私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

アメリカでの黒人差別(1)

2007-10-03 10:44:36 | 日記・エッセイ・コラム
 前回引用した黒人女性歌手シャーデーの歌詞「黒人であることはここではとても大変なこと。店員はつり銭を渡す時にも私の手に触れるのを嫌がる」は私の胸に苦い思い出を甦らせます。1963年、私はIBM 社から招かれてカリフォルニアのIBM 研究所に客員研究員として赴きました。研究所の建物は宏大な敷地の東側の部分にありました。ある日パーキング場で、不注意から自分の車のボンネットに左人差し指の先を挟み、爪のあたりが潰れて出血しました。研究所の同僚が直ぐに事務室に連れて行ってくれたのですが、少しもたもたした末、結局、会社の中央医療施設まで手当を受けに車で連れて行かれました。後で友人の同僚から驚くべきことを聞かされました。研究所の事務室にも応急手当を担当している白人女性はいるのだが、非白人である私の指の手当を拒否したというのです。これが45年前のアメリカです。しかし、シャーデーの歌は今の歌、水面下では如何ほども変わってはいないのではありますまいか。
 今アメリカの黒人の間で「ジーナの6人を釈放せよ(Free The Jena Six)」という声が全国的に高まっています。アメリカ南部ルイジアナ州の小さな町ジーナでおこった黒人差別事件がその発端です。The Jena Sixを語る前に、The Little Rock Nine のことを思い出しましょう。
 リトルロックはルイジアナ州のすぐ北のアーカンソー州の州都、事件は今から丁度50年前の1957年9月、リトルロック中央高校で起りました。3年前の1954年、米国最高裁判所は黒人の入学を拒否する学校は米国憲法に違反するという決定を下しました。その機をとらえて、NAACP(National Association for the Advancement of Colored People, 全米黒人地位向上協会) は優秀な9人(女性6人、男性3人)の黒人生徒を選抜し、それまで白人生徒ばかりのリトルロック中央高校に入学手続きを行わせたのです。ところが9月新学期の初日、登校した9人は校門のところで黒人の入学に反対する市民たちに暴力的に入校を阻止されてしまいます。その上、辺りの治安を保持するという口実の下、9月4日、州の知事ホーブスは州兵を出動させて黒人たちを学校に近づけないようにしました。これは米国最高裁判所の決定に州が違反する意志を表明したことを意味するわけですから、時の大統領アイゼンハウアーは動かざるを得ず、9月24日、擾乱の治まらないリトルロック中央高校に米国軍空挺部隊の兵士を送って、9人の黒人生徒の登校下校を護衛することになったのです。
 こんな訳ですから、学校内で9人の黒人生徒が毎日受けたいじめはひどいものでした。あとに続く黒人の若者たちのための尖兵だという使命感に燃えた9人は実に実によく耐えたのですが、とうとうその一人ブラウン嬢かキレてしまいます。ある日学校の食堂でひどい嫌がらせを受けた彼女は、チリコンカルネのどんぶりを男子生徒の一人の頭にオッかぶせてしまって、結局、放校処分。しかし、あとの8人は必死の思いで最初の一年を耐え抜きました。ところが州の政治を読むに敏感な教育委員会はその権限をふるって1958-1959の一年間リトルロック中央高校の閉鎖に踏み切りました。黒人と共学するぐらいなら学校を閉めた方がましだというわけです。しかし、これには、当然、ふたたび米国連邦政府が介入することになりますが、その詳細はここでは辿りますまい。こうしたゴタゴタにもめげず、8人は見事にリトルロック中央高校卒業証書を手に入れます。これがリトルロック・ナインのお話です。やがてリトルロック中央高校はアメリカ合衆国の国家史跡の指定を受けて人権博物館も出来、今年2007年には合衆国造幣局はリトルロック・ナインの功績を讃える記念の1ドル銀貨を発行しました。売上金はリトルロック中央高校の国家史跡の充実のために使われるとのことです。目出たし、目出たし。米国内の本当の事情に疎い私たちは、この50年間に、こうした無茶な黒人差別はアメリカの社会から姿を消して、すべては歴史となったのだろうと思い勝ちです。しかし、それは間違い、本当には何も変わっていない、ということを私たちに告げる事件が起こりました。
