マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

朋あり近方(?)より来たる また楽しからずや

2017年06月18日 | 身辺雑記

 荒川5中で知り合った3人が、久し振りの再会の時を持てた。昨日の午後、朝倉さんと大島さんが我が家に見えられ、長い時間語り合い、一献傾け、楽しいひと時を過ごした。
 朝倉さんはさいたま市在住ながら、我が家から徒歩20分くらいの私立高校に勤務されている。大島さんは我が家の直ぐそばに住み、今年から文京区の公立中学に転勤された。3人は、いつばったり出会っても不思議はない生活圏を共有してはいる。しかし、大島さんは子育て真っ最中でしかも多忙を極める中学校教員。朝倉さんは勤務後、夜間の大学院への週3日通学の夜学生。3人が会える時はなかなか巡ってはこなかった。
 ふと、土曜日に我が家にお出で頂くことにすれば会い易いのではと思った。土曜日の午後なら、大島さんは子供さん連れでお出でになることが可能だし、土曜勤務のある朝倉さんは帰りがけに我が家に立ち寄ればよい。 
 妻が617日(土)から教え子と1泊の旅行に出掛けると知って、4人で会うのも良いが、3人で話し込めるこの日がベストかなと考えた。思い立ったが吉日とか。お声を掛けるとお二人とも都合が付くとのことで、昨日の再会となった。
 実は食べきれないほどの肴が重なってしまった。お二人は我が家へ来る前にピーコックで合流し、吟醸酒・ワインの他に多くのツマミを用意してくれた。私は吉池で刺身を大量に買い込んでいた。妻はお客さんへと、前日にミートローフを調理し、味付け卵とビワ寒天も用意してくれた。それぞれの気配りのオーバーラップ。日本酒党の3人に吟醸酒2本+ワインは適度だったかも知れないが、食べ物の方は・・・。
 大島さんは娘さんを連れて見えられたが、暫くして夫さんが見えられ連れて帰られ、イクメンへ。


       
        (我が家特製の味付け卵)

 適度の酔いの時に、屋上へと案内した。ここからの眺めも御馳走の一つ。この日、好天ながら富士山は見えなかったが、筑波山は微かに遠望できた。私が、やや酔いがが回ったときにも再度屋上へ。
 
お二人が帰られたのは日没となってからと記憶しているから、夜7時近くだったろう。学校のこと、図書館のこと、本のこと、美味しいお店のこと等々話題はあちらこちらへと飛び、5時間もお喋りをしてしまった。こころ配りが深く、今を精一杯活躍しているお二人の人柄が好感度抜群。私としては、現役の、しかも若い女性との一献は、それだけで元気の素を貰っているようなもので、有り難い限りだ。


「共謀罪」法案、強行採決される

2017年06月16日 | 政策

 昨日の午前7時46分、参議院本会議で、「共謀罪」法案は自民・公明などによって強行採決された。参院法務委員会での審議を打ち切り、採決を省略して、本会議で「中間報告」を行うという、極めて異例の手法を強行して。許されてはならない暴挙である。
 その日の6月15日、「総がかり行動委員会」は“共謀罪法案の廃止を求める6・15国会前”行動を提起していて、12時からは議員会館前で、夜は議事堂正門前での抗議集会が開かれた。私は夜に勤務があったので午後の部に参加した。
 社民党・民進党・共産党議員の、怒りの挨拶の後に登場した弁護士米倉洋子氏の話が特に分かり易かった。私見を交えてその話をまとめると、
 確かに国会法56条の3第1項には「・・・各議院は、委員会の審査中の案件について特に必要があるときは、中間報告を求めることができ」とあり、
 
56条第2項には「議院が特に緊急を要すると認めたときは、委員会の審査に期限を附けまたは議院の本会議において審議することができる」とある。
 
日本の国会では、議案は委員会で採決をした後本会議に上程し、審議・採決するを通例としてきた。56条はその例外規定である。“特に必要のある時”や“特に緊急を要すると認めたとき”に相当する事態に立ち入っていたのか?
 単に政権側に“特に必要があった”にすぎない。法務委員会の審議が尽くされていないならば会期を延長すればよい。そこに踏み込まなかったのは、政権側の思惑だ。森友学園問題や加計学園問題で野党の追及を避ける為に、一刻も早く国会を閉会したい、しかし共謀罪法は成立させたいという必要があったのだ。要するに国会と政治の私物化である。
 共謀罪は犯罪前の合意を処罰するもので、「心の中の自由の侵害につながる」。そのことだけでも慎重審議を必要とし、国民の疑問に丁寧に答えねばならないはずなのに、その行為はなされないまま法案は成立してしまった。
 
米倉弁護士は朝日新聞に掲載された落合恵子氏の話をも紹介した。「特定秘密保護法、安全保障法制なども数の力によって成立した。では、誰がその力を与えたのか。私たちはその問に、向きあっていかねばならない」と。


