今年も東遊園地に行きました。
神戸っ子にとってこの日は一年の内で
もっとも忘れてはならない日です。
東遊園地は整備の工事をしているのか
例年とは様子が違っていました。
今年も記帳と献花はありませんでした。
ちょっと残念な気持ちになりました。
希望の灯りに祈りを捧げました。
あの日、三歳だった二番目の我が子も
今年は三十一歳になります。聞けば
あの震災のことを三歳でも記憶があると
言います。忘れはしません。あの日の前日
長子は先輩の六年生が引退して、新チームの
デビュー戦の日でした。ピッチャーとして
デビューして、その日の夜は今年は頑張ろうと
家族みんなでお祝いをしたのでした。
そして就寝して未明、あの地震に襲われたのです。
どんと突き上げがあって、それからは想像を
絶する破壊でした。その破壊が終わってそれぞれ
別の部屋で寝ていた家族の名を呼びました。
声が返ってきたので安心しました。
家具という家具はすべて倒れて食器はこなごな。
冷蔵庫も倒れて、液体や卵が割れて散乱してました。
その時は気づきませんでしたが、硝子で足を切って
血を流しながら家族の安否を確かめました。
当初、近所の人もみんな、震源地は淡路神戸だとは
まったく思いませんでした。
どこか和歌山か大阪なんだろうと話して合ってました。
ここでこんなにひどいのだから、きっと震源地は
想像を絶するのではないかと語り合ってました。
しばらくすると南の民家からちょろちょろと
炎が上がってきました。それがやがて
燎原の火のごとく広がっていきました。
余震が何回も続きました。それから親が心配になって
無事だった車で国道二号線を走りました。
新在家辺りに来ると、阪神電車の高架は落ちてました。
火事の炎で車の窓が熱かったのを覚えています。
まるで戦時下の空襲とはこんなんだったんだな
といやに冷静に思ったことが鮮明に記憶に残ってます。
昨日まで元気でいた我が子の同級生が数人
亡くなってました。あの時の少年野球の
監督も家の下敷きになって亡くなりました。
昨日まで普通に居た人が突然この世から消える。
このことは少なからず私の死生観に影響を与えた
ように思います。
あれから二十八年。この日になると
あの日あの時の記憶が鮮明に甦ります。
そして亡くなられた人のことを忘れずに
精一杯思い浮かべるのです。
鎮魂のトランペットや星冴ゆる