 アーカンソー州のすぐ南のルイジアナ州の小さな町ジーナの唯一の高校であるジーナ高校の校庭に一本の大きな木がありました。14年前、一人の黒人女性が「知識の木」として植樹したものでした。切り倒される前の写真で見ると、豊かに枝を拡げ、その下に心地良さそうな広い木蔭を作っていたようです。町の人口は3000人ほど、その85パーセントは白人、高校は白人黒人共学ですが、その木の下には黒人生徒は座れないというルールがいつの間にか出来上がっていました。2006年8月31日、新学期始めの学校集会で、黒人男子生徒の一人が黒人もその木の下に座らせてほしいと発言しました。ところが、翌9月1日、その木の枝に3本のヌース(首つりの輪縄)がぶらさがっていました。ヌースといえば、アメリカ南部の黒人にとっては、白人による黒人のリンチのシンボル、暗い過去の消えない記憶です。黒人生徒たちはすぐに教育委員会に訴えますが追い返されました。彼らがその木の下で抗議の座り込みを始めると、地域検事Reed Walters が警官を連れて学校に乗り込んで来て、黒人生徒たちに向かって「このペンが見えるかな?俺が一筆書けば、お前たちの命を終らせることも出来るのだぞ」と言い放ったといいます。ヌースについては「若い者の罪のないイタズラだ」として、ただのお叱りですませてしまいました。軋轢のシンボルの問題の木は切り倒されましたが、騒ぎは更に大きくなって行きました。11月の末、黒人生徒Robert Bailey が殆ど白人ばかりのパーティーで殴り倒され、警察に訴えましたが取り合ってくれず、それから数日後の夜、ベイリーほか二人の黒人生徒がコンビニ・ストアで拳銃をもった白人生徒に脅かされ、三人は拳銃を奪って警察に届けました。驚いたことに、事情を聞いた警察は拳銃で脅した白人を捕らえるかわりに、ベイリーのほうを取り押さえ、銃器窃盗の罪を課したのでした。次の週、学校で黒人生徒を侮辱し挑発した白人生徒の一人が、黒人生徒のグループに殴り倒されました。その白人生徒の怪我は軽いものでしたが、ベイリーを含む6人の黒人高校生は直ちに放校処分となり、第2級殺人未遂の罪で逮捕拘留されてしまいました。これが「ジーナの6人」です。それに続く裁判もひどいもので、陪審員は全部白人、裁判所が指名した弁護人も検事側に親しい人物のようです。
 裁判は進行中ですが、6人の家族はこの不当極まる法的処置の抗議に一致団結して立ち上がりました。全米に、全世界に向けて、彼らが受けた言語道断の法的不正行為を訴え続けたのです。始めは殆ど何の反応もなかったのですが、彼らの勇敢で不屈の運動は、この9月20日、遂に最初の見事な実を結びました。国内各地から、おそらく40000人に及ぶ人々(白人は1~3%)が人口3000人そこそこの小さな町ジーナに集結して、6人の黒人生徒の釈放を求めるデモ行進を行い、その中にはジェシー・ジャクソンやジョン・カルロスなど知名度の高い黒人たちの顔も見えました。リトルロック・ナインの戦いを支えたNAACP はジーナ・シックスに有能な弁護士団をつけるための資金募集を行っています。この新しい黒人人権運動はブッシュ政権も無視出来ない高まりを見せています。
 しかし、この人権運動の突然の盛り上がりを前にして、アメリカの黒人たちは重苦しく複雑な気持を味わっているようです。リトルロック・ナインからジーナ・シックスの今日までの50年、一体これは何だったのか、本質的には、何も変わりはしなかったではないか。
 いやいや、この50年に、アメリカでの黒人の地位は信じられないくらい向上した。ブッシュ大統領の下の国務長官はコリン・パウエル、コンドリーザ・ライスと2代続いて黒人、有力な次期大統領候補バラック・オバマは黒白混血、これらの事実こそ黒人の地位向上とアメリカが自由の國であることの確たる証拠ではないか---読者の方からの声が聞こえて来るようですが、それが確たる証拠ではないことを次回に説明します。

藤永 茂 (2007年10月3日)