マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

井伏鱒二『譯詩』を読む

2017年10月18日 | 読書

 数日前「デジタル版毎日新聞」を読んでいたら、毎日新聞による細川元首相へのインタビュー記事が載り、彼からは毎日新聞への寄稿文が寄せられていた。そのなかで、日本新党での、かつての門下生3人について語っている。3人ともお慕いする政治家ではないが・・・。
 小池代表については「同士として小池氏を手助けしたいと考えてきたが、排除の論理を振りかざし、戸惑っている。公認するのに踏み絵を踏ませるとはなんともこざかしいやり方で『寛容な保守』の看板が泣く」と。前原氏については「名を捨てて実を取ると言ったが、状況をみていると、名も実も魂も取られてしまうのではないかと心配になる」と。野田元首相については「”ドジョウ宰相”は、三権の長の経験者は御遠慮いただきたいと誠に無礼な選別をされたとき、『股くぐりなどご免こうむる』と毅然と別の道を歩むことを決めた」と。
 
ドジョウはオオサンショウウオに位をあげ、男を上げたと褒めたうえで、そのオオサンショウウオから話は井伏鱒二の名作『山椒魚』に話が飛ぶ。更に彼の『譯詩』に登場する于武陵(うぶりょう)の「勧酒」の、よく知られた邦訳を紹介していた。
〈ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉。そのスローガンこそ、オオサンショウウオの旗印にはふさわしい。と締めくくっていた。

 この記事の最後を見て、昔に読んだ井伏鱒二の『譯詩』を思い出し、『厄除け詩集』を引っ張りだしてきた。その中の『譯詩』は漢詩五言絶句の訳で、中学や高校で習ったとは違う表現で、初めてその訳を読んだとき、邦訳が実にリズミカルで、新鮮に感じられ、気に入った詩は何度も読んだ。何年振りかで、再読してみた。口調に合うのである。
 例えば有名な孟浩然の《春暁》。詩の右側に井伏訳  最後に訓読文
 春眠不覚曉    ハルノネザメノウツツデ聞ケバ  春眠暁を覚えず
 處處聞啼鳥    トリノナクネデ目ガサメマシタ  処々に啼鳥を聞く
 夜來風雨聲    ヨルノアラシ二雨マジリ     夜来風雨の声
 花落知多少    散ツタ木ノ花イカホドバカリ   花落ちること知りぬ多少

 特に「酒」が登場する《勸酒》が好きだった。
 勸君金屈巵    コノサカヅキヲ受ケテクレ    君に勸む金屈巵
 滿酌不須辭    ドウゾナミナミツガシテオクレ  満酌辞するを須いず
 花發多風雨    ハナニアラシノタトエモアルゾ  花ひらいて風雨多し
 人生足別離    「サヨナラ」ダケガ人生ダ    人生別離足る
 
 
 
 

 


『霊験亀山鉾』を観る

2017年10月16日 | 映画・美術・芝居・落語

 武蔵水路見学の前日の10日(火)、国立劇場にかかる『通し狂言 霊験(れいげん)亀山鉾』を観に行った。片岡仁左衛門を観に行った、とも言える。
 仁左衛門の『霊験亀山鉾』が演じられことを知った妻から“今生の見納め”に是非観に行こうと勧められた。主役の仁左衛門も観客の妻もほぼ同い歳の7△歳。尤もと思い、お値段は高いが“清水の舞台から飛び降りる”ことにし、この数年にして初めて歌舞伎チケットを自前で購入。国立劇場へは『轟亭の小人閑居日記』の著者馬場さんから、落語に招かれて以来6年振りのことだった。
 この演目の謂れもストーリーも知らない私は、開演以前に粗筋を知りたかった。そこで2日前に、敢えてパンフレット購入の為国立劇場まで足を運んだ。三田線「日比谷駅」で「都03」四谷行都バスに乗り換え、2つ目の「三宅坂」下車。目の前が国立劇場だ。 



