マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

野火止用水行(その1)

2022年05月06日 | 江戸の川・東京の川

 中学時代のクラスメイトに、住所が「埼玉県新座市野火止」という友がいる。「野火止」とは一度聞いたら忘れられない地名だ。あるいは又、所沢ICに向かう車のなかで、「あれが野火止用水」と何度か教えられた。12月20日に出かけた、第3回玉川上水行の時は小平監視所付近で玉川上水と野火止用水が分岐する掲示板を見た。いつかは歩こうと思っていた野火止用水が玉川上水と一体に見え始めてきて、次は野火止用水を歩こうと思った。今回は歩き始める前に色々調べてみた。参考にしたのは『野火止用水 歴史と清流復活の讃歌』と新座市のホームぺージ。




 新座市のホームぺージで、まず知ったことは両上水の開削が密接な関係にあったこと。玉川上水行では書き足らなかった点もあるので、まずはこのことに触れておくと、
 「承応2年(1653)幕府は多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許しました。総奉行として老中の松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いました。難工事になり、信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じて工事を続行させ、承応3年(1654)完成しました。
 信綱はその功績が認められ、領内の野火止に玉川上水の分水を許されました。承応4年(1655)、関東ローム層の乾燥した台地のため、生活用水に難渋していた野火止の地に、野火止用水が開削されました。工事担当を安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。現在の東京都小平市から掘りおこし、野火止台地を経て新河岸川に至る全長約24キロメートルにも及ぶ用水路です」とある。
 

 松平伊豆守信綱は当時川越藩主で両上水開削の総奉行。両工事の工事責任者、家臣の安松金右衛門は測量に詳しく、玉川上水の開削では実際に玉川兄弟を手助けをしたとも伝えれられている。玉川上水の完成した翌年に野火止用水は完成。玉川上水は開削に2度失敗し、その度に多摩川からの取水点の標高は次第に高くなったいった。その故、台地の野火止に用水が流れる事が可能になったといっても過言ではない。
 「工事開始は2月10日で、その40日後の3月20日には野火止に水が流れてきたと記されています。用水の分水割合は、玉川上水7分、野火止用水3分といわれ、主として飲料水や生活用水に使われました」とも書かれている。

 用水の目的は当初は農業用水よりも生活用水としての使用で、小平市から東大和市・東村山市・清瀬市・東久留米市を経て埼玉県新座市に入り、新河岸川へ流れ込んだ。分水が始まるのは新座市に入ってからで、そこまでは単に通過点に過ぎない。この上水の目的は野火止新田の開発であり、この土地で人々が生活できるようにすることであった。開削に前後し川越藩では農民や家臣を多数入植させたことに見られるように川越藩に多くの益をもたらすものであったことがよく分かる。この用水は別名“伊豆殿堀”とも呼ばれている。川幅は狭いところで1.8メートルあつたそうな。(右上の地図は「野火止用水散策Map 東京編」より)
  明日から下流にある新河岸川を目指して、3・4回に分けて、野火止上水を歩き始める予定。
 
 


玉川上水を歩く(その7)

2022年04月01日 | 江戸の川・東京の川

 3月19日(土)に玉川上水行を予定していたが、雨模様を警戒して1日延期し、20日(日)に「玉川上水駅」から終点の羽村取水堰まで歩いて来た。歩数にして3万歩を超えていた。第4回目の遡行で、最初の回こそ私独りだったが、2回目からは向丘の元同僚菅原さんが加わり、最終回には大泉の元同僚で先輩の石川さんも同行された。お二人は知り合いではなかったが、同じ高校教員だった身、話は通じ合うだろうと思ってお誘いしたのだった。お二人とも私の玉川上水行を知っての参加希望だった。




 9時25分頃「玉川上水駅」を出発。ここからは西武拝島線に沿う様に、その南側を拝島駅まで西に進む。ここでJR青梅線と交差し、今度は青梅線に沿うように北北西に進路をとる。多摩川と交差した地点がゴールだ。取水堰に着いたのは午後2時を過ぎていたので5時間ほど歩いたことになる。ソフト「乗り換え案内」で玉川上水→羽村間の鉄道での移動距離を調べると11.9km。ならば、全体として14kmは歩いたことだろう。ゴール地点で“投渡堰”(なげわたしぜき)を目撃し、目的を達成したのだった。
 通過したのは立川市・昭島市・福生市・羽村市の4つ。ほぼ川沿いを進むことと早とちりしていた私は今回は地図のコピーを用意していなかった。拝島駅から福生市の市街地までは川から離れての歩みが多くなり、石川さんが用意していた地図を見ながら進んだ。
 印象に残ったポイント6ヵ所を綴っておきたい。
 ①見影橋と源五右衛門分水
 「武蔵砂川駅」付近にあったのが見影橋。江戸時代から架かっていた橋が奇跡的に今に残るという古い橋で、上流から四番目の橋だったので「四ノ橋」と呼ばれたが、以後「旦那橋」→「御影橋」→「見影橋」と名称変更して来た長い歴史を持つ。その袂には明治時代の名主の名前をにちなんだ、「源五右衛門分水」の取水口の跡が残っていた。(写真:今も取水口はあった)







