毎日のできごとの反省

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東條英機論考

2019-06-21 22:58:52 | 歴史

◎雑誌「丸」の連載「数学者の新戦争論」(渡部由輝氏筆)の平成30年10月号に「東条英機論」がある。東條英機に対する批判論の典型なので、まずこれについて論じる。揚げ足取りから始める。タイトルの東条からして変である。故意に東条と書かれている。それに筆者の偏見が現れているとしか考えにくい。小生の苗字も旧字が含まれているが、普段は略字で済ますが、役所への書類ばかりではなく、真面目に書くときには略字には絶対にしない。だから筆者は故意に侮蔑感を込めて略字にしているとしか思えないのである。そうでなくても不快である。司馬遼太郎の「竜馬がゆく」は、敢えて正字の龍を使わないのは、ノンフィクションではなく、フィクションの小説だからである、と言う説があるがその通りであろう。人物の漢字表記とは、かくも重いものと考える次第である。

 

 タイトルの横に要約が書いてある。曰く。 

 点取り虫で戦闘経験も人望も大局観もなかったと酷評される東条英機首相だが、逆に私利・私欲なかった!

 

 戦闘経験がなかった、と言う点はいいがかりも過ぎる。本人が戦闘に参加することを拒絶したというのならともかく、単に戦場に行く機会がなかったのに過ぎない。東條は主として軍事官僚と政治家としての道を歩んできた。その見識について戦闘経験がなければならない、と言う道理はないのである。

山本五十六は日露戦争で、指を失うという戦闘を経験している。しかし、その結果山本が軍事に対する大局観があったとは言い難い。永年つちかってきた海軍のドクトリンを突如変更して真珠湾攻撃を強行した。装備、編成、訓練、作戦計画は、そのドクトリンに基づいたものだった。変更するなら、それらの装備、編成、訓練、作戦計画を有効活用するものでなければならない。現に米軍は、長い年月練ったオレンジ計画を対日戦の基本としたのである。真珠湾攻撃への批判は最近とみに強まっている。山本は緒戦の大戦果に浮かれた挙句、ドゥリットルの本土爆撃に狼狽して、ミッドウェー作戦を強行して失敗したにも拘わらず、責任をとらないどころか、敗北の秘密を知る兵卒を苛酷な戦場に送り込んで糊塗した。戦場経験がどこに生きているのであろうか。それならば、今の防衛省制服組の幹部は皆無能であるというのか。

本文の批判に入る。努力して勉強して成績が良くなったというのだが、「その努力とはひたすら教科書の内容を暗記することであったらしいから・・」点取り虫であったという。維新前の教養とは、ほとんど四書五経などを丸暗記することから始まる。しかし、吉田松陰らの見識はそれにとどまるものではなかったことはよく知られている。過去の知識は絶対ではない。しかし、先人の経験を吸収することは絶対的に必要である。問題はそこにとどまるか否かである。東條が単なる軍事官僚の域を超える人物であったことは、後で例証する。

渡部氏自身が「戦時における名宰相も教育や修業では作れない。自然に生まれるのを待つしかない。」と書いているではないか。がり勉であろうとなかろうと、名宰相は自然に生まれると言っているのと同然ではないか。かといって、教育や修業はいらない、と言うのではあるまい。渡部氏は桂太郎の軍歴とそれに陶冶された人徳を称賛している。それは是とする。しかし、戦場経験のない人格の陶冶も、戦時における名宰相を生まないとも言えないのである。「自然に生まれるのを待つしかない。」というのはそのことを言っているはずである。

渡部氏は保阪正康氏の「東条さんのためなら・・・」という部下や同僚は全くといっていいほどなかった、という酷評を取り上げている。大東亜戦争の意義を全く認めない、保阪正康氏なら言うであろう。それなら言う。東條の人物を知るためには赤松貞雄氏の「東條秘書官機密日誌」が最適である。赤松氏は、東條さんとの十五年間(P30)という項のはじめに、こう書く。読者に対する注意書きである。

 

