かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

死後生殖、親子じゃないならいったい何だというのでしょう?

2006-09-05 22:48:54 | Weblog
 バイクの後輪が気が付くと「つんつるてん」になっておりまして、新しいタイヤが届くまでのここ数日、いつパンクするかと冷や冷やもので毎日乗っておりました。スピードも抑えめ、走行中も路面状態に注意の大半をし向けて、段差とか危なそうなガラス片や小石を避けてひたすら祈りつつ走るというのは、燃費はよくなっているかも知れませんけど、精神衛生上は正直大変つらいものがあります。普段なら遠慮したい雨も今回ばかりはタイヤの減りが抑えられそうな気がしてうれしいくらい、倒錯した数日間を過ごしました。おかげさまで結局恐れていた事態は起こらず、無事新品のタイヤにし換える事ができました。それにしてもここ1ヶ月あまり、バイクのメンテナンスに次々とお金が飛んでいきます。何とか破産せずにやりくりしてますけど、今バイクでもPCでもどっか故障したりなどしたら、たちまちスッカラカンで次の即売会など夢と飛んでしまいます。せめて後1ヶ月、何もなく無事に過ごしたいのですが……、と考えていて思い出しました。来月はバイクの任意保険の切り替えでお金がいるのです。ああ、いつになったら懐に余裕ができるんでしょうね(苦笑)。

 さて、今朝の新聞で「死後生殖「父子」認めず」という大見出しに目が止まりました。何でも凍結保存した亡父の精子を使って体外受精し、出産した子供の父親を、死んでいる父親の子供として認知するよう求めた裁判で、法的な父子関係は認められない、との判決が出たんだそうです。どうも私には裁判官が何を言いたいのかよく判らないのですが、生物学的には確実に父親の遺伝子を受け継いでいる以上、その子が父親の子であることは疑いない事実であり、その父親が受精前に死んでいようがいまいが関係ないことなのではないのでしょうか? 精子と卵子を会合させて二つの異なる遺伝子セットを混ぜ合わせて新しい遺伝子セットを生み出すというシステムに則っている以上、どのような方法であれそれは生殖行為であり、それの倫理がどうのこうの、という議論は、私には滑稽にしか聞こえません。
そもそも死後生殖の倫理を問題視するのなら、生殖とは何の関係もない快楽追求のための疑似生殖行為や、「正統な」生殖行為の元誕生するはずだった生命を絶つ中絶行為の倫理というのは一体どうだというのでしょう? それに比べればよほど「正統な」生殖行為じゃないですか。
 生物は遺伝的多様性を高めることで様々な変化に対応しようと進化してきた訳で、そのために雌雄分かれてそれぞれの遺伝子セットを混ぜあうという今の大半の生物が基本戦略としている形を採用してきたのでしょう。人間もまたその戦略に則った生物の一つであり、その遺伝子混合方法を更に多様に進化させる事が出来るようになったのですから、そういう点では何十億年かの生物の歴史の中では、快挙ともいうべき能力を身につけたわけです。それが一体何故いけないのか。どうも私には、「死後生殖なんてよく理解できないから何となく気持ち悪い」とか、「今まであり得なかった新しい事は、どうも不安がある」というような雰囲気で判決を出したんじゃないか、という気がしないでもありません。第一、遺伝的に間違いなく親子関係にある間柄を、法律ごときニンゲンの浅知恵が親子かどうかを判断するなど、全くもって笑止千万ですよ。
 何を悩む事がある、遺伝的に間違いないなら下らないご託並べていないでさっさと親子認定すべし、だって親子だもの、と私は思います。

コメント
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