 ②残堀川との交差
 この風景を見た一瞬の驚きは忘れられないほど大きかった。玉川用水が突然姿を消し、交差する真下を見ると右図の様な景色が現れたのだ。近くに立てられた説明文読むと、この川は残堀川と呼ばれ、かつては「狭山池助水」として玉川上水に合流していたが、明治時代になって川が汚れてきたので、玉川上水の下を潜らせ多摩川に放流するように改修された。






 しかし、その後残堀川の洪水対策として、サイホンの原理を応用した「ふせこし」と呼ばれる工法で再改修され、現在では残堀川の下を玉川上水が下を潜っている。玉川上水は地下に潜るので一瞬消えたように見えのだった。







 ③砂川用水
 玉川用水から分水された用水は幾つもあるが、砂川用水もそのひとつ。明暦三年に開削されたというからその歴史は古い。武蔵野新田開発のため、松中橋から玉川上水に平行に東上し、五日市街道に沿って開通された。小部落に過ぎなかった砂川新田は五日市街道に沿って計画的に耕地が開発出来るようになったそうな。


 ④多摩川近し
 ゴール手前1.5km付近からは玉川上水を右手真下に眺めながら進んだ。左手には、あれが多摩川河川敷だろうなと思われる低部が望めた。その高低差にして10mはあるだろうか。当然玉川上水側はその分深く掘られ、そこを清流が流れていた。大変疲れてはいたが、森林浴にもなり、気分爽快となるフィナーレだった。

 ⑤玉川兄弟像
 羽村堰の近くには、庄右衛門、清右衛門の玉川兄弟像がある。玉川兄弟とは、玉川上水建設の功によって「玉川」の姓を許され、武士と同身分の扱いになった庄右衛門・清右衛門兄弟。昭和33年、この2人の功績をたたえる銅像が羽村堰に建てられた。

 杉本苑子著『玉川兄弟』は非常に面白く2度読んだが、小説では兄弟は2度失敗をしている。当初の計画では、青柳村(現国立市青柳)の多摩川河畔から取水すべく工事が始まった。神代あたりまで掘削して試験的に通水したところ、府中八幡付近の“悲しみ坂”のあたりで流水は地
中に飲み呑みこまれてしまい、下流まで流れなかったのだ。これが一度目の失敗。

 取水口を福生に替えて工事を始めるが、今度は当時の技術では掘りぬくことの出来ない大きな岩盤に突き当たってしまう・・・これが2度目の失敗。
 その失敗工事の跡が空堀となって福生市熊川の『みずくらいど公園』に残されている。
 “あとがき”で、杉本は「1、2度失敗したらしいと言われているがそれを裏付けに足る質の高いしっかりした、資料はない」と書いている。いずれにしろ難工事であったことは想像に難くない。
 




 ⑥投渡堰(なげわたしせき)
 玉川上水の凄い点は3つあると思う。羽村から四谷まで43km間に92.3mの高低差しかないこと。僅か8ヶ月で造り終えてしまったこと。そして分水点の投渡堰だ。
 羽村取水堰は1654年、多摩川の水を玉川上水へ引き込むために建設された。ふだんは門扉を閉じて水をため、堰と直角に設けられた第一水門から取水、30m下流にある第二水門で水量を調整して玉川上水へ流す。複数の支柱の間に桁を渡し、「投渡木(なぎ)」と呼ばれる横架材を並べて垂直材で支える構造。大水の際は、垂直材の丸太を取り払い、投渡木ごと多摩川に流してしまうことから、「投渡堰」と呼ばれている。

 大水が第一水門を破壊し、濁水が玉川上水に流れ込む被害を防ぐために、こうした構造になっている。現在の羽村取水堰は、1911年に木製からコンクリート造に改築されたが、基本的なしくみは建設当初のまま。360年以上にわたり、 玉川上水を守り続けている。(写真:こちらが第二水門か?)
 現在この投渡堰は土木学会選奨土木遺産に認定されている。
 
