独だけが歴史戦で圧迫されているのは、何故であろうか。ことは簡単である。戦争に負けたからである。敗戦民族が勝者に歴史を奪われるのは、古来、東西を問わず常識であった。しかし、ヨーロッパにおけるウェストファリア条約以来の、戦時国際法の成立によって、戦争はルール化されて、勝者が賠償を取り、講和条約の成立をもって戦争は清算されることとなった。

 勝者が正義を主張する必要のない時代が成立し始めたのである。国家間の紛争は戦争で決着し、正義を問わない時代が、少なくともヨーロッパでは成立した。幕末の日本は「国際公法」をそのように理解し、文明国として国際法の世界に参加する権利を得ようとし、日清日露の戦役で、目的は達成せられたかにみえた。

 これを破壊したのは米国である。南北戦争とは米国内の内戦という事にされているが、実は北軍と南軍という国家間の戦争であった。それを隠蔽する為に北軍は奴隷解放と言う、虚偽の正義のスローガンを掲げ、勝利すると南軍の指導者に悪のレッテルを貼り、苛酷な処分をした。

 第一次大戦では、勝者がドイツ皇帝を訴追する、という正義を主張したが亡命されて、失敗した。あまりにも戦争による被害が大きかったために、ドイツに天文学的な賠償を要求し、ウェストファリア体制は崩壊の兆しを見せたのである。さらに第二次大戦ではエスカレートし、米国は日独の無条件降伏を宣言した。

 負けを悟った国が、講和を申し出て戦争が終わるという、ウェストファリア体制は無視されたのである。無条件降伏は、単に和平交渉を拒否するだけではない。勝者の絶対的正義を前提とするのである。その結果、従前の国際法になかった、政治家を含む戦争指導者を処刑するという、ニュルンベルグ裁判、東京裁判なるものを強行した。元来国際法で戦争犯罪で処断されるのは、民間人や捕虜の違法殺害という戦時国際法違反者に限られていたのである。

 従って、東京裁判などでは、勝者が正義を主張するために、平和や人道に対する罪、などというかつてない罪状が主張された。そのために南京大虐殺なるものがねつ造された他、日独の残虐行為だけが誇張された上に、一方的に裁かれた。これに対してドレスデン空襲や東京大空襲、原爆投下、ベルリンなどドイツにおける米ソの膨大な残虐行為などは、歯牙にもかけられなかった

 よく知られているように、国際連合という訳は正確ではなく、枢軸国に対する連合国の意味である。従って国連の根本的性格とは、第二次大戦の連合国の正義を固定化するもので、それに反するものを許さないのである。それを象徴するものが、いわゆる国連憲章の旧敵国条項である。

 第53条には、強制行動は安全保障理事会の許可を必要とするが、107条の規定又は旧敵国の侵略政策を防止する場合は、許可を必要としない、とされている。107条とは、国連憲章のいかなる規定も、旧敵国に対抗していた国が、戦争の結果としてとった行動と得たものを無効にしない、ということが書かれている。

 煎じ詰めて言えば、日独などの旧敵国の行動が、連合国の一部の国に気に入らない行動をとった場合には、安保理事会の許可なく、当該国は旧敵国に対して軍事行動とる自由がある、という事である。これは解釈の幅がある恐ろしい条項である。尖閣や北方領土問題で日本が、中国やロシアの気に入らない行動をとった場合に、戦争をしかけてもよい、ということにもなりかねないのである。

 もし、旧敵国条項が廃止されたとしても、日本は連合国の正義の範囲の中で行動しなければならない、ということに変わりはない。大東亜戦争は侵略ではなく、英米に追い詰められた自衛行動であった、などと政府が公然と主張することはまかりならぬ、ということである。全ての歴史戦の不利の根本原因はここにある。

 多くの愚かな日本人は、歴史上初めての外国による占領とWGIPという日本人洗脳計画による、宣伝、検閲等によって、日本の戦前戦中の行動を全て悪と看做すようになった。この結果「南京大虐殺」などというものが事実として固定化された。何と慰安婦問題などは、日韓条約締結後、何十年と問題にされていなかったのに、吉田某の慰安婦強制連行の虚言や、朝日新聞のキャンペーンによって、脚光をあびてしまった。

 韓国人の立場になって考えても見るが良い。慰安婦がいたのはかれらも百も承知であったが、売春と言う行為を公然と語りはしなかった。ところが当の日本人自身が、慰安婦の強制連行や、性奴隷などと言い始めたのである。それならば、韓国人は日本人を非難しないわけにはいかないのである。

 韓国人がアメリカで慰安婦のキャンペーンをしているのを非難する保守系の人間は多いが、そうしなければならないように追い込んだのは、WGIPによって日本の過去は全て悪で、悪を嘘までついて弾劾することが正義だと信じ込まされた、倒錯した日本人自身である。彼等の考えが変わらぬ限り、歴史戦は負けるであろう。

 その点ドイツ人は賢明である。彼等には日本に対するほど周到なWGIPはなかったし、勝利も敗北体験し慣れている。彼等は敗者としての立場をわきまえ、周到に行動し、いつか汚名を晴らすであろう。少なくとも事実に反するものを訂正し、連合国の悪事も追求し、正当なバランスをとるようになるであろう。既にワイツゼッカーの「荒野の40年」にはその萌芽がみられる。ドレスデン爆撃に対する非難等の連合国の非道もきちんと批判しているのである。その観点から言えば慰安婦問題や南京大虐殺、靖国問題の歴史戦で日本が劣勢にある根本原因は日本人自身にある。