マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

中央構造線へ(その2)

2016年10月24日 | 信濃紀行

 国道152号線は南下するにつれて道はどんどん細くなる。分杭峠を越える道は車のすれ違いが頗る大変。対向車が現れないことを願いながら、ゼロ地場と称される分杭峠を越えると北川露頭があった。駐車場から歩くこと10分。川岸にその断面はあった。
 更に南下し大鹿村に入ると里山風景が現れた。翌日に行われる大鹿歌舞伎の会場を聞く為に大鹿村役場に寄り、安康露頭への道を確かめた。村役場から露頭への道は運転の困難度が増してきた。ベテランドライバーTさんに運転のすべてを任せ走ること25分、漸く目的地に到着。
 
国道から川岸まで下ると、川の対岸に露頭が見えて来た。今まで見て来た露頭とは明らかに違う。中央構造線とは二つの地層が接触する断面と思い込んでいた知識は根底から覆された。赤土系の領家断層と緑色系の三波川地層が交互に露出しているのだ。中央構造線の断面は線ではなく幅のある窪みと理解したばかりだったが、まさか交互に、幾筋も現れているとは。
  ここ安康露頭は実は「中央構造線博物館」の野外施設である。私達が対岸の露頭を見学している横に中央構造線について説明する看板が新設されていた(今年の7月1日改定とあった)。
このことは、中央構造線に対する最新の学問的知識を「博物館」が再整理したと考えてよいだろう、と私は思った。私はこの知識を基にしながら、不遜にも、自分なりに地層が交互に現れる理由を考えた。
 まずは説明板から。『中央構造線は、中生代白亜紀に誕生した長大な断層=ずれ目である』とあった。(中世代白亜紀とは、約1億4500万年前~6600万年も前のこと。日本列島の基礎をなす部分は大陸とは地続きであった)
 更に『内陸に出来た領家変成帯と海溝付近の深部に出来た三波川変成帯は、はじめは離れていたはず。間にできた中央構造線が
繰り返し活動し間にあった地質帯が失われ、今の様に関東~九州にわたって接するようになった。それが中央構造線のどの時代のどのような活動によるものかはまだよく分かっていない。もともと離れて出来ていた内帯の岩石と外帯の岩石が接している境界を”地質境界としての中央構造線”といいます
』と続いていた。
 ここで注目したのは中央構造線を動的な面と静的な面で捉えている点だ。
 動的な捉え方は、過去に中央構造線が”繰り返し活動し”た結果、はじめ離れていた二つの変成帯が接するようになった、と捉えている点だ。中央構造線そのものを活動帯と捉えている。その活動が長い年月には、安定を見た時期もあるだろうが、激動の時もあった。激しい活動や長期間にわたる”ずれ”によって地層は複雑に変化していった。領家変成帯と三波川変成帯が交互に変成されることとなるズレが生じたこともあったのだろう。・・・”と私は思った。 
 静的な捉え方は過去の集大成としての現在の一瞬を”地質境界としての中央構造線”と捉えている。その一瞬が偶然にも地表に現れた露頭を私達は見ていた。
 Wさんは「仲間の間でも解釈がいろいろあり議論になっています。兎も角中央構造線は断層=ズレなのだから、何でもあり」と繰り返し語っていた。
 ともあれ、中央構造線の断層が縦に交互に現れるのは珍しいはずで、大変貴重な風景に思える。私たちが見て来た露頭のうち、ここだけが天然記念物として国の指定を受けたのも頷けた。
 4人とも満足感を抱いて、まだ暗くならないうちに帰路につき、飯田市にある「ニュー・シルクホテル」を目指した。

    (大鹿村や安康露頭が登場する地図)

  


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