私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

前代未聞の巨大「振り込め詐欺」

2008-10-29 11:00:00 | 日記・エッセイ・コラム
 「今すぐ70兆円振り込みなさい。さもないと大変なことになる。あなたの投資金も銀行預金も保険金もパーになってしまう」財務長官ポールソンが、緊急経済安定化法という形で、“とにかく俺に金をくれ。頼む。そうすれば事は解決する”と一般のアメリカ国民に語りかけた様子には、世上の「振り込め詐欺」に通じるところがあります。はじめに議会に提出された法案がたった3頁の長さであったこと、それが散々修正されて、最終的には、451頁もの部厚なものになったのも、始めから詐欺的な性格を秘めていたことを示しているように思われますし、いま即刻七千億ドル用意してくれないと大変なことになると国民をおどしたこと、その金の使い道は金融破綻の回避、ウォール・ストリートの危機の救済であるのに、法律の正式名称は緊急経済安定化法(Emergency Economic Stabilization Act, EESA)となっていることにも、詐欺的なうさん臭さが感じられます。
 いや、この立法は「振り込め詐欺」よりたちの悪い「脅迫」であったと言えるかもしれません。アメリカ国民の中にも、直ちにそれに気が付いた人々が沢山いました。だからこそ、共和、民主両党の幹部たちの予想を全く覆して、下院で原案が否決されたのです。しかし、単なる詐欺でしたら、騙されないようにすれば事は済みますが、中身のある脅迫であれば、話は違います。米国国会議員たちは、結局、「金融危機、経済危機」という脅迫に屈した形になりました。前回に紹介したサンダース上院議員は「Under this bill, the CEOs and the Wall Street insiders will still, with a little bit of imagination, continue to make out like bandits.」と言っています。bandit というのは強い言葉、辞書には「盗賊、追いはぎ、強盗、山賊」とあります。今回の70兆円の「公的資金投入」を「the biggest wealth-transferring heist of all-time」と書いた評論家もいます。heist は強盗行為、北米では、銀行強盗的犯罪行為を意味するのが普通のようです。
 もう一度、「非富裕層の金(税金)を富裕層が得をするように回す」という現象について考えてみます。前回に紹介したSlaughter教授の著書『THE IDEA THAT IS AMERICA』から再び引用します。:
■ On the social side, as we move into the twenty-first century, we are actually moving backward. We talk of the talk of social equality, but the gap between the richest and poorest Americans grows ever wider. People may make it from rags to riches on reality TV, but fewer and fewer are managing in actual reality. …… The gap between what we pay workers and managers in our corporations is greater than in any other country. Do we really think it is OK for a CEO to be paid a thousand times more than a janitor as long as both people are on a first-name basis? (社会面については、21世紀に足を踏み入れているわけだが、我々(アメリカ人)は実際にはむしろ後ずさりしている。我々は社会的平等というものをあげつらっているが、最富裕のアメリカ人と最貧困のアメリカ人の間のギャップはますます大きくなるばかりだ。テレビの実録番組では、極貧から大金持ちにのし上がる人々もいるが、ほんとの現実社会で何とかそれをやり遂げる人の数はどんどん稀になっている。・・・ アメリカの会社で平社員と管理職の給料の間のギャップは他の如何なる國におけるより大きい。社長と用務員がお互いにファーストネームで呼び合っている限り、社長が用務員の千倍の給料を貰ってもかまわないと、アメリカ人は本当に考えていてよいものだろうか?)■
“ファーストネーム”云々については、あとで又コメントします。貧富の差がますます拡大する傾向はほぼ世界中で見られる現象ですが、アメリカ合州国でそれがずば抜けて極端になった理由はよく考えてみる値打ちがありそうです。レーガン大統領がとった経済政策(レーガノミクス)がその主な理由だという見方がありますが、Reaganomics は“trickle-down” economics とも呼ばれます。収入や財産でトップの人々にたっぷりお金を与えると、経済が活性化されて、そのご利益が下層にもチョロチョロ流れ落ちて来るとする経済学です。江戸の落首よろしく言えば、“feeding the horses so the sparrows can eat (馬にまぐさをやれば、おこぼれで雀も食える)”というわけです。レーガン大統領の経済政策の一つに、資本主義経済の自由な発展の邪魔をしないように政府の力を小さくする、つまり、「小さな政府」を目指す方針が打ち出されました。この辺で私たち庶民はごまかされてしまいがちですが、中央政府の官僚的規模が小さくなっても、それが貧者から富者へ富を移動させる機能が弱くなるわけではありません。ここで問題にしている緊急経済安定化法(Emergency Economic Stabilization Act, EESA)の成立に少し先立ってアメリカ議会で問題なく承認された次年度の軍事費60兆円も貧者から富者へ富を移動させる極めて有効な手段であります。この巨大な国税出費は兵器産業をはじめとする各種の軍需産業に吸い込まれるのであり、結局はチェイニー副大統領に代表される人々の懐をごっそり潤すことになるのです。ブッシュ政権下のアメリカでは、この7年間に、もっとも裕福な400人の財産が67兆円増加したという統計数字があります。今度の世界同時の株価大暴落で彼らの富も大分目減りしたでしょうが、緊急経済安定化法(EESA)が回してくれる70兆円のおかげで、損失の可成りの部分を取り戻すことになりましょう。しかし、アメリカの中流層以下は今度の金融危機で貧しくなる一方でしょう。単に個人的な収入や資産だけではなく、医療保障その他の社会的福祉や社会を支えるインフラ整備に回される税金の減少という形でも。
 スローター教授の本からの上掲の引用の最後の部分、「お互いにファーストネームで呼び合っている限り、社長が用務員の千倍の給料を貰ってもかまわないと、本当に考えていてよいものだろうか?」、に話を戻します。アメリカの人々は、ごく簡単に、お互いをファーストネームで呼び合うようになります。私が初めて渡米し、研究者としてシカゴ大学の物理学教室で仕事をはじめたのは、50年も前、1958年のことでしたが、このファーストネームで呼び合う習慣には面食らいました。研究室の大学院学生たちがお互いの会話の中で教授をファーストネームで呼ぶだけではなく、教授に声を掛ける場合にも、ファーストネームを使うのには驚きました。アメリカが「自由と平等の國」であるという確かなあかしを見せつけられた思いでした。大学の用務員さんが大学総長をファーストネームで呼ぶ場面には出会いませんでしたが、ありえないことではありますまい。総長さんが事務のお嬢さんや掃除夫さんをファーストネームで呼ぶのは普通です。これはフランス語を喋る人々の間のチュトワイエとは違う習慣であり、違う人間関係を意味します。中曽根さんが自慢にするロン・ヤスの関係ですが、スローター教授の上掲の語り口から察するに、この関係はどうやら必ずしも「自由と平等」のあかしではなさそうで、ここには一種の嘘、社会心理的な欺瞞のにおいがします。ロナルド・レーガンさんが中曽根さんにどれだけ本当の親愛感を持っていたか、わかったものではありません。

藤永 茂 (2008年10月29日)