 パンフレットから知ったことだが、
 「亀山の仇討」と呼ばれる事件が実際に起こった。時は元禄14(1701)年。処は伊勢国亀山城下。石井源蔵・半蔵兄弟が父と長兄の敵・赤堀水之助を討取ったという事件である。この事件を下敷きに鶴屋南北が作品化し、文政5(1822)年、河原崎座で『霊験亀山鉾』として初演された。以来何回となく演じられてきたらしい。国立劇場では15年前に、敵役藤田水右衛門を仁左衛門が演じていた。
 粗筋は意外に複雑だった。人物関係図には20人近くの人物が書かれていた。そこで、物語の細部を理解するよりも、敵を討つ石井家側と討たれる藤田家側をはっきり区別・認識しながら観劇しよう、仁左衛門の悪党振りを、じっくり観せてもらおうと心に決めた。(写真:パンフレット扉。錦絵 五代目松本幸四郎が演じる水右衛門)

 さてここからは観劇の様子も併せて。
 水右衛門という人物は、剣が立つ上に卑怯千万な男。石井家の右内は闇討にあい、仇討に向った兵介(又五郎)は立ち合い前に杯に毒を盛られ、養子源之丞(錦之助)は落とし穴に足を取られて討ち死。それも惨いことに最後には切り苛まれてしまう。武士の風上にも置けない極悪非道な奴。薄ら笑いを浮かべながら最後のとどめを刺すのである。色気のある悪党。華のある悪。拍手喝采はないものの、皆食い入るように観ていた。

 第1幕で、下げ売りが「古今珍しき仇討の次第」と書かれた刷り物を撒く場面があった。ネットで花道に隣接する席を購入していた。運よくその”下げ”が前席の方に手渡され、珍しいのでお借りして撮影したものが右写真。

 見せ場が2つあった。もう一人の小悪党八郎兵衛を演じるのも仁左衛門。仁左衛門は一人二役を演じていた。火葬場に現れた八郎兵衛が、源之丞と恋仲のおつまに討たれ井戸に落ちて消えてしまう。その脇に火を付けられた桶が置かれていた。桶に入れられ、今まさに火葬にされそうな瞬間に水右衛門が樽桶を割って現れる、という早変わり。ここで大きな拍手が沸いた。
 もう一つ見せ場が亀山城下。時は亀山曽我八幡宮の祭礼日。おびき寄せられてやって来た水右衛門の前に現れたのが、源之丞の妻お松と幼き長男源次郎の、女と子ども。剣の達人に叶う訳がないのである。しかし、剣を交わす一瞬に、微かに空が光る場面が用意されていた。その光は雷の電気だったかもしれない。その電光に打たれた隙に水右衛門は討取られてしまう。舞台後方を亀山鉾が練り歩くなか、霊験として電光が舞い降りて来たと思わせる演出。かくして霊験亀山鉾は幕を閉じた。仁左衛門は絵になっていた。

 劇場を出ると6台の都バスが停まっていた。都バスの臨時便で、渋谷行・新宿行・丸の内行と新橋行。新橋行は「劇4」とあった。「劇4」に乗車し、新橋にある、鳥取県と岡山県の共同アンテナショップ「とりおか」で買い物をして帰宅した


武蔵水路を訪ねて(その2)

2017年10月14日 | 

 武蔵水路に沿って車を走らせる前に、もう少し利根大堰に立ち止まってみたい。右の図は環境省環境カウンセラー・若林高子著『生まれ変わる武蔵水路』からの引用である。堰から取水した利根川の水は”沈砂池”からどの様に分水されたのかが良く分かる。埼玉県の川や用水路には門外漢だった私には実に有難い資料だ。








 その部分拡大図が右図で、その図の中でも特に見沼代用水路と武蔵水路に注目すると、肉眼で見たと同じく、上流から見て、見沼代用水が右側にあり、武蔵水路は左側。その両水路は平面図上交差し、左右が入れ替わっていく。実際には、後から造られた武蔵水路が見沼代用水の下を立体交差して潜っている。トンネルになっているのだ。水の流れの場合、その交差地点のトンネルをサイフォンと呼び、「伏越」と書く。この漢字は二文字で意味を十分に表している。



