今月末締切の原稿がふたつもあるのに余裕こいて映画見てきました。でもこれも創作意欲をアップさせるためなので俺は悪くねえ。
というわけで今日見てきたのはこれ!

予告を見たときからかなり面白いボディ・ホラーの予感がしたので早速見に行くことに。最近はなにげにホラー映画を見に行く率が高くなってる感じです。
主人公・エリザベスはかつて大人気を誇った人気女優。しかし、彼女にとっても50歳という年齢はどうしようもないものでした。若々しさは失われ、それに伴い仕事も少なくなっていました。
そんなとき、事故を起こしたエリザベスが検査を受けた病院の医師が一本のUSBメモリを彼女のコートに潜ませていました。USBメモリには、細胞分裂を急速に早めて新しい肉体を作り出すという新薬「サブスタンス」の紹介映像が。あまりに突飛な内容に一度はUSBメモリを捨てるエリザベス。しかし、プロデューサーが番組の人気のためにより若い女優を求めており、彼女を切り捨てるつもりなのを知り、紹介映像にあった電話番号に電話します。
翌日、自宅に届いたその「サブスタンス」を説明書に従って注射するエリザベス。意識を失った彼女の背中がまるで羽化するように割れ、その中から現れたのはより若く美しいもう一人の彼女・スー。スーとして再び全盛期の美貌を取り戻した彼女は、再びトップ女優として返り咲くのですが、若さに酔いしれるあまり「7日間ごとに入れ替わらなくてはいけない」というルールを破ってしまい……。
「失われた若さを取り戻す」というのはもう映画のみならずゲーテのファウストまで遡れる物語の古典的テーマであり、フィクションでも現実でも人間が抱かずにはいられない欲望の一つと言えます。
しかるに本作は、その失われた若さに執着し続けるエリザベスの姿を恐ろしく、そしてあまりにも悲しく描いた作品でした。
本作では要所要所で徹底してエリザベスの喪失の過程を描いています。まず冒頭の、アスファルトにはめ込まれたきらびやかな「エリザベス・スパークル」のプレートが、たくさんのファンに囲まれ、写真を撮られ、そしてひび割れ、汚れ、雪が降り積もっていくあの映像の悲しさたるや……。
こうした「失ったものを取り戻す」という構図は創作作品の古典的な筋書きのひとつですが、その取り戻そうとする対象が「若さ」である場合、まあ99.9999%はろくな結果にならないんですが、本作も当然というべきかハッピーエンドにはなっていません。
ではなぜハッピーエンドにならかったかというと、そもそも本作における「若さを取り戻す」は、「やり直し」ではなく「繰り返し」だからだと言えます。
「若さを取り戻す」と言えば若返りですが、エリザベスの若さの取り戻し方は直接的な若返りではなく、元の自分を母体としてより若く美しい自分を生み出し、そちらに意識を移動させるというもの。なので「老いて衰えた自分」は依然として存在しているんですね。しかも母体であるエリザベスと複製体であるスーは7日間ごとに機材を用いて血液を交換することで入れ替わりを行わなければ母体が急速に老化してしまうというルールがある。また、母体・複製体共に専用の栄養剤を駐車しなくてはいけないし、複製体を正常に保つためには母体から栄養を抜き取って注射しなくてはいけない。
このように、一見スーとして生まれ変わったかに見えるエリザベスは、常にこのルール上でしか自身を維持できない危うい存在となっています。そしてスーはだんだんと老いた自分であるエリザベスを顧みなくなっていく。同時にエリザベスもまた、テレビやポスターで毎日のように目にするk自分であって自分でないスーの姿、その視線に耐えられなくなっていく。
老いて衰えた自分を捨てて蘇ったかに見えたエリザベスは若く美しいもう一人の自分であるスーに嫉妬し、激しく憎悪する。一方でスーも老いて衰えた自分から逃れられず、その存在を隠し部屋の向こうに追いやってなかったものとして扱おうとする。結局のところエリザベスがやっているのは「サブスタンス」に手を出す前の自分と同じ、自己否定の一人芝居でしかないという。
これが残酷なのは、エリザベスとスーは完全に別個の人格ではないということ。クローンがオリジナルとは全く別の独立した人格に目覚めたわけでもなく、どちらもひとりの人間でしかない。これは「サブスタンス」の紹介動画や謎の幻聴でも「あなたは一人なのだ」と繰り返し繰り返し提示されます。本作のエリザベスとスーの間の対立、葛藤、嫉妬はすべてエリザベス・スパークルという一人の人間の裡で起こっている自己否定でしかないんですよね。
そしてこの「あなたは一人なのだ」が最悪の形で明確に実現するあのラスト。「サブスタンス」のルールを破り、薬剤を過剰投与した結果生まれたのは、エリザベスとスーが融合した醜悪な怪物「オンストロ・エリザス」。
もうこの訪れるべくして訪れたエリザベスの破滅の形であるエリザスがたまらなく辛くかわいそうで哀れなんだよな……。大晦日の特番で着るはずだったドレスを纏い、溶け崩れた自分の顔を隠すために若く美しかったスーのポスターを貼り付けたあの姿の痛々しさには、不気味さよりも痛々しさのほうが先に来ました。
そして最終的に彼女がたどり着いたのが冒頭のアスファルトにはめ込まれたプレートという……。そこで頭だけになった彼女は、きらびやかな金色の紙吹雪を幻視し、安らかな微笑みを浮かべて消滅していく。そして翌朝、その痕跡はあっさりと拭き取られて、そこには古びたプレートだけが残る。そう、プレートだけは残ってるんですよね……。
エリザベスを怪物化させたのは、若さを失った自分に対する自己否定、そして若さという絶対に必ず100%失われるステータスが彼女自身を追い詰めたことでしょう。若さを失って衰えつつあるエリザベスを容赦なく放り出すハーヴェイはひどい男であるのはもちろんですが、エリザベスが自身に向ける若さを失うことへの恐怖と執着はそれ以上に彼女自身を否定し続けていたのだと思います。
そもそもエリザベスは確かに若くはないものの年齢相応の美しさは持っているんですよね。にも関わらず若い頃の自分に執着し続けている。「年を取り損なっている」と表現してもいいでしょう。
その彼女の中に内面化された執着と自己否定が皮肉にも「理想の自分」としての皮を被って顕在化するというのがあまりにも悲劇。
かといって本作におけるエリザベスの悲劇がすべて彼女の咎であるかというのは乱暴というもの。彼女の周りにはもう見ていてどんなゴアグロ表現よりも辛い「否定」が満ち溢れています。前述のハーヴェイはもちろんのこと、「君は美しかった」という過去形のメッセージカード、いやらしい言動の隣人、一見彼女にまっとうな好意を寄せているように見えた昔の友人も思い返せばエリザベス本人の向こうにいる「スターであった彼女」を見ていたように思います。エリザベス自身を含めて、だれも「今の彼女」を見ていない。
そして冒頭のプレートに戻ってくるというラストは、死ぬ間際のひとときでもかつての栄光に浸れたビターエンドに見えて、結局エリザベスは同じところから出発して同じところで終わるしかなかったというバッドエンドにも思えました。
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