かっこうのつれづれ

麗夢同盟橿原支部の日記。日々の雑事や思いを並べる極私的テキスト

神仏を畏れ敬う心はまだ滅びていないとは思うのですが・・・

2005-12-25 23:17:57 | Weblog
 どうもこのところ休みになると生活が輪をかけて怠惰になって、昼近くまで寝てしまうぐうたらぶりになってしまい、ちょっと難儀なことだな、と頭を抱えております。なら早く起きろよ、と自分を叱咤したいのですが、寒い中、暖かい布団の中の心地よさは得も言われぬものがありますし、ぐずぐずしているうちに思ったよりもずっと時間が過ぎていて、8時過ぎ?と顔を上げてみれば、時計は無情にも11時を回っている事実を厳然と突きつけてくれたりします。こうして時間を無駄にすること自体はまあしょうがないな、という感じなのですが、眠りすぎると頭痛がしたり、食生活が不規則化して食欲が落ちたりと健康面ではあんまりよろしくない状況に陥ります。睡眠時間と死亡率の関係でも、眠りすぎは明らかにマイナス要因になって寿命を縮めるみたいですし、気持ちの上ではしっかり早起きして活動したい所なのですが、今一歩の気合いが足りないみたいです。やはり冬コミに行かない、と言うのが良くないのかも知れませんね。でもそれではただのコミケ中毒でしかなかったりするところが困りものですが。
 
 そう言う一日なのであんまり日記にするような話題もないのです。今かなり面白い本を読んでいるのでこの感想を書きたくてうずうずしていますけど、まだ読み終わってないので書くわけには行きませんし。そう思いながら新聞を繰っていましたら、地方版に掲載された今年の県内ニュース回顧、という囲み記事に目が止まりました。今年の正月に一万円の偽札を使った事件で逮捕者が出ているのですが、その犯人が使った場所というのが、関西各地の寺社だというのです。はて、そんな事件あったっけ? と思いつつ読んでみましたが、住吉大社や春日大社で使用したという事件が確かにあったそうです。何に使ったのかまでは記事には書いておりませんが、もしそれがお賽銭だったりしたのなら、一体何を願って投じたのだろう、と、その漫画的構図に苦笑いを禁じ得ません。そう言えば屋台で偽札が使われた、と言う事件があったような記憶もありますので、多分お賽銭などではないとは思いますが。いずれにしても、神仏に対して、あるいは神仏のお膝元で偽札を行使することに、この犯人は何の躊躇いも罪悪感も無かったのか、と言うことが、私には不思議です。いや、だからといってスーパーで使うのがいいというわけではないのですが、浄域で不正を働いたりして、罰が当たるかも、という不安は無いのか、というのが不思議の原因でした。こう書いてしまうと自分でも実に不合理で根拠のない迷信だと思うのですが、例えばゴミの不法投棄が頻発する場所に小さな鳥居を立てたら投棄が目に見えて減少した、というような話を聞いたりいたしますと、まだまだ日本人はそう言う神仏に対する畏れを心の奥底から捨て去っていないんだと思います。私はこういう心のありようを大切にしたいですし、戦後教育が合理性一点張りで神仏への畏れや敬いを迷信として片付けることに、大きな抵抗を覚えます。この犯人は神罰てきめんと言うことなのか、すぐ逮捕されて実刑判決をくらっているようです。人の心とは不合理なもので、それを道理に沿わせるために、かつては八百万の神々や仏がその倫理面を担保してきたのがこの国の歴史の一面だったのだと思います。それをないがしろにして、といって欧米で倫理を担保しているキリスト教のような一神教に宗旨替えするわけでもなくただ表層の合理性だけを迎え入れてしまったつけが、こういう「罰当たり」な事件に現れてしまっているのではないのでしょうか? 日本人が想ってきた「正しさ」のあり方を、改めて問い直す必要があるように思いました。

コメント
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