「東條さんはすでに歴史上の人物としてクローズアップされ、多くの人によって論ぜられ、今後ともさまざまに発表されるであろう。その発表された内容が果たして真実であるかどうか、私の述べている内容と食い違いがあった場合、果たして私の述べていることに確実性があるや否や、果たしてどちらを信用してよいか、という問題が起るかも知れない。このような場合に、正しく対処したいからである。」

 

として、氏の東條との関係が、昭和三年の氏の青年将校時代から、首相秘書官を経て、東條刑死まで続き、家族以外では東條を最も知る人物であると述べる。ここまで熟考した文章なのである。渡部氏のように、軽薄な人物評価が出ることなどは、予想の上で、信用してくれ、と語りかけるのである。赤松によれば東條は、尊皇・忠誠の人であり、責任感が旺盛で、行政手腕抜群、人情に厚かったと言うのである。何よりも赤松が東條の人物を慕っているのである。保阪正康氏の「東条さんのためなら・・・」という部下や同僚は全くといっていいほどなかった、という酷評は嘘であることは、これで明白である。

この一文の中には、ゴミ箱を見て廻ったことをはじめとする、東條を批判する多くの逸話が語られており、これらが誤解であることを東條の真意を持って逐一説明している。これらのことは同書が、東條がいかなる人物であったかを知る最適なものであることを説明している。小生は同書を東條の事績を例証するためには引用しない。あくまでも人物評である。赤松氏は近くにいただけで、必ずしも東條の見識を示す事績の全てを知っている訳ではないのである。渡部氏はこの書を読んだのであろうか。もし読んだのなら如何なる根拠を持って赤松氏による人物評を覆すと言うのだろうか。読んでいないのなら勉強不足としかいいようがない。軽薄と言う所以である。

なお、同書の題名と本文の見出しには「東條」と正字が使われているのに、本文の文章にはことごとく「東条」とされている。これは、常用漢字を使用しました、と出版社による断りが入っている。発刊当時、既に物故していた赤松氏の本意ではないのである。なお同書の、「はじめに」と「解説に代えて」が半藤一利氏であるのは意外な気がする。しかし、半藤氏の赤松評価は極めて高い。その赤松氏の東條評がかくなるものなのである。残念ながら赤松氏の本は、国会図書館やインターネットを調べる限り、昭和60年の初版以降再版もされなければ、文庫化もされていないようである。小生の蔵書が見つからないので、急いで図書館で借りて再読したが、何と今ではあり得ない図書カード付の古本だった。

 戦場経験もなく、人望もないという説を2ページ近くも費やしておきながら、あげくに渡部氏は「・・・実戦経験など、戦時宰相たる者のそれほどの必要条件ではないかも知れない。人望も絶対の条件ではなかったりするのかも知れない。ときには国民一般や周囲のことごとくが反対しても『千万人といえども我行かん』の気概で押し切るような我の強さも必要だったのかもしれない。」というから呆れる。ただし、それには大局観の裏付けが必要である、というのだ。

東條には大局観がなかったといって例証するのは、「太平洋戦争」では①長期戦は避ける、②英米側につくか、枢軸側につくかの選択である、という。

 

①は石油を米国に八割も頼っている日本が、アメリカと戦争しようとすることが誤っている、というのだ。これほどの誤認はあるまい。しかし、これがすんなり受け入れられるほど、現代日本の常識は狂っている。東條の陸軍は対米戦ではなく、対ソ戦に備えていた。これは現実の問題として必要であり、現にソ連は中国赤化のために、中国自身ばかりではなく米国や日本の中枢にも謀略を仕掛けていた。対ソ戦略は必要なものであり、武備あっての対ソ戦略である。そのために満洲国は、現地住民の支持もあって成立したのである。

 反対に対米戦に備えていたのは海軍の方である。海軍は陸軍のように戦略によってではなく、壊滅したロシア海軍に代わる仮想敵として、建艦予算獲得のために対米艦隊決戦を想定していたのである。だから実は、海軍中枢は対米戦をしたくないと考えていた。実際問題として政府、陸海軍ともに対米戦は絶対に避けたいと考えていたのである。にもかかわらず、日本の国内事情だけが原因で対米戦が発生したごとく言うのは、東京裁判史観の偏狭な観念の典型である。最大限譲歩しても、米国は裏口から対独戦参戦のために、対日戦を欲していたのが定説である。既に米国がソ連の陰謀も含めて、対日戦を望んでいたことは常識となりつつある。日本と戦争をしたかったのはアメリカであって日本ではない

