5月28日に千川上水公園の掲示板を読んで初めて知ったことだが、千川上水は、掘割の千川上水調節池まで流れ来て、そこからは竹樋や木樋の暗渠となって、六義園や江戸市中に給水されていた。又、1865(慶応元)年には、その分配堰の直ぐ上流を起点(図A点)として、新たな水路が開削された。その流路を王子分水(図中には反射炉分水と書かれている)と呼び、江戸幕府の大砲製造に伴い造られ、反射炉(D点)の錐台水車への利用が主な目的だったそうな。
その王子分水はA点から石神井川(音無川)へと流れていた。正確には、何故か石神井川を掛樋(E点)で渡していた。その流路は、結婚して間もない頃に住んだ西ヶ原4丁目の直ぐ傍を流れていた。これは是非その流れを辿ってみたいと考えていて、その思いは漸く、6月7日(水)に実現した。
今日のブログはその時の記録。
「千川上水分配堰」(A点)を出発し、暫くは明治通りを進む。図のB付近は分水の面影は全く残っていなかった。スーパー「みらべる」を過ぎて細い道へと左折すると、そのまま真っすぐ国道17号を突っ切り、高速道路真下で右折。更に真っすぐ進み明治通りを横断する。・・・といった具合で、西巣鴨駅付近では幹線道路や高速道路の為に水路跡は分かりづらい。
明治通りを渡ると、そこからは分かり易い。天理教々会(C点)を過ぎると都電「西ヶ原4丁目」電停が現れてくる。私達が、王子や大塚へ行くのによく利用した思い出多い停留所。40年前と殆ど変わらない姿を見せてくれた。天理教々会を左折すると、ここは水路であっただろうと思わせる緩い湾曲の道。その右側は下りとなっていて、ここが尾根筋だったことを知る。
桜丘高校を過ぎる辺りから坂を下り始め、高速道路(=明治通り)を越え、滝野川へ下っていくと、「醸造所試験所跡地公園」(D点)が現れた。
実はここに反射炉と錐台が置かれたのだ。大砲は造られることなく、その後この地には民間で最初の紡績工場(鹿島紡績所)が設置され、1872(明治5)年から操業開始。更にその後大蔵省印刷局の工場となり、更に、明治35年には大蔵省醸造研究所が設立されるといった幾多の変遷を経ている。そのレンガ造りの建物は国指定の重要文化財となり、敷地は公園となっていて、多くの人の憩いの場となっている。分水は公園の中央を流れていたらしく、それに沿って進み、公園を抜けると石神井川だった。
石鍋秀子著『王子に生まれて』の絵にある様な樋が掛けられていたのだが、当然今は面影を留めてはいない。その絵に千川上水と書かれていたものを見たのだが、まさかここに千川上水が流れていたはずがないと、その先を考えなかったわが身の不明を思った。(写真:石鍋秀子さんの絵より)
王子分水を石神井川に樋で渡したのは、農業用水としての利用や、製紙工場への給水の為と思われる。
帰りに鹿島紡績創設者の鹿島万平の碑が建てられている紅葉橋袂の「金剛寺」に寄って帰路に就いた。(以下各地点での写真)
A地点 B地点(高速道路真下)
C地点(西ヶ原4丁目電停) D地点付近(ここを分水が流れていた)
D地点(公園内にあるレンガ造りの建物) 金剛寺内「鹿島万平翁の碑)