 

 拝島駅から青梅線で立川へ。駅ビル内の蕎麦屋で遅い昼食をとり、冷たいビールで喉を潤した。この瞬間の為に歩いたと思えるほど美味しかった。
  
 
 


玉川上水を歩く(その6)

2022年01月14日 | 江戸の川・東京の川

 12月20日(月)に第3回目となる玉川上水散策をしてきた。今回は小金井堤より上流の多摩都市モノレール「玉川上水駅」までを綴る。
 ⑪八左衛門橋
 この橋の説明文には玉川上水に輸送船が運航されたと記されていた。
 「小平市喜平町(旧小川新田)の旧家で、組頭をつとめた滝島八左衛門が架けたので、この名がつけられました。滝島家は、明治初年(3年~5年)に玉川上水に通船されたとき、小平の船持5軒のうちの1軒で、物資の輸送に当たるとともに、「八左衛門橋」のたもとに茶店を設け、上水舟行の船頭たちの休息場所を提供していました。架設年度は不明ですが、上水通船の開始の時期に近いころと言われています。」とあった。


 ⑫西武国分寺線
 私はこの辺りの鉄道に不案内である。帰宅後調べると、この線は西武線東村山駅と国分寺駅を結ぶ、5駅路線距離7.8kmという、非常に短い路線で、上水は鷹の台駅付近で路線と交差していた。開業は1894年とあるから、開通後既に100年以上経過していた(西武線最も歴史の古い路線)。そういえば中央線国分寺駅で黄色この鉄道を何度も見たことはあった。








 ⑬新堀用水
 小平橋を過ぎた辺りから、進行方向右手に玉川上水に平行する様に流れる細い水路に気が付いた。私達は上水と細い水路の間を進んだ。その水路は多分玉川上水の分流と思われたが、立川通りに架かる小川橋近辺まで続いていた。5kmほど長さだろうか。分水点は見つけられなかったが、この流れは「新堀上水」と知った。白鷺が泳ぐほどの清流であった。







 ⑭清流の復活
 実は私達が見て来た上水は羽村から流れて来た源水流ではない。昭和年代に上水は通水を停止し、多分流れに沿った付近は荒れていたことだろう。そこで清流を復活させようとの試みがなされていた。案内版には
 「ここの水は昭島市にある「多摩川上流水再生センター」(最下段に地図を載せた)からの再生水です。これによって水の無くなった「玉川上水」に水がよみがえりました。わが国の清流復活の先駆けとして全国の「蘇る水100選」に選ばれました。」と書かれていた。
 散歩道から上水が流れる地点まで下りることが出来て、ここで初めて「玉川上水」の水に直に触ることが出来た。


 ⑮多摩都市モノレール
 このモノレールに一度は乗ってみたかった。今回旅の終点に「玉川上水駅」を選んで良かった。中央高速道路で蓼科方面へ向かうときは、何度もこの下を通過したが、開業が1998年とのことで、既に23年が経過していた。ここから「立川北駅」まで乗車。遥か遠く富士山も眺められた。




 ⑯付け足し・・・陣屋橋 
 前回書き忘れてしまった橋があった。小金井公園手前にあった「陣屋橋」がそれで、橋の由来に玉川上水が新田開発にも活用されたと書かれていた。
 玉川上水完成後武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間には82か村の新田村が誕生した。この新田開発には玉川上水からの分水が大きな役割を果たしたと書かれている。
 南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋が置かれていたことから上水に架かる橋は「陣屋橋」と呼ばれたとも。

 この日は休息するようなベンチに巡り合えずほとんど歩きっぱなしでへとへとに疲れた。帰りは立川駅の一角にあるお寿司やさんで昼食。何年ぶりかで見る立川駅付近はすっかり様変わりしていた。




 


玉川上水を歩く(その5)

2022年01月07日 | 江戸の川・東京の川

  12月20日(月)、3回目となる玉川上水沿い散策をしてきた。9時20分三鷹駅をスタートし、14時丁度多摩都市モノレール「玉川上水駅」着。4時間20分間の散策で、距離にして14.5km、歩数にして約3万歩。(写真は玉川上水と千川上水の分水地点に建てられた碑)