 

②は①で述べたように、英米につくという選択肢はなかった。英米ともに公然と中国に武器支援していて、実質的に日本と敵対し挑発し続けていたのは明白だった。どちらかを選択しろと言うなら独伊しかなかったのである。海軍が一時三国同盟に反対していたのは、英米への親近感や外交戦略によるものではない。三国同盟は、日独防共協定の延長で、ソ連と敵対するはずのものであった。すると対ソ戦に備える陸軍が、予算獲得上有利となる。それで反対したのである。

 だから、独ソ不可侵条約が突如結ばれると、三国同盟にソ連参加の可能性が出る。つまり、対ソ戦はなくなり対米戦向きになる。だから海軍も三国同盟に賛成に転じたのである。海軍の動きは全て「予算獲得」という典型的官僚発想のポジショントークである。それに石油を絶対的に必要としていたのは海軍であった。石油を米国に頼っているのに、東條が石油のために対米戦を行うのは大局観がない、と批判すること自体が見当違いなのである。

 東條が陸軍大臣として対米開戦を主張したのは、日本がアメリカに散々追い詰められ、このままでは日本が戦うことなく滅びる、と判断したからである。だから東條は、自分が首相に任命されたのは、天皇陛下の対米開戦回避の意向によるものであったことを知ると、開戦回避に全力を尽くした。しかし、対日開戦を望む米国の苛酷な挑発に政府は全力を尽くしたが甲斐なく、御前会議で対米開戦を決定すると、天皇陛下の意にそむくことに追い込まれたことを悔いて、東條は自宅で嗚咽した。このような官僚がどこにいようか。

 一方の山本五十六は真珠湾攻撃の成功に舞い上がり、ドゥリットルの本土空襲に慌てふためいて、ミッドウェー作戦を強行したことは前述した。ミッドウェーで空母の被弾が次々と報じられると、またやられたか、とうそぶいていたと言う。指揮義務放棄である。このような説は、敗北にも泰然自若としていたと言う神話作りとしか考えられない。この言説は山本批判の人士ばかりによるものではないからである。このような指揮官がいるものか。本当とするならば東條の誠意とは対極にある。

 渡部氏は東條の大局観のなさとして、「東条はガダルカナルの惨状を知らされておらず、そのためビルマ作戦を承認し、戦況をさらに悪化させたと戦後になって述懐しているがお粗末すぎる。参謀本部の『雰囲気』でそのことを洞察しなければならない」と述べるのだが、あまりに東條に万能を求めている。東京裁判史観の持ち主が、日本人や日本軍にだけ、世界史上あり得ない完全無欠を求めて止まないことに類する。

そもそも無理筋のガダルカナルに固執したのは海軍であり、山本五十六は航空戦史上初めての、無理な遠距離飛行による作戦で、大量の艦上機と搭乗員を無駄に損耗し、後の敗戦に繋がった。後の米軍ですら、日本本土空襲の援護戦闘機も、相当な無理をしていたのである。海軍が当初の大本営決定の作戦範囲を逸脱して無限に戦線を拡大したのが、最大の敗因である。海軍は米軍に対する補給阻止も、輸送船の船団護衛も適切に行わず、ガダルカナルを餓島とした張本人である。ガ島で陸軍兵士が餓えている最中に、それと知りながら、フルコースの食事を満喫していたのは山本五十六その人であった。もっともそれは、英海軍の真似をした海軍の伝統に従っただけなのである、と弁じておこう。

自殺の失敗問題である。東條は連合軍による拘束が迫ると、自殺を図ったが失敗した。「みっともないことこの上ない。」「わが国においては古来、武人たる者の最低限有すべき『覚悟』であった」とし終戦時自決した、政府・軍関係者は10名以上であり、東條だけが失敗した、と酷評する。