ビワを捥ぎ、ビワ寒天を作る

2017年06月13日 | 身辺雑記

 ビワ捥ぎの日を心待ちしていた。この数年毎年のように、大森に住む、妻の友人のWさんのお宅にお邪魔しては、秋には柿や果林を、初夏にはビワを捥がせてもらっている。ビワ捥ぎには2年前の6月に出掛けていた。今年もその時期を迎え、お声が掛かるのを待っていると、「今年は実るのが少し遅いですがお出で下さい」とのお誘いを頂いて、69日(金)に出掛けて行った。
 広い庭では畑が耕され、花や木が植えられていて、ビワの木は2本。そのうちお宅に接するように生えている枝にビワはたわわに実っていた。“これは獲るぞ”の思いがふつふつと湧いてくる。まずは枝切バサミを使って高いところを狙ったが、挟んだビワがハサミから落ちてきてしまい使い物にならない。そこで枝切バサミは諦め、脚立を2台借りてその上で作業をした。1時間ほど夢中になって捥いだ。その総数は全部で250個はあっただろうか。




 一休みして2階に案内され、そこからビワ木のテッペンを見ると、まだ狩っていないビワが多数あったが、ベランダに出ての挑戦は敢えてしなかった。帰ってきて目方を測ると何と11キロもあった。
 そのうち100個ほどのビワでビワ酒を2瓶漬けた。知人2人にもお裾分けをしたがまだ相当数が残っていた。それなりに早く処理しなければならないのだが、ジャムにするのは労が多いと言って妻はジャムにはしたがらなかった。(写真:捥いだビワはこれだけあった)

         

 私がブログ原稿を書くのに夢中になっている間に、妻は方向を定めたらしく、ビワから種を取り除き、果肉を細かく刻んで煮始めていた。どうするのかと聞くと、こうやって煮込んだビワ果肉で、後でビワ寒天を作るとのこと。合点がいった。

 最近、我が家では「かんてんパパ」で購入した抹茶寒天や”かんてんの素”を使ってコーヒー寒天を作っていた。コーヒー寒天作りには私も調理に参加していた。朝飲むコーヒーとは別にコーヒーを淹れ、そこにかんてんの素と少量のグラニュー糖を加えよくかき混ぜて熱した後、小さいカップに6個に小分けして移し替え、ラップを被せて冷蔵庫にしまっておくと4時間ほどでコーヒー寒天が味わえる。コーヒーが好きな私には嬉しい限りだった。(写真:コーヒー寒天)



 昨日もその要領でビワ寒天を作った。(写真は下段に)
  (
1)小さな鍋に水300ccを入れ、そこにビワ果肉150グラムとグラニュー糖を少量加え、熱しながらよく掻き混ぜる
 
(2)そこへ”かんてんの素”を3グラム加えて、熱しながら90秒掻き混ぜる
 
(3)小瓶6個に小分けしてラップを掛け
 
(4)冷えてから冷蔵庫に仕舞う。
  簡単に作れて、
これで4時間後にはビワ寒天が味わえる。微かな甘さながら美味しい。



  
              (1)                          (2のかんてんの素)


  
                        (3)                            完成品


王子分水を歩く

2017年06月11日 | 江戸の川・東京の川

  5月28日に千川上水公園の掲示板を読んで初めて知ったことだが、千川上水は、掘割の千川上水調節池まで流れ来て、そこからは竹樋や木樋の暗渠となって、六義園や江戸市中に給水されていた。又、1865(慶応元)年には、その分配堰の直ぐ上流を起点(図A点)として、新たな水路が開削された。その流路を王子分水(図中には反射炉分水と書かれている)と呼び、江戸幕府の大砲製造に伴い造られ、反射炉(D点)の錐台水車への利用が主な目的だったそうな。

 その王子分水はA点から石神井川(音無川)へと流れていた。正確には、何故か石神井川を掛樋(E点)で渡していた。その流路は、結婚して間もない頃に住んだ西ヶ原4丁目の直ぐ傍を流れていた。これは是非その流れを辿ってみたいと考えていて、その思いは漸く、67日(水)に実現した。  
 今日のブログはその時の記録。





 「千川上水分配堰」(A点)を出発し、暫くは明治通りを進む。図のB付近は分水の面影は全く残っていなかった。スーパー「みらべる」を過ぎて細い道へと左折すると、そのまま真っすぐ国道17号を突っ切り、高速道路真下で右折。更に真っすぐ進み明治通りを横断する。・・・といった具合で、西巣鴨駅付近では幹線道路や高速道路の為に水路跡は分かりづらい。
 明治通りを渡ると、そこからは分かり易い。天理教々会(C点)を過ぎると都電「西ヶ原4丁目」電停が現れてくる。私達が、王子や大塚へ行くのによく利用した思い出多い停留所。40年前と殆ど変わらない姿を見せてくれた。天理教々会を左折すると、ここは水路であっただろうと思わせる緩い湾曲の道。その右側は下りとなっていて、ここが尾根筋だったことを知る。
 桜丘高校を過ぎる辺りから坂を下り始め、高速道路(=明治通り)を越え、滝野川へ下っていくと、「醸造所試験所跡地公園」(D点)が現れた。




