私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ネルソン・マンデラと自由憲章(3)

2014-01-09 23:24:28 | 日記・エッセイ・コラム
 新聞記事やテレビをうっかり見聞きしていると、ネルソン・マンデラは1962年に逮捕され、ロベン島の刑務所独房に投獄されてから1990年に釈放されるまでの約27年間、筆舌に尽しがたい苦難を不屈の精神力で生き抜いたと思ってしまいます。しかしロベン島に居たのは20年で、1982年には、ケープタウン郊外のポルスマー刑務所に移され、ここでは外部からの訪問を受けるようになりました。1989年7月5日には、時の南ア大統領ボータからのお声掛かりでこっそり刑務所を抜け出て会見に出かけました。マンデラの話では大統領ボータは自らお茶を注いで彼をもてなしたそうです。
 マンデラについての我々の無知は勿論これに止まりません。ボータがマンデラとANC幹部の一部の懐柔を試みていた1980年代の重要な歴史的背景は南アの隣国アンゴラで熾烈に行なわれていた内戦です。1960年代はアフリカ全土に独立の熱気が渦巻き、アンゴラ(ポルトガルの植民地)でも黒人たちが独立運動を展開し、1975年には左傾のアンゴラ人民共和国が独立を宣言しました。当時は冷戦時代の真っ最中で、米欧側はソ連寄りの政府に対して反政府勢力を盛り上げ、南アの軍隊も投入して内戦が始まります。アフリカ大陸で行なわれたソ連側と米側の最大の代理戦争だとされています。フィデル・カストロは合計数万のキューバ軍を送って直接介入しました。
 旧ポルトガル植民地アンゴラとモザンピークが陥った混乱と悲惨は南アを支配していたボーア人/英国人権力層に重大な警告を与えました。ポルトガルの不手際も目立ちましたが、南アでも、このまま人種の厳格な隔離(アパルトヘイト)政策を続けることは不可能であると判断したボータ大統領(正確には、それまで南アを支配して来たボーア/英国白人権力機構)は、表面的には黒人を含む民主主義政体に移行し、しかし金融経済的支配はそのまま続けるという、名を捨てて実を取る方途を取るべきだと考えたに違いありません。それが1989年のボータ/マンデラの会見の核心的目的だったと思われます。両者の間にどのような了解が成立してマンデラが出獄したかは知る由もありませんが、釈放直前に発せられた「鉱山、銀行および独占企業の国営化はアフリカ民族会議(ANC)の政策であり、この点に関してわれわれの見解が変化したり修正されたりすることはありえない。」という発言をマンデラが釈放後にはっきりと裏切ったことに否定の余地はありません。このマンデラの重大な変心が、いつ何処でどのようにして行なわれたかについての一応の定説は、スイスのダボスで開かれる世界経済フォーラムの1992年1月の年次総会に出席したマンデラは、そこで人々に説得されて、アパルトヘイト廃止後の新しい民主国家南アフリカの採るべき経済政策は「鉱山、銀行および独占企業の国営化」ではあり得ないと決心した、というものです。ダボスに向かう旅客機上でその方向にマンデラの考えを変えさせたと自ら名乗る人物がいます。Bertram Lubner(白人)という南アの実業家。またマンデラが用意していた講演原稿を書き換える手伝いをしたという金融専門家(黒人、Tito Mboweni)もいます。ボータを継いだデ・クラーク大統領は1990年2月マンデラを釈放し、1991年6月人種アパルトヘイト終結を宣言します。1992年1月のダボス会議の会場でデ・クラークとマンデラがにこやかに握手している写真が残っています。この二人は1993年6にはノーベル平和賞を共同受賞しました。そして94年の全人種選挙で黒人主導のアフリカ民族会議(ANC, African National Congress)が勝利し、マンデラが大統領に、デ・クラークが副大統領に就任して、目出たく国民統一政府が発足しました。
 皆さん、こうしたすべてがトントン拍子に進み過ぎたとはお感じになりませんか?実は、1989年のボータ/マンデラ会見の数年前、つまり1982年彼がケープタウン郊外のポルスマー刑務所に移されて外部との接触が許されるようになった頃から、ボータ政権は白人の意のままになる黒人上層階級の育成を始めていました。それからの10年間に白人側が打った次々の手は経時的にますます巧妙綿密に練り上げられて行ったのだと思われます。黒人側が政治的成果の獲得に気を奪われているうちに、金融経済の面では、黒人側は殆ど全く身動きが取れないような形に絡めとられてしまったのでした。前掲のナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン』の第10章「鎖につながれた民主主義の誕生」は、実際に何が起ったかを我々に教えてくれる優れた文献です。是非お読み下さい。ネルソン・マンデラがいつ革命家としての先鋭さを失ったか、とか、「金融と基幹産業の国営化」という“自由憲章”の初心を失い裏切ったか、などという問題は、南アの白人権力が何を企み、どのようにしてその企みを成功させたかという、今の我々日本人にとっても極めて重要な問題にくらべれば、殆ど取るに足りない些少事です。1993年、デ・クラーク大統領が「南アフリカは核兵器を保有していたが、すべて廃棄した」と宣言した当時、全く一次元的な反核論者であった私は彼の英断を手放しで称賛したものでしたが、今にして考えれば、これは来るべき黒人政権に核兵器保有を許さないためのイスラエル/米英仏主導の動きであったに過ぎません。
 次回は、私なりのネルソン・マンデラ論をまとめて、シリーズ『ネルソン・マンデラと自由憲章』を締めくくることにします。

藤永 茂 (2014年1月9日)