いちゃもんから始めよう。終戦時自決した、政府・軍関係者は10名以上どころではない。桁を間違えている。氏は、著名人だけを数えたのであろう。終戦時自決した人々は民間人もいるし、一兵卒もいる。世紀の自決(*)という本には、終戦時自決した、軍人軍属五百六十八柱の自決者のうち、百四十四柱の方々の遺書が記録されている。大将から、二等兵、軍の嘱託、従軍看護婦まで様々な人々の記録である。この中には純粋な民間人は含まれていないから、自決者総数は相当な数に上る。この数学者はどこを見ているのであろう。

靖国神社に東條英機の魂が祀られている。遊就館に行って遺影を見るが良い。東條英機の隣には一兵卒の遺影が飾られている。英霊の魂には大将も一兵卒にも区別はないのである。

そもそも東條は、連合軍がしかるべき手続きを踏んでくるならば、自決するつもりはなかった。戦陣訓は政治家であった東條には適用されない。東條は、正規の手続きを踏んで米国が要請するなら出頭する覚悟であった。反対に無法にも連合軍が押しかけてくるなら自決するつもりだったのである。筋はしっかり通っている。自決とそうでない両方の心境を保持するには強靭な意志がいる。どうせなら自決した方が楽だったのである。失敗したのは、東條を晒し者にするために米軍が瀕死の東條に大量の輸血をして助けたからである。拳銃は切腹より確実な自決の方法である。大西瀧次郎は切腹して介錯を拒否したから、十数時間生きて果てた。助ける者がいれば生き残ったのである。大西の最後は立派であった。

結果から言えば東條は、恥をさらして生き残ることによって、昭和天皇を守り日本民族を救った。我々は感謝すべきである。東京裁判なるもので弁舌を尽し、日本を擁護した後、処刑された。殺害された、というべきであろう。東條自身は、戦争犯罪人であることは拒否し、開戦時の政治責任者として国民に対する責任をとるべく死んだのは遺書に語られている。その従容とした死は、決して一時の修練でできるものではない。生涯に渡る陶冶のなせるわざである。みっともない、とはよく言えたものである。もっとも東條は後年国民からこのような悪罵をあびせられることは覚悟の上であった。

 渡部氏の「東條には私利私欲がなかった」という点に関しては些末なので省略する。小生は数学者の東條英機論だというから、意外な論点を期待したのだが、実際には巷間に溢れている東條批判論を敷衍したのに過ぎないのには、正直がっかりした。

 

◎それでは、小生の見る東條の大局観について例示する。これらは、単なるがり勉の官僚発想からは絶対に生まれ得ないものである。海軍の中枢で一人としてこのようなものがいたか。陸軍の石原莞爾は大戦略を持って、満洲事変を実行した。しかし、本人の意に反して軍律違反の責任は取り得なかった。それで後に後輩の華北政権の樹立を制止すると、満洲事変を起こした人が、と言われてぐうの音も出なかった。小生は石原の思想や戦略を評価する。しかし石原にはその思想と戦略を実行する力には、最終的には欠けていた、と言わざるを得ない。戦時中の会見で東條を石原が面罵したのは有名である。しかし、石原には面罵した所以を実行する力は既に持たなかったのである。理屈で勝っただけである。

 

まずは大東亜会議の開催である。詳細は深田祐介氏の「黎明の世紀」を読まれたい。東アジアの国と多くの欧米植民地の代表を集め、東亜の自立を宣言したのである。英米の大西洋憲章が、これらの地域の独立を認めないインチキなものであるのに比べ、大東亜会議は実のあるものであり、戦後のアジア諸国の独立に直結している。

 提案したのは、重光葵であるが、それに賛同し実現に奔走したのは、東條英機その人である。東條がいなかったら実現しなかったと言っても過言ではない。だから東京裁判史観の持ち主は故意に大東亜会議を過小評するし、渡部氏は触れさえしない。知らないとしたら東條を論ずる資格はない。

 

 次はユダヤ人問題である。ナチスのユダヤ人迫害に対する日本人の救出は、外務省の杉原千畝が有名であるが、陸軍の樋口季一郎は、安江大佐とともに亡命ユダヤ人救出に奔走した。当時の東條関東軍参謀長は外務省の方針に従って、ユダヤ人脱出ルートを閉鎖しようとした。しかし、樋口が説得すると方針を一変し、全責任を取るとして脱出支援を承認したのである。当時日独防共協定を結んでいた、ドイツ外務省の抗議に対して東條は「当然による人道上の配慮によって行ったものだ」と一蹴した。満洲ルートによる亡命ユダヤ人は3,500余人に及んでいる。これは東條の決断なしには実現しなかったものである。