 実はここに反射炉と錐台が置かれたのだ。大砲は造られることなく、その後この地には民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)が設置され、
1872(明治5)年から操業開始。更にその後大蔵省印刷局の工場となり、更に、明治35年には大蔵省醸造研究所が設立されるといった幾多の変遷を経ている。そのレンガ造りの建物は国指定の重要文化財となり、敷地は公園となっていて、多くの人の憩いの場となっている。分水は公園の中央を流れていたらしく、それに沿って進み、公園を抜けると石神井川だった。





 
石鍋秀子著『王子に生まれて』の絵にある様な樋が掛けられていたのだが、当然今は面影を留めてはいない。その絵に千川上水と書かれていたものを見たのだが、まさかここに千川上水が流れていたはずがないと、その先を考えなかったわが身の不明を思った。(写真:石鍋秀子さんの絵より)
 
王子分水を石神井川に樋で渡したのは、農業用水としての利用や、製紙工場への給水の為と思われる。
 帰りに鹿島紡績創設者の鹿島万平の碑が建てられている紅葉橋袂の「金剛寺」に寄って帰路に就いた。(以下各地点での写真)









  
       A地点              B地点(高速道路真下)

  
         C地点(西ヶ原4丁目電停)              D地点付近(ここを分水が流れていた)

  
   D地点(公園内にあるレンガ造りの建物)        金剛寺内「鹿島万平翁の碑)

 



藤田美術館所蔵の「地蔵菩薩立像」について

2017年06月09日 | 映画・美術・芝居・落語

 もう1ヶ月以上も前のことになるが、59日に奈良博で「快慶展」を鑑賞し、翌日に藤田美術館を訪れた。それらのことは5/145/19のブログに書いた。
 
そのことに端を発し、2012/4/15放送の「日曜美術館」で、「破格のコレクター大阪にあり~探訪!藤田美術館の至宝~」が放映され、快慶作「地蔵菩薩立像」は廃仏棄釈の興福寺から流出したことを教えて頂いた。ブログを書く時点でも全く知らなかったことで、知識が増えたことを喜んだ。
 後日、妻が購入していた『国宝 曜変天目茶碗と日本の美』を見ていたときに、サントリー美術館学芸員佐々木康之氏の「藤田美術館の二体の<安阿弥様>」のコラムを読んだ。そのなかで「・・・本像(地蔵菩薩立像のこと)は、明治39年の興福寺の古写真に写ることから、春日信仰にゆかりの深い同寺伝来とわかり、その意味でも貴重な像である。・・・」とあった。
  “明治39年の興福寺の古写真に写る”とは、明治39年時点で「地蔵菩薩立像」はまだ興福寺にあったのではとも思える文章である。そのことと廃仏毀釈の関係が気に掛かった。廃仏毀釈について詳しく知るわけではないが、遅くとも明治10年には廃仏毀釈の大波は沈静化していたのではないか。興福寺は廃仏毀釈で廃墟と化していたとの記事も読んだ。明治39年に「地蔵菩薩立像」がまだ興福寺にあったとするならば、それは不思議に思い、あれこれ聞いたり、調べたりもした。
 
直接、藤田美術館に電話で問い合わせてもみた。電話に出られた方が学芸員であるか否かは分からないが「地蔵菩薩が廃仏毀釈により興福寺よりこちらに移ってきたものと、私どもは聞いています」とのこと。そういう理解で良いのかと、探求はそこで止めた。


 しかし、一昨日、再度『国宝 ・・・』を読んでいたら、藤田傳三郎・藤田美術館の略年譜に、「明治39年益田孝から興福寺の地蔵菩薩立像を引き受ける」とあるのに、初めて気が付いた。”等”の中には、興福寺(大乗院)が所蔵していた「玄奘三蔵絵」も含まれるのではないだろうか。
 ここからは私の推察を交えての感想である。藤田傳三郎はさまざまな事業で財を成した。仏像の受け手側は、明治維新後、廃仏毀釈によって失われる危機を憂慮し、長い間、私財を投じて仏像や仏画などの文化財保護に尽力した。一方、手放し側の興福寺には明治39年ころまでには、財政難に陥っていたという説がある。
 
廃仏毀釈を直接の原因とするだけでなく、廃仏毀釈を遠因とする諸事情によっても、仏像の変遷があった。と押さえれば、中間に益田孝(=鈍翁)を介してはいるが、”「地蔵菩薩立像」は廃仏毀釈の興福寺から藤田美術館に流失した”ことがストンと胸におちた。
 快慶作の、重要文化財「地蔵菩薩立像」は色彩豊かな仏様である。