 この日は快晴で、中央線高架区間からは富士山がはっきりと見えた。朝の気温は低かったが、歩くにつれてやや汗ばんでくるような陽気に。上流に向かうにつれて上水は地上よりかなり低きを流れるようになり、武蔵野の雰囲気は増してきた。江戸時代開削の玉川上水を歩くと、明治時代や大正時代の遺跡や歴史に触れる事になるのが面白かった。今回は小金井橋までの、印象に残った8カ所を綴る。(写真:水澄むところには鯉も泳ぐ)






 ①境浄水場
 三鷹駅から上流の玉川上水は三鷹市と武蔵野市の市境を流れている。歩くこと800m先の、上水右手に境浄水場があった。広大な敷地を有する浄水所。1924年の通水で、原水は村山貯水池と山口貯水池から引き入れている。緩速濾過方式とかいう方式の浄水場で日本最大規模だそうな。千代田区・渋谷区・港区・目黒区の一部に給水している。玉川上水に平行する様に造られ、かつては上水の水を引水しているかと思ったが、上水との関係は分からなかった。

 ②桜橋
 説明版には
 「明治22年に甲武鉄道(現JR中央線)が開通して境(現武蔵境)駅が出来ると、駅前から田無に至る道が開かれ、玉川上水に架けられたのが桜橋である。明治31年に国木田独歩が書いた『武蔵野』にこの橋は登場する。・・・」と書かれている。
 現在、JR武蔵境駅と西武池袋線田無駅を結ぶ道路は「独歩道」と呼ばれている。


 ③国木田独歩の木碑
 桜橋の傍らに「国木田独歩」の碑が立っていた。代表作『武蔵野』の6章に桜橋が登場する。
 「・・・自分は或友と市中の寓居を出て三崎町の停車場から境まで乗り、此処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある。それを渡ると一軒の掛茶屋がある、・・・」とあり、
 更には「・・・茶屋を出て、自分等は、そろそろ小金井の堤を、水上の方へとのぼり始めた。あゝ其日がどんなに楽しかったろう。成程小金井は桜の名所、・・・」と続く。
 独歩にとってこの散策が実に楽しかったのだ。



 
 ④千川上水との分水点
 かつて、巣鴨を起点として千川上水を遡り、玉川上水の分水点まで歩いたことがあったからここは見覚えのある景色だった。ただその時は分水の様子を見た記憶がない。今回はその風景をばっちり撮影したのが右と下の写真。(右の写真は玉川上水。下の写真が千川上水への流水部分)。  
 



 五日市街道
 桜橋を更に進むと上水は五日市街道とT字路交差し、その後はこの街道に沿う様に一橋大学小平キャンパスまで続く。
 


 





 ⑥小金井公園手前
 この付近の散歩道と上水。
 前回見られた紅葉はあらかた散っていて、落ち葉の上を歩くことが多かった。
 
 




 ⑦小金井公園
 ここは小金井公園の入口のひとつ。まだ訪れたことのない都立公園。面積を知って驚いた。何と80.2ha(=802000平方メートル)で、東京ドーム17倍の広さ。(写真:公園入口はこの奥)
 







 

 ⑧小金井桜
 上水沿いに立てられた案内版には以下の様に書かれていた。
 小金井堤の桜は、元文二(1717)年頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門が吉野などの桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたもの。
 戦後、小金井桜は年々衰えていったが、平成十五年八月玉川上水が史跡に指定されたことを契機に山桜の苗が補植され、名勝小金井の桜並木の再生・復活が図られている、と。
 小金井市の前に“花”が付けられ花小金井市となった理由が分かる気がしている。思えば、飛鳥山の桜も隅田川沿いの桜も吉宗の時代に植えられたのだった。
(写真は案内板から)

 





















 


「東京水辺ライン」で両国から小豆沢へ

2021年12月17日 | 江戸の川・東京の川

 12月12日(日)、「東京水辺ライン」の水上バスに乗船し両国リバーセンターから小豆沢までの船旅を楽しんできた。
 「源氏の会」はこの11月に再開した。この間1年以上ものブランク期間があった。妻は、1度だけ読み合わせた『和泉式部日記』を最初から再度語るよりも、新たな題材に変更しようと考え、『おくのほそ道』を選び、既に2回ほど会を開いて来た。

