マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

尾高惇忠の生家に立ち寄って

2015年06月17日 | 政策

 6月14日(日)~15日(月)、深谷に住む義妹夫妻を訪ね、一泊してきた。この間、深谷近辺の、私達の知らない幾つかのお店を案内してもらったが、未知のお店を巡るだけで十分楽しかった。15日には渋沢栄一生家へ回り、そこへの途中、栄一の従兄に当たる尾高惇忠の生家をも見学してきた。

 深谷の街は以前に増して小奇麗なお店が増えた。駅付近のスーパー内にある、新鮮な魚で有名な「魚耕」で刺身など購入。夜はそれらを肴に宴会。夫妻が九州旅行で手に入れた純米吟醸酒「鍋島」を取っておいてくれて、これをじっくり味わった。地元以外では手に入りづらいこのお酒、盃に注ぐと、濃厚な吟醸香が漂い、一口味わうとコクがあり、美酒だった。気持ち良くなり、お父さんと一緒にカラオケで盛り上がった。持参した「Surface」をテレビに繋ぐと、You Tube経由で多くの曲が流れる。お父さんは「蘇州夜曲」と「支那の夜」をご所望。御年91歳の身に、戦前の流行歌は今もって懐かしい曲と知った。(写真:純米吟醸酒「鍋島」)



   (お宅の裏山「仙元山」にある浅間神社)

 
  (仙元山から北陸新幹線が眺められる)

 明けて15日(月)、渋沢生家を目指す途中、その少し手前に「尾高惇忠(じゅんちゅう)」の生家もあり、まずはこちらから見学した。私が全く知らなかった惇忠。ボランティアの方の説明が丁寧で、資料も豊富に展示されていて多くのことを学んだ。
 深谷侮るべからず!!深谷の三偉人として、渋沢栄一・尾高惇忠・韮塚直次郎が紹介されていた。この3人とも、世界遺産に登録された「富岡製糸場」と縁が深い。又栄一と惇忠は従兄弟でもある。
 惇忠は1830(天保元)年、現在の深谷市下手計(しもてばか)の生まれ。17歳の頃には、自宅で塾を開き、近隣のこどもたちに論語などを教えた、というから学問に超秀でていたのだろう。栄一の10歳年上で栄一もこの塾で学んだとある。栄一は後年「藍香(惇忠)ありて青淵(栄一)あり」と述懐していたとも。(写真:尾高惇忠生家正面)



 
     (生家裏にある煉瓦造りの倉庫)         

 10代で尊王攘夷思想を抱き、栄一らとともに、この屋敷の二階で高崎城乗っ取りを謀議するも、計画を途中断念。挫折後何故か、徳川慶喜に仕え佐幕派へ転向。この何故かの説明は省かれているのが残念。
 明治時代となると、富岡製糸場の設計に携わり、韮塚直次郎に煉瓦づくりを任せ、深谷が煉瓦の街と言われる基礎を築いたのであった。そういえば、深谷駅は見事な煉瓦で作られている。
 面白い逸話も紹介された。富岡製糸場初代場長の頃、女工を集めるのに苦労していたが、自分の娘を故郷から呼び寄せ“伝習女工第一号”とした事により、深谷の人々が安心して自分の娘を工場へとの送り出したとのこと。
 後年は宮城県の発展に尽くし、第一銀行仙台支配人。

 サクセスストーリとも波乱万丈の人生とも言える生涯。1901年、70歳で深川で没。