「まさか本当にそのまま見逃すつもりではあるまいの? 麗夢殿」
はっと振り向いた公綱は、小路の入り口、これから自分が戻ろうと思った方角に、一人の男が立っているのに気が付いた。
「全くなんて日だ。背後を取られてまるで気付かないなんて」
公綱は、右手の壊れかけた太刀を握りしめ、自嘲的につぶやいた。そのことに気を取られたのか、しばらく公綱は、男の言葉に知りたかった答えの一片が紛れ込んでいることに、気が付かなかった。
「貴方ですね。以呂波をけしかけたのは」
「けしかけたとは心外よ」
男は、ゆっくりと公綱に向かって歩きだした。霧に包まれて朧だった輪郭が、次第にはっきりと浮かび上がる。ほっそりとした顔の口元を、節くれだった指に持つ扇子で隠し、目だけが、人を小馬鹿にしたようなけんの強い笑みを浮かべている。
「その獣の役目は、夢守の姫君たる貴女の傍にあって常に守る事であろう」
娘は、男の口調に眉を顰めた。この男は、以呂波のことを明らかに下等な生き物と蔑んでいる。だが、男は娘が嫌がっているのを楽しんでいるように目を細めた。
「それよりも、そやつをこのまま帰してはならぬぞ」
伏せ目がちに、男は公綱をちらと見て、すぐに目を麗夢の方に返した。
「どうせよと言うのですか」
「無論」
男は、また公綱を見た。相変わらずその目は伏せ目勝ちだが、明確な悪意が込められた冷たい視線が、公綱の額に脂汗を浮かべさせた。
「秘密を知られた以上、このまま帰す訳にはいかぬ筈だが」
「始末せよ、と、おっしゃるのですね」
公綱は、少女の冷えきった語感に背筋へ冷水を浴びせられたほどに仰天した。男の言葉に込められた殺意にはまだ反発し、かなわぬ迄も一矢でも、と自らを奮い立たせることもできたのに、この年端も行かぬ少女の一言には、それすら不可能な、底知れぬ恐怖が潜んでいる。公綱は、男に対する反感を掻き立てて歯の根が鳴るのを押さえ込んでいたが、それもいつまで持つものやら、はなはだ心許なかった。そんな公綱の心情などおかまいなしに、男はまた目を細めて少女に言った。
「そのようにあからさまに申しては角が立とう。だが、姫君はどうやら我が思いに賛同頂けぬようじゃな。それならば、我が手を以て後の禍根を絶つと致そう」
男は、ぴしゃりと音をたてて扇子をしまうと、懐から一枚の短冊を取り出した。同時に公綱が太刀を構えるのを見て、男は嘲りもあらわに言った。
「無駄なことよ。何が生じたか、知る暇もなく黄泉路に送り込んでくれる」
公綱は、今度こそ絶体絶命か、と思い切った。この上は、武士として恥ずかしくない最後を究めるのみである。相手の仕草から、公綱は目の前の男が陰陽道の使い手と見た。となればあの短冊は超常の力を発揮する呪符の類だろう。それなら対抗する手段はただ一つ。相手が呪を放つより先に仕掛け、先手を打つよりない。公綱は即決すると、一瞬の溜めをおいて、脱兎のごとく飛び掛かった。
男は、公綱が窮鼠猫を咬む挙に出ることは、一応予測していた。これまでにも逃げ惑う者に追い打ちをかけ、必死の反抗を受けた経験も一度や二度ではない。だが男は、相手の力量を完全に読み違えていた。公綱は、これまで相手してきたような公家達の何百倍も素早く、かつ勇猛だったのだ。
たじろぐ間もなく、男は余裕の笑みを凍り付かせた。公綱は自分を見つめ、大きく見開かれたその目に、迷う事無く太刀を振り降ろした。だがその瞬間、予想外の手応えに、太刀の切っ先が宙を跳んだ。同時に公綱の身体が、毛むくじゃらなものに弾き飛ばされた。公綱はもんどりうって転がったが、すぐに立ち上がって半身の折れた太刀を身構えた。その先で以呂波が公綱をにらみつけていた。だが、はじめにやりあった時のような凄まじい殺気はまとっていない。どちらかというと不精不精という風な不貞腐れた態度に、公綱には見えた。
「以呂波」
以呂波は、娘の呼び掛けにさっと態度を改め、また元の位置、娘の傍らに身を移した。たちまちその背後が露わになり、公綱は、当面の危機が去ったことを知った。
第2章その4に続く。