 そのサイフォンは武蔵水路に6ヵ所ある。その6ヵ所を一覧にまとめたものが右の図で、その6ヵ所のうち5ヵ所を巡った。









 
(1)荒木サイフォン。このサイフォンで水路(右の図)は見沼代用水(下の写真)の下を潜る。写真で示してもなかなか交差の様子は分りずらい。



 

 (2)上星川サイフォン。サイフォンには入口側に2つのタイプがあって「ローラーゲート」と「起伏ゲート」と区別されている。ここは「起伏ゲート」。残念ながら私には、その物理的差異や原理の違いが今のところ分からない。上星川はその下流で見沼代用水と交わる。その点は後日触れたい。


 (3)
白鳥田サイフォン。ここで秩父鉄道を伏越えする。右写真に見る如く2本の流路。何故2本の流路か?昨年初めて見たときは、下流では別れると思ったがさにあらず。一本の流れのみ流している間に他方の流路を止めて、整備・清掃等を行えるようにする為の2つの流れ。荒川近くまで2本のまま流れていく。上から見ると、水面の高さに差異が感じられる場所があった。(写真:下は秩父鉄道)

  

 
(4)長野サイフォン。

 (5)元荒川サイフォン。ここで元荒川の下を潜る。元荒川は深谷付近の方が清流に見えた。それ故ムサシトミヨも棲息していたのだろう。今回みたサイフォンのなかでトンネルの長さが最大だった。

 
 残る一つの
「箕田」については、水野さんのメールで“立派なサイフォンがあったのを見逃しておりました。”とあった。



 (番外)荒川との合流
 糠田橋を超えるときに車上からの撮影。右写真で、左の荒川に右の武蔵水路が合流する。

 オリンピックに間に合わせるために、急ピッチで造られた武蔵水路の施設は約50年近くを経て老朽化が進み、あちこちに傷みが激しく、数々の不具合が生じてきた。
 2015
年にリニューアルが完了。今私達が見ているのは流路が2本ある新武蔵水路だ。荒川はこの後、秋ヶ加瀬取水堰を経て隅田川などへと通じている。
 武蔵水路は東京都への給水の中心的役割を担っている。


武蔵水路を訪ねて(その1)

2017年10月12日 | 

 10月11日(水)の昨日、指圧屋シュークロースの水野さんとふたりで、武蔵水路と見沼代用水(みぬまだいようすい)を巡ってきた。11日の僅か2日前に決まったことだった。指圧の施術中に二人の間で交される会話は旅行関係の話が多い。お互いに旅好きなのである。この日も水野さんからは「奄美大島へのLCC航空券に2900円台のものがあります」などの情報が紹介され、私からは「会津若松へ墓参に行くのに、王子からの往復乗車券を購入しました。早割りで5000円」などと話した。
 水野さんから、突然「10月11日に武蔵水路を見に行きませんか」との話が出た。「埼玉県へ墓参りに行くのでレンタカーを借ります。返却までに時間に大分余裕あるので、武蔵水路などを見学したいのですが、ご一緒にどうですか」とのことだった。
 
「武蔵水路」は昨年の中山道行で越えた水路。何故かコンクリートの壁一つ隔てて、2本の流路があった不思議な用水。その日はたまたま夜の勤務だったが、17時の勤務前に帰って来ればよいので、二つ返事で「行きましょう」と返事し、ご同行と相成った。(写真:中山道行時に撮影の写真)
 
8時前には志村坂上をスタートし、墓参り→見沼代用水→昼食→武蔵水路の順で回ったが、今日のブログは、この日の第一目的であった「武蔵水路」について書いておきたい。

 武蔵水路は利根川の水を荒川に導くための導水路。埼玉県の利根大堰で利根川から取水され、鴻巣市で荒川に注ぐ。全長14.5 kmで全体が開水路。管理者は水資源機構。その主たる目的は東京への給水。

