マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

甥の訪問

2013年09月09日 | 身辺雑記

 8月の末日に、久し振りに甥が我が家にやって来た。彼の母(私の妹)が、この10月で古希を迎えるので、その時までに、彼の祖父(妹や私の父)の様子を少しでも調べ、母に伝えたいので、祖父の話を聞かせて下さい、ということでやって来たのだ。親孝行な息子である。私の父は、昭和18年に出征し、20年にボルネオ島で戦病死。私が2歳の時の出征で、私の記憶の中に父の面影は全くないとも伝えておいたのだが、それでも良いとのことだったので、久し振りに一献傾けるほうを主目的に待っていた。
 甥と言っても既に42歳。私が30歳の時の生まれ。初めての甥だったので、凄く可愛がったらしい。そのころ住んでいた碑文谷近辺を乳母車に乗せてよく散歩したことを思い出した。高校生の頃にも我が家に度々やってきて、私は数学を教えたらしいが、この記憶は殆どない。成人してからは、慶事・法事などで会ったりはするが、我が家にやって来ることは無くなり、多分20年振りの訪問だったろう。
 私から、父について語るべき話は無かったが、19年前に家人が母から聞き書きした物語があった、母と私達夫婦が箱根に遊んだ時のある夜、一晩掛けて家人が聞きとったメモを、甥が来るのに合わせて、それをA4用紙4枚に纏めておいたのだ。酔わないうちに、そのメモを読んで貰った。彼の知らない話が沢山あり、それを読んで彼は驚き、喜んだ。そもそも父と母は書道教室で知り合ったとの事。学ぶ場は昔も今も、人と人の出会いを用意する。私からの情報は皆無でも、目的は十分に達せられる内容だったのだろう。母から見た父の人柄も書かれていた。

 ここで、個人的なことをこれ以上書いても意味はないが、大正から昭和前半と言う一時代を色濃く象徴する内容を2・3記しておきたい。
 新潟で次男として生まれた父は上京し、大工として一人前になった後に養子として入った家の職業は”仕事師”の親方で、20~30人の若い衆を抱えていた。たまに渡世人がやってきて、驚いたことに仁義を切り、数日間宿泊し、一宿一飯の恩に清掃で報いたとか。幾ばくかの”草鞋銭”も渡したそうだ。
 暮れに、門松などの、自家製のお飾りを販売すると、その利益は3ヵ月間の生活費にもなったそうな。
 関東大震災時は、小名木川から砂町までの間、馬の腹の下を潜ったりして辛うじて逃げ帰った、とか。
 母の名字と私や妹の名字が違う。旧民法下、次女だった母が戸主となると、実質的な結婚をしても、その籍は抜けず、法律上は”内縁の妻”であった。戦後民法が一部改正され、父の姓を名乗りたくても、既に死んだ人との結婚は認められず、終生”金子”の姓であった。などの話も甥は知らなかったので、楽しそうに私達の解説を聞いていた。
 父の所属部隊を調べ、ボルネオ島を訪ねる積りだとも語った。私とは全く正反対で、”血脈”への拘りが強い。
 
 今回の訪問で、私の方にも話があった。昨年、山に行きたいと言っていたのを思い出し、「今年の秋以降、山に一緒に行かないか」と誘ったら、是非行きたいと喜んだ。
 8月26日には向丘高校元同僚Wさんと、「折り入ってお話したいことがあります」との事で会ったときの話は「来年の夏、8月上旬には山に同行したい」とのことだった。
かって山に良く行っていたグループに運転得意な甥も加われば、メンバーは最大で5名となり、そのうち運転手は4名で、彼の車は7人乗りのバンとか。今まで以上に山へ行けそうな気配となって来た事が嬉しかった。要するに私は、何でも遊びに結びつけしまうのだ。