私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

ショック・ドクトリン

2011-09-21 11:50:53 | 日記・エッセイ・コラム
  1970年カナダ生まれの女性ジャーナリスト、評論家、実践運動家でもあるナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(幾島幸子・村上由見子 訳,上巻下巻、岩波書店、2011年9月)が出版されました。多数の人々に読んでもらいたい本です。原著は
Naomi Klein, THE SHOCK DOCTRINE : THE RISE OF DISASTER CAPITALISM (2007)
で、いま1200円ほどで買えます。
  訳書は、第10章「鎖に繋がれた民主主義の誕生─南アフリカの束縛された自由─」を読んだところですが、よく注意の行き届いた訳業のようで、原書を辞書片手に読むより随分と楽です。Disaster Capitarismの訳語を「災害資本主義」から「惨事便乗型資本主義」に変えたあたりにも読者の理解を容易にしようとする工夫が見られます。しかし disaster という言葉をいつも「惨事便乗」と訳すわけにも行きませんから、定着しかけていたと思われる「災害資本主義」という訳語のままでもよかったかも知れません。
  私も以前このブログの記事で第19章「一掃された海辺」の一部(原書)を利用させてもらったことがありますが、今回のリビア侵略戦争の顛末を思うにつけても、アフリカの国々を白人勢力が如何に狡猾に引き回しているかを理解する絶好の読み物として、上掲の第10章「鎖に繋がれた民主主義の誕生─南アフリカの束縛された自由─」をお薦めします。苦心して南アの独立を達成したマンデラ、ムベキ、ズマの第一,第二、第三代の大統領たちがこぞってNATO に支持されたリビア新政権をなかなか承認しようとしない理由が、この第10章を読めば、よく分かります。ナオミ・クラインほど筆鋒鋭く解剖するのではなくとも、サッカーの世界大会で南アに日本のジャーナリズムの目が集まった時、治安状況の悪さばかりが強調されて、ナオミ・クラインの本から得られるような「成る程そう言うことなのか」と納得できるような南アの政治経済状況の解説がなされなかったのは残念です。隣国ジンバブエのムガベ大統領の経済政策の大失敗で超天文学的インフレが発生して困窮層が南アに難民として雪崩れ込んでいることもしきりに報じられましたが、南アについてもジンバブエについても、本当に肝心な白人勢力干渉の問題は殆ど取り上げられませんでした。
  リビアには国内に盤居する白人勢力の問題はないような外観を示していますが、本質的には変わりません。国際金融勢力が既存の権益を温存あるいはその拡張を試みるか(南ア)、農地解放を実行した現地政権を痛めつけてその転覆を試みるか(ジンバブエ)、米欧の利権を損なう政策を放棄しようとしない現地政権を武力で破壊してショック・ドクトリンの適用を試みるか(リビア)、ここに作動している原理は同じです。米欧の中東/アフリカ政策の驚くべき一貫性といえば、私は、カダフィの失墜を、1967年にイスラエルとの戦争で惨敗してアラブ社会主義の夢破れ、1970年、心臓発作で急死したエジプトのナセル大統領になぞらえたい気持すらあります。ナセルを継いだサダト大統領は、クラインの新語を使えば、ディザスター・キャピタリズムの線に沿って国有産業の私有化、IMF の求める貿易自由化を進め、エジプトの産業経済構造のネオリベラル化を実行に移しました。その必然的結果がムバラクのエジプトであり、権力層の腐敗汚職であり、貧富の差の巨大化であり、そして、タヒール広場の大デモンストレーションだったのだと私は考えます。つまり、リビアは、不幸なことに、今から、サダトとムバラクの段階(phase)を経過して、その先でやっと本物の若者たちの反乱が到来するのだというのが、マスコミとは全然違う私のfantastic な予想です。リビアは本当に気の毒なことになりました。
  カダフィとナセルには、しかし、一つ大きな違いがあります。ナセルは汎アラブ主義でしたが、カダフィは汎アフリカ主義でした。この事実は、カダフィが抹殺された後も、しっかりとアフリカの全黒人国の記憶に残ることでしょう。黒人の記憶に残るといえば、NATO の暴力に頼ってリビアの政権奪取に成功した反カダフィ勢力がトリポリの東に位置する人口約2万の小都市Tawergha(タワルガ)で実行した民族浄化(ethnic cleasing)も消え去ることはありますまい。この町はもともと黒人住民が大部分を占め、そのためサハラ以南から低賃金労働者としてリビアに移住した黒人が集中した一拠点でもあり、汎アフリカ主義政策をとったカダフィのペット地区でもありました。大部分のアラブ人は褐色というか可成り皮膚の色の薄い人々が多く、黒人に対する人種差別蔑視が存在します。タワルガの住民が反カダフィ軍に果敢に抵抗したことも加わって、多数が殺され、追放されて、黒人の町は、事実上、消滅してしまったようです。アフリカでもアメリカ国内でも、黒人知識層の間で、これは明確な戦争犯罪でありハーグの国際法廷に提訴すべきだという声がしきりです。リビアの新政権によるこの民族浄化(ethnic cleansing)の犠牲者の数の方が、狂人独裁者カダイフィが殺したリビア国民の数を遥かにうわまっているのはほぼ確実です。
  リビア国民が今度の完全に人為的な災害のショックの中で足元が定まらない間(やれ民主憲法とか民主選挙とかの笑劇で)に、ショックを着想し実行した米欧の金融資本、多国籍企業たちは、ショック・ドクトリンにしたがって、リビアの新植民地化をやり遂げてしまうでしょう。
  ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』の訳書について、一つ、残念なことがあります。原書巻末の謝辞(ACKNOWLEDMENTS) が訳出されていないことです。これを省いた訳者と編集者の判断は十分推察できます。詳しすぎるし、長過ぎる。日本の一般読者に親しみのない名前が多すぎる─といった理由からでしょう。しかし、私見では、この数頁から著者ナオミ・クラインという女性の真性のイメージが見事に浮かび上がってきます。他人の紹介の到底及ぶところではありません。日本人読者にも親しい名前も沢山出て来ます。一つだけ選びましょう。
■ When I read and reread the work of Eduardo Galeano I feel as if everything has been said. (エドウアルド・ガレアーノの著作を読み返す度に、すでにすべてのことが言われてしまっているかのような想いがする。)■
ガレアーノの『ラテンアメリカの切り開かれた血脈』をチャベス大統領がオバマ大統領に歩み寄って手渡した事件を記憶している方々も多いでしょう。

藤永 茂 (2011年9月21日)