 昼食後、1時過ぎに取水堰に到着。まずは堰を見る。大量な取水量で、水が渦巻いている。堰から下流を見ると、ここの堰から取水された水は、少なくも4つの用水に分水されていることが分かる。即ち、右側から”見沼代用水”・”武蔵水路”・”埼玉用水”・”邑楽用水”と書かれた看板。土手に昇ると利根川が見えた。滔々と流れる大河だ。海から154kmの地点。(写真:利根大堰。土手の外側)



 武蔵水路以外は農業用水。1967年に完成した武蔵水路は”新参者”で、既存の多くの川や鉄道などと平面交差してしまう。そこで、「サイフォン」と呼ばれる立体交差の工夫が施されて、荒川まで辿りといている。堰を見学した後は、武蔵水路に並行して車を走らせ、工夫の数々を見た。次回ブログで。
  (以下当日の写真)
   
                                                                        (写真:利根川側の取水堰)   
   
        (利根川)


行くはずだった「能楽鑑賞教室」

2017年10月09日 | 身辺雑記

 東大学へ行くはずだったが、東大学に行かねばならなくなってしまった。たった一文字の違いだが、天と地ほどの差があった。10月7日(土)の午後、東洋大学の井上円了ホールでは、「能楽鑑賞教室」が開催され、『殺生石』(能)と『佐渡狐』(狂言)が演じられるはずで、大分前から楽しみにしていた。ところが”突然の明日”が待っていた。
 
この日の早朝、妻に”逆流”が起こり、40度近い高熱。駆け付けた医院の主治医はレントゲン撮影を経て誤嚥性肺炎と診断。それもかなり重いとの判断。その日の午後から日・祝と休診が続くので、急変に備えて、東大病院での外来診断を勧められ、紹介状を持って病院棟へ。入院するほどではないだろうとの当番医の最終判断が出たのは3時間後で、薬を貰って帰って来た。



 私も同行し、待っている間に色々と考えた。治療環境の整った大学病院は、急患の外来の誰をも、いきなりは受け付けてくれないだろう。妻の場合、ここの診察券を持ち、しかも紹介状があった。私は大学病院の診察券を全く持ってはいない。何とか工夫をする必要があるかも知れない、などと考えた。
 廊下には右写真のマークが書かれていた。多分、英文字が隠されていると思い、暇を持て余し長いこと考えたが分からなかった。帰宅してネットで調べた。詮索好きなのだ。
 これは東大病院のコミュニケーションマークで、向き合っているのはヒューマンの「h」と、ホスピタルの「h」。「東大病院を受診している患者様やご家族に対して、人と医学・医療がしっかり向き合って、最先端の医学を研究・教育することが大切と考えた、病院医療スタッフの思いを直接お伝えするため、このマークが誕生しました」とあった。2009年に制定されたとのこと。妻はこの日の医療には珍しく不満を抱いていなかった。

 さて夜、小林さん宅に行ったところ、その日に行われた「鑑賞教室」のパンフレツトを渡された。32ページからなる立派なパンフレットで、学生や留学生を対象としたこの教室の周到な準備が感じられた。能と狂言の台詞のみならず、観世銕之丞を話し手とし、原田香織教授を聞き手とするインタビューも載っていた。それによれば、この教室は開催14年目を迎えたイベントであるとのこと。演目の『殺生石』や『佐渡狐』の見方までに話が及ぶ面白いインタビューで、最後に銕之丞は学生へのメッセージを頼まれ、次の様に語っていた。私には新鮮に感じるメッセージだった。
 「人との別離の体験が、ある能の場面と結びついたとき、すごく奥行きが深くなります。能に限らず、歌舞伎やミュージカルや現代劇や映画であっても、個人的な体験に結びつく一瞬の再現が出来るのが舞台芸術です」と。来年は是非観たいものだ。