ミッドサマーが世間をガクブルさせる中、それに影響を与えた作品であるこれもしっかり上映するあたりサンサン劇場は相変わらず油断できません。
というわけで今回は「楢山節考」を見てきました。
本作については、以前ミッドサマーを見た後に調べてたときに影響を受けた作品のひとつということで名前は知っていましたが、よもやこのタイミングで上映されるとはこの海のリハクの目を持ってしても見抜けなんだわ。
内容はいわゆる姥捨山。
ミッドサマーでは、70歳になった老人がどうなるかといった姥捨山的な要素は作品の主眼というわけではありませんでしたが、本作ではまさにそこをクローズアップしたものとなっています。
でもやはり、方向性は違うとは言えミッドサマーと比較しながら見てしまいますよね。
ミッドサマーにおいては、「70歳を超えた老人は崖から身を投じ自ら命を立つ」をはじめとする奇習・奇祭は、作品のアイコンとも言えるあの夜の来ない白夜のもとでひらめく白い衣装とみずみずしい花束に象徴される「儀式」となっています。
対して、楢山節考における一連の姥捨ての行為は、人里離れた寒村でわずかな人口が生き延びるためにやらざるを得ないもの。そこには美しさやめでたさ、荘厳さはなく、ただただ生々しい生き残りの戦略があるだけ。そこには泥に塗れた生がありました。
劇中では常に家族が増えることによる食糧不足の問題がのしかかっており、2代に渡って食料を盗んできた一家が制裁を受け、生き埋めにされるシーンすらあります。
このシーン、村人が一気に家に押し入って一家全員を縛り上げて穴に突き落とすまでの狂騒が、穴に土をかぶせていくに従ってその狂騒がだんだんと静まっていくシーンはかなりぞっとしました。
さらにはある意味生き埋めや殺人よりも忌避感の強い獣姦すらも描かれており、かなりショッキングでした。
舞台となっている寒村は徹底的に困窮しており、そこには十分に満たされているものは何一つありません。
本作で「楢山参り」をすることになっている老女・おりんは自分の歯がまだ残っていることを恥じているというのがまた辛い。
そうした中で、本作の舞台となっている山の自然描写がもう嫌味なくらいに美しいんですよね。特にラストシーンの雪山の美しさたるや。
ミッドサマーとの相違点として感じたポイントもうひとつあって、それは「大勢か一人か」ということ。
ミッドサマーは「祝祭」なので、作中でのさまざまな儀式は多くの人々が見守る中で行われます。
対して本作の「楢山参り」は、村の掟として誰にも見られないように出発し、運ばれていく老人は声を発してはいけません。
これがまたミッドサマーと対照的で、ラストの山を行く道行きは、やっている本人たちも決して望んでいない、できることならこんなことはやりたくないという感情がにじみ出ていました。
もうこの山への道行きに別離の悲哀、親子の愛情などなど本作の肝となる部分が一気に凝縮されていたように思います。
そして、かつて歌で歌っていたとおりに降ってきた雪に掟を破って思わず語りかけてしまう息子・辰平と、あくまでも口を開かず、しかし息子にうなずきを返すおりんの姿には、一種の神々しさがありました。
――そこからの銭屋の忠やんが自分の父を無理矢理に谷へと突き落とすシーンを入れるあたりに、「この風習は神聖な儀式などではなくあくまで口減らし」「人間の生き汚さ」というようなメセージがあるような気がします。
さらに物語はそこでは終わらず、辰平が家に帰るまでをも描いています。これについては、「自分の親を自ら運び、山に放置して帰る」という異常な行為が、この村では先祖代々行われてきた当たり前の、日常の中の行為のひとつに過ぎないことを示していると感じました。自ら親を山に放置してくるという行いのあとにも、この村での生活は当たり前のように続いていく。
あまりにも残酷な締めくくりで本作は幕を閉じます。
舞台が日本であることも影響しているでしょうが、本作はミッドサマーとはまた異なる部分に効く毒、と言ったところです。