はっと振り向いた公綱は、小路の入り口、これから自分が戻ろうと思った方角に、一人の男が立っているのに気が付いた。
「全くなんて日だ。背後を取られてまるで気付かないなんて」
公綱は、右手の壊れかけた太刀を握りしめ、自嘲的につぶやいた。そのことに気を取られたのか、しばらく公綱は、男の言葉に知りたかった答えの一片が紛れ込んでいることに、気が付かなかった。
「貴方ですね。以呂波をけしかけたのは」
「けしかけたとは心外よ」
男は、ゆっくりと公綱に向かって歩きだした。霧に包まれて朧だった輪郭が、次第にはっきりと浮かび上がる。ほっそりとした顔の口元を、節くれだった指に持つ扇子で隠し、目だけが、人を小馬鹿にしたようなけんの強い笑みを浮かべている。
「その獣の役目は、夢守の姫君たる貴女の傍にあって常に守る事であろう」
娘は、男の口調に眉を顰めた。この男は、以呂波のことを明らかに下等な生き物と蔑んでいる。だが、男は娘が嫌がっているのを楽しんでいるように目を細めた。
「それよりも、そやつをこのまま帰してはならぬぞ」
伏せ目がちに、男は公綱をちらと見て、すぐに目を麗夢の方に返した。
「どうせよと言うのですか」
「無論」
男は、また公綱を見た。相変わらずその目は伏せ目勝ちだが、明確な悪意が込められた冷たい視線が、公綱の額に脂汗を浮かべさせた。
「秘密を知られた以上、このまま帰す訳にはいかぬ筈だが」
「始末せよ、と、おっしゃるのですね」
公綱は、少女の冷えきった語感に背筋へ冷水を浴びせられたほどに仰天した。男の言葉に込められた殺意にはまだ反発し、かなわぬ迄も一矢でも、と自らを奮い立たせることもできたのに、この年端も行かぬ少女の一言には、それすら不可能な、底知れぬ恐怖が潜んでいる。公綱は、男に対する反感を掻き立てて歯の根が鳴るのを押さえ込んでいたが、それもいつまで持つものやら、はなはだ心許なかった。そんな公綱の心情などおかまいなしに、男はまた目を細めて少女に言った。
「そのようにあからさまに申しては角が立とう。だが、姫君はどうやら我が思いに賛同頂けぬようじゃな。それならば、我が手を以て後の禍根を絶つと致そう」
男は、ぴしゃりと音をたてて扇子をしまうと、懐から一枚の短冊を取り出した。同時に公綱が太刀を構えるのを見て、男は嘲りもあらわに言った。
「無駄なことよ。何が生じたか、知る暇もなく黄泉路に送り込んでくれる」
公綱は、今度こそ絶体絶命か、と思い切った。この上は、武士として恥ずかしくない最後を究めるのみである。相手の仕草から、公綱は目の前の男が陰陽道の使い手と見た。となればあの短冊は超常の力を発揮する呪符の類だろう。それなら対抗する手段はただ一つ。相手が呪を放つより先に仕掛け、先手を打つよりない。公綱は即決すると、一瞬の溜めをおいて、脱兎のごとく飛び掛かった。
男は、公綱が窮鼠猫を咬む挙に出ることは、一応予測していた。これまでにも逃げ惑う者に追い打ちをかけ、必死の反抗を受けた経験も一度や二度ではない。だが男は、相手の力量を完全に読み違えていた。公綱は、これまで相手してきたような公家達の何百倍も素早く、かつ勇猛だったのだ。
たじろぐ間もなく、男は余裕の笑みを凍り付かせた。公綱は自分を見つめ、大きく見開かれたその目に、迷う事無く太刀を振り降ろした。だがその瞬間、予想外の手応えに、太刀の切っ先が宙を跳んだ。同時に公綱の身体が、毛むくじゃらなものに弾き飛ばされた。公綱はもんどりうって転がったが、すぐに立ち上がって半身の折れた太刀を身構えた。その先で以呂波が公綱をにらみつけていた。だが、はじめにやりあった時のような凄まじい殺気はまとっていない。どちらかというと不精不精という風な不貞腐れた態度に、公綱には見えた。
「以呂波」
以呂波は、娘の呼び掛けにさっと態度を改め、また元の位置、娘の傍らに身を移した。たちまちその背後が露わになり、公綱は、当面の危機が去ったことを知った。
第2章その4に続く。
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