 

東京裁判における東條自筆の宣誓供述書である。東條の大東亜戦争に至る歴史的見識がなみなみならぬものであることは、この宣誓供述書を読めば分かる。ほとんど資料もなく、筆記具もままならない中で、宣誓供述書を書いたのである。小生は、昔本文だけ出版されたものを買って、要約のメモを作ったことがある。最近では、解説付きも出版されているから便利である。よく読んでいただきたい。

 

インパール作戦は大東亜戦争でも無謀な作戦の典型とされている。しかし、英軍の指揮官によれば、日本にも勝機があったのである。しかし、空挺作戦と言う奇策がこれを打ち砕いた。チャンドラボースは、作戦中止しようとする日本軍に最後まで抵抗した。英霊に礼を言いたい。インパール作戦の犠牲は無駄ではなかったと。対英戦に参加したインド国民軍(INA)の将校たちを、戦後裁判にかけようとするとインド全土で暴動が発生し、手に負えなくなった英国は独立を承認した。インパール作戦は歴史を変えたのである。それを見ることなく航空事故死したチャンドラボースの遺志は貫徹されたのである。

そのことは現在に至るまで、日印友好関係として、日本の外交戦略を助けている。もっと早くインパール作戦を発動しようとしたのに、補給の困難を理由に反対したのは、他ならぬ牟田口廉也である。東條はチャンドラボースの熱意にほだされて、ついにインパール作戦を決断した。がり勉の官僚的発想ではない。現在の外交にまでつながる大局観があったのである。偶然ではない。そのことは次の例でも示す。

 

関岡英之氏の「帝国陸軍知られざる地政学戦略」には次のようなことが書かれている。すなわち「・・・一九四三年、西川は張家口領事館の調査員という肩書で、東條英機首相の『西北シナに潜入し、シナ辺境民族の友となり、永住せよ』という密命を受け」たというのである。西川はそれを実行したが、日本敗北の報を受けても日本には帰らずモンゴル人として、チベット、インドなどを放浪し、一九四九年にようやくインド官憲に逮捕、日本に送還の上、GHQに移された。命令した東條もすごいが、究極の任務遂行を続けた西川もすごい。

東條の命令は、当時陸軍が構想していた、地政学的ユーラシア戦略に基づくものである。それは、モンゴル、東トルキスタン(ウイグル)の独立を支援して、東アジアの共産化を防ぐというものである。この構想を関岡氏が取り上げたのは、現在にもつながる雄大な構想だからであろう。現在の日本の政治家でこのような構想を発想する者はいない。今後の日本や東アジアにとっても参考になる構想である。その一環を担おうとしていた東條には、大局観があったと言うより他ない。

 

東條がメモ魔であり、細かいことに気付く人であることは、遺族自身が認めている。欠点として指摘されることが多いが、決して偏狭な軍人・官僚ではない。次男の輝雄氏には軍人になるよりは、技術者となることを薦めている。同じ航空技術者として三菱重工で輝雄氏の上司として働いた堀越二郎氏が、組織人として不適格で、零戦の名声にもかかわらず、三菱での評価に恵まれず退職したことに比較すると、輝雄氏は三菱自動車の社長、会長までのぼりつめた。輝雄氏は「A級戦犯の息子」として出世競争に重大なハンディキャップがあったのにもかかわらず、である。小生は父東條英機の薫陶による人徳の故と信ずる。

 

巷間の東條英機批判論には、先の赤松氏がはやくも予測したように、ためにする悪罵に満ち溢れている。高評価するのは、故岡崎冬彦氏位しか寡聞にして知らない。この洗脳の厚い皮を剥ぎ取るためには、理性による克服が必要である。昭和天皇の英明は言うまでもない。従って小生は、第一次大戦以降の日本の歴史上の人物で、東條英機を昭和天皇に次ぐ人物と評価する所以である。

*世紀の自決・額田坦編・芙蓉書房刊

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