 “弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かにみえて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゅと云う所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて・・・” とあるように、芭蕉と曾良は深川から千住までは舟を利用し、千住から歩みを始めたのだった。
 「源氏の会」のメンバーもその船旅を体験しようと、私が下調べを始め、「東京水辺ライン」があることを思い出した。この「東京水辺ライン」の主な行先は両国から隅田川を下り、葛西臨海公園や浜離宮庭園などへ向かうのが中心で、隅田川を遡る本数は少なかった。(写真:この船“こすもす”に乗船)
 コロナ禍故か、現在千住に停まる便はなくなっていた。それでも不定期ながら月に1便の「特別ゆらぶら便」があり、両国リバーセンターを出発点にして、小豆沢まで至り、そこから引き返し、岩淵水門から荒川に入り、東京湾に至る便だった。千住は止まらないものの傍を通過するので、私はこれに試乗船することにした。

 丁度1ヶ月前に予約して、12日に乗船してきた。この日は元同僚の菅原さんと大江戸線両国駅で待ち合わせ、8時50分にリバーセンターをスタート。天気予報通り比較的暖かい日だったので、甲板に出て川沿いの景色を眺めた。

 以下にその景色の写真と一口メモ。
①両国リバーセンター
 本船のスタート地点は両国国技館の直ぐ傍にあり、高速道路「向島線」の真下。7年前にも「東京水辺ライン」でここから浜離宮へ行ったことがあったが、その時とは様子が違う。受付は新築ビルの中の2階に移動していた。乗船者は全部で約50名ほど。




②厩橋
 乗船して、直ぐデッキに移動した。蔵前橋を過ぎて目に入って来たのが厩橋。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなむとか。馴染み深い春日通りがここを通っている。

 

 



③乗船場「浅草二天門」
 右手に東京スカイツリーを見ながら進むと、最初の乗船場が「墨田区役所前」で、次いで「浅草二天門」へ。どちらの乗船場でも、乗船者や下船者がいなくても接岸していた。浅草寺東側に建てられている二天門から延びる東参道の突き当りが乗船場。


 


④白髭橋遠望
 かって、柳沢吉保の孫信鴻が書き綴った『宴遊日記』に触発されて、六義園からこの白髭橋まで歩いたことがあり、橋の中ほどで引き返したが懐かしい橋。明治通りはここを通っている。

 




⑤こすもす
船内
 どの橋だったか確かな記憶はないが、デッキにいると低い橋桁に頭をぶつける可能性がありますからと、甲板から船室へ移動を告げられた。現在は船室での飲酒は禁止だったが食事は“黙食”なら可とのこと。


 

⑥「千住乗船場」
 ここは千住汐入大橋付近。現在船の発着場にはなっていないが、少し前の地図では水上バスの発着場となっている。コロナ禍終われば再開されるだろうと期待したい。
 壁には旅立ちの地として「千じゅと云所にて、船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがれて、幻のちまたに離別の泪をヽぐ」と書かれている。万一、私が“おくのほそ道”行などを始めるならば、この地点付近から歩き始めるだろう。

⑦荒川区立5中 
 菅原さんが突然「あの建物荒川区立第五中学て書いてあるよ」と言った。数年前、私がボランティア教員として勤めた中学だ。慌ててシャッターを切った。勤務していた頃より、建物は綺麗に見えたのが不思議。こちらの先生とは今もライングループを形成しメール交換をしている。




⑧尾竹橋
 以前はこの様な形ではなかった。リホーム進行中なのだろうか?

 

 



 

⑨あらかわ遊園地
 ゴンドラは動いていなかった。確か現在改築中のはず。ゴンドラに乗ったことはないが、数回ここを訪れたことがあった。福寿会々長小林さんがお孫さんを連れて度々ここへ遊びにいっていた。

 

 



⑩岩淵水門
 何度も見た青水門。小豆沢を折り返した船はこの門を潜り荒川に出て東京湾へと下る。次回は赤門も見てみたい。




⑪新河岸川
 水門を過ぎ、こちらの川に入ってくると、隅田川と比較して流路の幅は狭くなる。川越藩主松平信綱が改修工事を実施し、江戸と川越を結ぶ舟運ルートが完成した。その運航が復活されればと思う。

 

⑫小豆沢発着所
 この日はここで下船した。10時40分着で約2時間の乗船の運賃は1,850円。下船者は私達を含め僅か3名。20名ほどの乗船者があったが、葛西臨海公園やお台場海浜公園へ遊びに行くのだろう。


 ここから三田線本蓮沼駅に至り、駅付近「うしのすけ」でランチを食し帰途についた。
 帰宅後調べたことだが、深川から千住までで、芭蕉が目にしただろう橋は僅か2本で、
両国橋(万治三年の1660年架橋)と新大橋(元禄六年の1693年架橋)と思われる。